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三宅雪子議員に苦言 [2009年09月16日(Wed)]










 初登院の9月16日午前2時47分に
国会正門前に到着。コンビニで買ったサンドイッチを
朝食として食べるなどして、
開門までの約5時間を費やした。

 これが民主党の新人衆議院議員・三宅雪子さん(44)。

 秋田の先輩で、早稲田の先輩というご縁で
あなたの祖父の石田博英元労相(バクさん)にはお世話になったし、
お母様とは
早稲田の同じ政経学部政治学科の同期だったし、
ご尊父の三宅和助元シンガポール大使とは、
とても親しい関係で、バクさんの後を継いで
秋田1区から立候補する相談をした仲だった。

 時の安倍晋太郎外相に、日本の外相として事実上、
初めてのアフリカ歴訪を仕掛けて実現し、
一緒に数カ国を周ったこともある。

 和助氏が外務省アフリカ局長だったとき、
協力して「アフリカへ毛布をおくる会」を立ち上げ、
そこでは、森繁久也会長、
吹浦実行委員長、三宅事務局長という関係だった。

 そんなご縁のある先輩としての苦言を1つ。

「こういうお馬鹿さんはお止めなさい」。

健康管理をしっかりし、志を磨き、政策勉強に励み、
政治家としての経験を積んでもらいたい。

 バクさんも、和助大使も草葉の陰で
恥ずかしさで、がっくりしてますよ。
五木寛之氏と拙著@ [2009年09月16日(Wed)]











 熊本県在住のW氏から作家の「五木寛之氏が書いたものに、
キミの名前が出ているよ」と
エッセイ集『みみずくの宙返り』(幻冬舎)をお送りいただいた。

その中の「明治の戦争とその側面」と題する一編は
五木さんが、1993年7月11、12の両日、
日本経済新聞に掲載したものだ。久しく失念していたが、
この機会にご紹介したい。

      ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 もう25年以上もむかしのことになるだろうか。<朱鷺の墓>という
長篇小説を書くために、金沢の地元の新聞社の倉庫に
日参したことがあった。私がまだ金沢に住んでいたころの話である。

 その小説は、日露戦争の終わったあと、
金沢へ大量のロシア軍捕虜(ほりょ)が送られてくる場面から
はじまるはずだった。

 明治37、8年のころの金沢の雰囲気を知るには、
地元の古い新聞を調べるのがいちばんである。

新聞は世論をリードするために、
かなり好き勝手な偏向(へんこう)報道もするが、一方では
その立場と逆の真実も行間からおのずとこぼれだすところがあって、
そこがおもしろいのだ。

 そんなわけで、私はせっせとカビくさい資料室の倉庫に
朝から晩までこもりきりで、古新聞のページをめくって
過ごしたものだった。

 明治のころの日本政府および日本国民が、
捕虜となって内地に送られてきた敵国ロシアの将兵に
どういう態度をとったか、というのが、
そのときの私の関心事だった。

 一般には、当時の日本が大国ロシアを相手に
最後まで長期の戦争をつづけることは、実際上、
不可能だったといわれている。

それはたしかにそのとおりだったろう。最初に
強烈なパンチをあびせておいて、あとは
ロシアと利害が対立する欧米列強の調停を待つしかない
というのが政府と軍の判断だった。

死力をつくし、天佑(てんゆう)に期待して緒戦(しょせん)の勝利をかちとる。
そして当時の大国間の冷戦構造を外交によって
最大限に利用する、そういう期待が最初からあった
綱渡りのような戦争なのだ。

 そして、そのためには先進諸国への日本の印象が
重要である。残酷なアジア的野蛮国、というイメージは、
決してあたえてはならない。

ことに人権問題は慎重に配慮する必要があった。

つまり戦時における捕虜、市民、傷病者などの
取扱いの近代化である。

 日本側では、この点を重視し、
<ジュネーヴ条約>にくわえて<ブラッセル宣言>の内容を
徹底的に学ぼうとつとめたらしい。

 吹(ふき)浦(うら)忠(ただ)正(まさ)氏のユニークな労作
《捕虜の文明史=新潮選書》には、
そのあたりの事情が詳細かつ具体的に例をあげて
述べられている。以下、同書にそって
当時の事情をかいまみてみることにしよう。
                  (つづく)
クイズ雑楽王に今夜も [2009年09月16日(Wed)]



        







 クイズ雑楽王に今夜も回答者として出演します。

 テレビ朝日ですから、
東京周辺ではデジタルの5チャンネルです。

 放送は7時から2時間番組ですが、
私がチラっとですのは8時前後だとか。

 問題はこの旗のことです。

 国旗ブームというか、昨今、実に国旗についての問い合わせが、
多方面から沢山きます。いろいろな企画も進んでいます。

 国旗は国際理解の第一歩ですので、この番組もそうですが、
国旗のことでしたら、出演料なしで、何処にでも出かけます。

 私はほんとに国旗によって育てられたようなものですし、
国旗はいろいろなことを学べば学ぶほど、
知れば知るほど、奥が深いのです。

 テレビ番組への出演がそうした若い仲間を増やすことになればと
願っています。
旗と幟 [2009年09月16日(Wed)]











  旗と幟はどう違うのか?
「旗を揚(挙)げる」という表記が、
挙兵や新しくことを起こす意味であるのは、『平家物語』の
「義仲去じ年の秋、宿意を達せんがために、
旗を揚げ剣をとって信州を出し日」や『太平記』の
「京都にて旗を挙げんと企つる平家の余類供」などにあるとおりである。

  しかし、当時実際に掲げられた旗は
今の国旗のような横長のものではなく、
丈が長く幅の狭い布であった。

  最初は上端に横木などを入れて歳の先端に吊るす
「流れ旗」方式であったが、
後村上天皇の1350年頃、「乳(ち)付幟」が用いられるように変った。
すなわち、幟の横に、多くの紐多は布による乳をつけ、
竿に通し、立てて標識とするもの幟形式のものだ。

「幟」という字の「巾」は「細く長い布」つくりは「見分ける」の意。

  やがて、江戸時代にはこの幟が大流行し、
染色技法や製布技術の発達とあいまって、実にすぐれた、
芸術性の高い幟が作られるようになった。

  歌舞伎や大相撲の役者や力士を応援する幟として
今もその伝統が伝わり、さらには、自動車の宣伝、
大売り出しなどでPCを活用したインクジェット方式の宣伝幟として、
街中に溢れている。

  江戸時代にはこれに「朱の丸」をいくつか付けた幟が
幕府の領地(天領)からの年貢米を大坂や江戸などに運び込む
廻船(御城米船)専用の標識であった。

  御城米船は新造後7年以内の廻船が使用され、
年貢米と乗組員の食用米以外は積載せず、
乗組員は身元引受人の居る素姓の正しい者とされた。

  通航にあたっては港湾などでも優先的に扱われ、
万一、難破してもその積荷を奪うこと
は関係者全員が死罪になるほどの罪とされた。

 吉村昭は『朱の丸の御用船』は1830(文政3)年9月、
それをやってしまった志摩国波切村(現・三重県大王町)沖で起こった
出来事とそのために起こった村人たちの悲劇を描いた名作だ。
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