日露混住の至難さ [2009年07月27日(Mon)]
Aの前半、北方領土との 「ビザなし交流などを促進して」は大賛成です。
しかし、現状は予算を削られ、 独立行政法人北方領土問題対策協会も 15%の人員を減らされ、 事務局は都心から上野に転居を余儀なくされ、 20人弱の体制で東京と札幌の事務局を 運営しているという苦しい状況です。
私自身、「4島交流推進全国会議」のメンバーとして 過去16年間、 その拡充に努めてまいりましたが、 ほかにもさまざまな難問があって、 なかなか拡充は難しいというのが実際のところです。
次に「それぞれの国の法律がその国民に適用されるべし」 ということです。
早い話が、道路交通法で自動車が左を走るのが日本、 ロシアは右側通行なのです。車検も運転免許も違います。
衛生基準、建築基準、もろもろの資格、税制、 選挙法、教育、銃砲刀剣類の諸事・・・ 何から何まで日露間では違うのです。
ですから、「それぞれの国の法律がその国民に適用されるべし」 というのは、一見、「そうだっ!」と手を叩きそうですが、 非現実的かと思います。
「日暮れて道遠し」の間はありますが、 ここが、試練の場ではないでしょうか。
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領土問題は時間がかかるのです [2009年07月27日(Mon)]
さて、@のこと、アレクさんは、北方領土問題が 「解決されそうにもない」という話ですが、 どうしてアレクさんはそんなに急いでおられるのでしょう。
これこそ、ロシア側の思う壺ではないでしょうか。
世界の領土問題がさぁっと解決するという例こそ、 稀ではありませんか。
先週、スペインの外相がジブラルタルを訪問しました。 これは18世紀からの「未解決の領土問題」です。
アメリカとメキシコの間にリオ・グランデが流れています。 その中のエル・チャミザール(原意=猫の額)という中州の領有権は 83年もかかって解決しました。
冷戦時代は厳しい東西対立で、 ソ連から領土を取り戻すことは論外でした。
そして今でも、ソ連崩壊から18年、 領土を取り戻すにはあまりに短い時間ではないでしょうか。
北方領土の返還が実現しないことは残念ですが、 あせってはいけません。苦しくとも耐えることです。 努力と工夫と忍耐が肝要であると、私は考え、 自分に言い聞かせています。
私が東北ののんびり屋、だからでしょうか。 正論を貫いて解決するよう、 健康に気をつけて長生きしつつ、 日々、ロシア側の説得に努めています。 (つづく)
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領土共有・混住の難しさ [2009年07月27日(Mon)]
「アレク」さんからのコメントにお答えします。
まず、コメントはこういうものです。
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ユーラシア21は北方領土問題を解決するために 設立された研究所のようですし、 吹浦さんも理事長として 北方領土返還運動の活動家として有名です。
しかし、吹浦さんは本当に国益を尊重し、 日本人としての矜持を保持しようとするのでしようか。
今の状況ですと、この問題が解決されようもありません。
サハリンでの首脳会談の時に 独創的で方にはまらないアプローチで解決しようという メドベージェフ大統領の提案が 一応日本側の納得も得ました。
そこでこの問題でいつまでも睨み合うよりは 両国の利益に適う柔軟なアプローチでの解決を 探るべき時代になってきたのではないでしょうか。
この領土問題をチャンスとみてうまくやれば、 むしろ両国関係の発展に役に立つかもしれません。
具体的な形はまだ思い浮かばないけれど、 ビザなし交流などを促進して それぞれの国の法律がその国民に適用されるというのが まず想像できます。
領土を共有するとするこの案が 恐らく国際法上前代未聞のものですが、 国益が複雑に絡み合っている今の時代にこそ 独創的なアプローチで解決する機が熟しているのでは ないでしょうか。
北方領土を返せとばかり叫ぶよりは この問題をチャンスとみて 地域経済の発展に役立てなければならない 時代になったような気がします。
それこそ日本とロシアの国益に適っています。
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ご趣旨は、
@今の状況ですと、この問題が解決されようもない、 Aビザなし交流などを促進して、それぞれの国の法律が その国民に適用されるべし、
ということではないかと受け止めさせていただきました。
まず、「領土を共有するとするこの案が 恐らく国際法上前代未聞のもの」ということですが、 日本とロシアは領土共有を経験しています。
1855〜75年まで、樺太(サハリン)を「雑居地」、すなわち、 混住の地として20年間、扱ったという歴史を持っています。
しかし、この間は、双方の人口が少なかったに関わらず、 紛争が絶えず、また、囚人などが次々と送られてきて ロシアの勢力が急増し、日本は方法のていで、全千島を 受け取る代わりに樺太を放棄したのです。
このとき、代償として全千島を取得できたことは、 当時の榎本武揚駐露公使の健闘大なるものが あったといえるでしょう。
ほかにも世界史にはいくつかの事例がありますが、 混住が成功したケースはないといっても過言ではありません。
特に日本とロシアでは、経験してきた歴史、文化、宗教、言語、 社会慣習、法制度、その他ほとんどあらゆる分野において、 際立って格差があり、混住は 紛争の起因にさえなりかねないという専門かもいます。 (つづく)
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