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ロシアの対亜、対日外交(完) [2009年07月01日(Wed)]




  ロシア国旗





 ロシアは
2012年にウラジオストクで開催されるAPEC首脳会議に
大きな比重をおいている。だだ、
石油価格の低迷、金融危機、ルーブルの下落で
当初予定されていた公共工事によるインフラ整備も
かなり縮小されつつある。

 加えて、ソチでの冬季五輪に伴う大型公共工事に
技術者や労働者が早くも移動しつつある。

 ロシアにとっては、ヨーロッパ地域があらゆる意味で
最重要、本拠地である。

 シベリアは広すぎるし、
その先の極東、沿海州、サハリン、千島はまさに辺境の地。

 そうしたアジア地域のロシアの維持・開発がロシアにとって
死活的な課題だ。

 日本という、全ての点においてロシアを補完することのできる
すばらしい国があることを、
果たしてロシア人は現実的に考えることができるのだろうかと、
疑問を持つことがある。

 対日外交をどう展開するのが、
自国の真の国益にかなうのか。

 ロシアが、実質のともなわないこともありがちな
国威発揚を少し抑え、
日本を正面にすえ、
迷わずに、自信を持って領土問題に取り組めば、
ロシアのアジア外交にとって
初の大きな成果をあげることが出来るのだ。

 そのあたりを、日本側は官民挙げて説得する必要があろう。
                                  (完)
ロシアの対亜、対日外交C [2009年07月01日(Wed)]




  ソ連国旗








 ベトナム南部のカムラン湾は、
東南アジアきっての天然の良港であり、
バルチック艦隊の最後の寄港地にもなった。

 1973年、カムランで私はある古老とあったことがある。

「まだ15歳にもならなかったが、日本に向うロシアの艦隊に
食糧を積み込む仕事をやったことがある。同じアジアの国が
こうやって滅ぶのかと思った。ものすごい数の
真っ黒い軍艦だった。
それがね、日本に全部沈められたんだってね」。

 全部ではないがほとんどを撃沈ないし大破し、
バルチック艦隊は壊滅したのであった。

 カムラン湾は、植民地時代はフランスが、
日露戦争ではロシアのバルチック艦隊が、
第2次対戦では日本の連合艦隊が、
再びフランスが戻り、
そして米第7艦隊がベトナム戦争で一代根拠地とし、
その後、ソ連が借用し、
今、ようやくベトナム人のものになっている。

 ソ連はベトナム戦争終了後の
1979年から25年間、カムラン湾の租借を申し入れ、
2002年までソ連・ロシアの太平洋艦隊基地となったり
その小部隊が駐留していた。しかし、
今はそれも雲散霧消したままだ。

 数年前、ラオスで外務省の高官たちと会談したが、
トップクラスはフランス語、
局長級はロシア留学組み、
その下はベトナム帰り、
さらに若い人は英語・・・ラオス近代史の悲劇を見る思いがした。

 インドとソ連の関係も以前は
しっかりとした紐帯で結ばれていたが、
いまやそれは大きく変った。

 1979年末からのアフガニスタンへの侵攻は、
敗北で終わり、それがソ連崩壊にも大きく影響した。
                         (つづく)

ロシアの対亜、対日外交B [2009年07月01日(Wed)]




リヒアルト・ゾルゲ。1944年11月7日(ソ連革命記念日)に
東京の巣鴨拘置所で処刑された。














   日本では最悪のスパイ、かの国では切手になる救国の英雄








日ソ中立条約(1941年4月)で、
ロシアは日本との関係を大きく改善した。

スパイであるリヒアルト・ゾルゲは同年10月に逮捕されたが、
そのもたらした情報と中立条約の締結で、
ソ連は、東に釘付けになっていた軍の
対独戦への転用を図ることが出来、モスクワ防衛に成功した。

戦局に大きな影響をもたらしたのは、ソ連の対日外交の大きな成果と
数えていいだろう。また、ヤルタ協定を厳秘として、
第二次世界大戦の終戦間際になって
中立条約の有効期間内であったに関わらず、
満州や南樺太に侵攻した。

この参戦にともない、満州、樺太、千島で残虐行為と略奪を行い、
60余万の日本軍将兵を長期間時刻に抑留し、酷使して、
10%もが命を喪うという残酷な歴史を刻した。

戦後、中国、そして朝鮮半島の北半分に親ソ共産党政権を樹立し、
ベトナムからフランスを駆逐して、北半分に同様の政権を樹立し、
これを支援してアメリカ軍を撤退させた。しかし、
西原先生も書いておられるように
朝鮮半島に国連軍を派遣するか否かという瀬戸際で、
ソ連は不可解にも安保理決議に加わらなかった。

中国とはその後、長い間、厳しく対立し、挙句は、
珍宝(ダマンスキー)島や新疆ウィグル地区で
軍事闘争までした(1969年)。

今、中国も、北朝鮮も、ベトナムも
ロシアの支配や影響力からはほど遠い関係になり、
ロシアは中国からの「人口圧」をひしひしと感じているほどだ。
                            (つづく)
ロシアの対亜、対日外交A [2009年07月01日(Wed)]



 18世紀末のロシア船来航(1778年)からペリー来航(1853年)までの
異国船の来航状況を示した概念図。漂着船や沿岸を通過した船は
含まれない。異国船が北方領土周辺、北海道北端、江戸周辺、
長崎、沖縄方面に集中していることが分かり易く描かれている。
 『たまくず―横浜開港資料館総合案内』より。











      文化元(18041)年、ロシア使節ニコライ・レザノフが長崎に来航して
    通商を求めた。
    「甲寅長崎江魯夷入津図」(鳥取県立博物館蔵)






また、西原 正先生は、
おそらく紙数の不足で
あまり実例をお挙げにならなかったのであろうが、
日露戦争後も、ロシアはアジアでほとんど成功を見ていない。

 話が進みすぎた。まず19世紀からのロシアと
東アジアとの関係を大雑把に振り返ってみたい。

まず、日本との関係において。

この図のように、ロシアの船は19世紀になってから実に多く、
わが国の北辺に来航し、幕閣の宸襟を悩ませた。
幕府のその対応に苦慮し、
帰国した大黒屋光太夫はじめ漂流民から詳しくロシア事情を聴き、
ラクスマンをはじめ開国を求めるロシアからの使節は
ことごとく追い払った。

こうしてロシアはアメリカのペリーに和親条約締結(1854年)で
ほぼ1年、先を越され、
プチャーチン提督は乗艦が安政の大地震で沈没するという不幸に
見舞われまでした。何とか、日魯通好条約は締結できた(1855年)が、
折からのクリミア戦争に巻き込まれ、
ロシアの太平洋艦隊は英仏両国の艦船に酷い目に合わされた。

このあとクリミア戦争の敗北に伴う財政難から
1867年、アラスカをアメリカに売却した。アメリカは
720万ドル(当時・1エーカー=約4047平方メートルあたり
2セント・約100億円)で保冷庫を買ったといわれたが、のちに、
アラスカでは金鉱が発見されたり、
豊かな資源と安全保障上の見地からアメリカが
大いにトクをしたことが明らかになった。

雑居地と決めたサハリン(樺太)から日本を
追い出したのはロシアにとって成功だが、
代わりに全千島を日本に引き渡した。
「千島の奥も沖縄も 八州のうちの護りなり」(「蛍の光」の4番)と
歌われたように千島全部が平和裏に
日本の領土になったのである(1875年)。

その後、日本は英国と軍事同盟を結び(1902年)、
極東・東アジアにおけるロシアの進出に備えた。

日露戦争で満州の権益を失い、
シベリア出兵では大きな損害をこうむった。
                              (つづく)


ロシアの対亜、対日外交@ [2009年07月01日(Wed)]




     現在の日本の領土






安全保障問題研究会(会長=袴田茂樹青山学院大学教授)の
『安保研報告』(2009年6月23日)に、
尊敬する西原 正(まさし)平和安全保障研究所理事長
(前防衛大学校校長)が
「北朝鮮を巡る中ロの競合は日本に有利」と題する巻頭言を
書いておられる。

その中で、西原先生は
「自信に欠けるロシアのアジア外交」として、
「ロシアは常に迷いながらアジア外交を進めている感じがする」と
喝破しておられる。

特に、最近の北朝鮮への制裁問題を論じ、
「ロシアのアジア外交における消極性の原因は
どこにあるのだろうか。それは、ロシアが
アジア太平洋に関心を持ち始めた19世紀の半ばから
基本的なところで外交に成功して来なかったからではないか
と思われる」としておられる。

 まったく賛成、同感である。

 私はその原因が、
ロシアの主要部からあまりに遠い極東やアジアの出来事については、
かねて、ロシア人の首脳のみならず、国民一般が
歴史的にこの問題を正面にとらえたり、
正当に重要性を理解してこなかったのではないかと思っている。

 さらに読み進むと、
「日露戦争での敗北に始まり、
第二次大戦後の日本分割占領の失敗、
朝鮮戦争での国連軍(事実上の米国軍)の阻止失敗
(安保理ボイコットという外交的失態)、
中国との対立そして武力衝突、日米同盟、日米中による
対ソ牽制など、ロシアはアジアに足場を築くことに
ことごとく失敗してきた」と説いておられる。

そして、わずかな成功例として、西原先生は、
日中友好条約に対抗して締結した1978年11月のソ越友好協力条約と
1998年にアジア太平洋経済協力(APEC)会議の
メンバーになったこと、
1994年の東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF)の
構成国になったことくらいであろう、とし、
しかも、それでいながら、その中でもロシアはぱっとしないとしている。
これまた異議がない。

ただ、私はロシアの極東政策やアジア外交野失敗が
「日露戦争での敗北に始ま」ったかというと、
多少の違和感を覚える。
                                  (つづく)


田中康夫さん、おかしいよ [2009年07月01日(Wed)]

























 解散・総選挙も近くなり、まちのあちらこちらに
政治家や政党のポスターが貼られている。

 中でもこのポスターは実に気に入らない。

「日の丸」に赤い点をつけている。
日本の「日」という字をもじりながら
「日の丸」黒枠で囲んでいるつもりかもしれない。

 こんな政党を信じられるか。

 この人がある県の知事をしていたとき、
国旗国家法が制定されてもなお、
県庁にも、県議会にも国旗は掲揚されていなかった。

 全国で最後に掲揚した県である。

 田中さんよ、
「おかしいことは変えていこう」よ。
北方領土、早稲田生の感想G [2009年07月01日(Wed)]








     現行のサハリン州旗。北方4島を州旗に抜き出している。
   2月にユジノサハリンスクで開催された麻生・メドヴェージェフ
   会談でも、日本側は会談場にこの旗を掲げることを認めなかった。
   ユーラシア21研究所が主催している「サハリンフォーラム」(通算
   11回開催)でも一度も認めず。このため開催が絶望的になったことも
   あるが、屈しなかった。その12回目が9月、日本財団ビルで
   開催される。







 北方領土の問題が起こっていることは知っていても、それについて詳しく話を聞く機会がなかったので良かった。北方領土にはロシア人が多く住んでいるが、もし四島が日本のものになった場合、その人々はどうなるのでしょうか?
                                (男子学生)

 ロシア側から共同統治等の歩み寄りに近い意見があることに驚いた。
                                 (男子学生)

1A073017-9 北方領土問題いついて詳しく聞いたことがなかったので、興味深かったです。
 そもそも、北方四島をなぜ日本は返還してほしいのか、返還によるメリットは何なのかよく分かりません。
                               (女子学生)

 北方領土についてはロシアの立場が何ですか?その理由は何ですか?だって、国際法から見たら北方領土は返還しない理由が無いでしょうか?
                             (中国人男子留学生)

 外国人ですから、千島のことについて詳しくないけど、日本人も住んでいないのに、なぜ四島を返還させたいのかということが知りたいです。石油あるかな?!
                             (中国人男子留学生)


     ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

  以上で、6月15日に私が早稲田大学で北方領土問題について講義したことに対する、一部学生(無作為抽出)の感想を終える。

北方領土、早稲田生の感想F [2009年07月01日(Wed)]







  「択捉」(一部)。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。





 北方領土問題を考えると、英国と香港との関係を考えてしまいます。香港は99年の租借と一般には見られていますが、九竜半島部は国際法上返還する必要は無かったのに、サッチャー政権は、英国の汚名をそそぐ為に返還に到りました。ロシアもそういった恥の文化のようなものは無いのか、そして日本のプライドを見せてほしいです。
                                 (男子学生)

 日々生活する上であまり北方領土について考えなかったので、今日のお話はとてもためになりました。今まで北方領土ではロシア人が多く住んでいるので返還は無理と思っていましたが、理論と日本がとても優位な立場であることを知りました。もっと両国がこの問題に対して正面から向き合い、解決していく必要があるなあと思いました。
                                 (女子学生)

 日本が国家の尊厳と矜持を持って焦らない事が大事というのは少し意外な気がしました。しかし、ロシアの返還事例などをうかがって、希望があるように感じました。
                                (男子学生)


 北方領土問題に関して、相手がロシアということで難解だと思っていたが、今日の講義を聞いて異なるアプローチ方法を用いることによって長期的にはなるが、問題解決の糸口を見つけられるのかもしれないと思った。むしろ、北方四島が日露友好交流の手段となるように、争いではなく平和的解決を求めたい。
                                (女子学生)



北方領土、早稲田生の感想E [2009年07月01日(Wed)]






   「択捉」。挿画は
石田良介画伯の特段のご厚意で
掲載させていただいております。
禁無断転載。





 北方領土問題について、基本的な背景や、様々な返還論をまとめて講義していただき、知識があまりない私にも分かりやすく理解できました。課題は多く、解決までの道のりは長いと思われますが、一番大切なのはやはり両国の相互理解と信頼を強めることだと考えます。
                                (女子学生)

 北方領土問題に関しては小学生のころから授業で教わってきたことですが、詳しく学ぶ機会がなかったので今日知ることができてよかったです。
                                (女子学生)

 北方領土問題はとても重要な問題だと思いました。
 元々日本の土地ではあったし、日本に還さなければならないと思いますが、現在住み四島を故郷としている人がいることは事実なのでその人達から故郷を奪い同じ悲しみを与えることになると思いました。やはり保障や話し合いをじっくりすることが大切だと思いました。
                               (女子学生)

 北方領土をめぐって長年の交渉や様々な返還の妥協論があることが理解できた。しかし、歴史的にも国際法上も日本は北方四島に対して譲れない立場であるので、今後も四島返還というラインを維持して交渉していかなければならないと思う。
                               (男子学生)
北方領土早稲田生の感想D [2009年07月01日(Wed)]





「択捉島にて」(部分)の挿画は石田良介画伯の
特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。






 6月15日に、早稲田大学政治経済学部の
「現代国際政治経済論」の講義で「北方領土問題」を
取り上げた。

 これについての感想文を無作為に抽出して、
これまで4回紹介した。

 若い人たちがこの問題にどんな関心を持ち、理解しているかを
読み取ってほしい。

   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 普段、メディアなどではあまり扱われない話が聞けてとても興味深かった。政治的経済的に価値観が違う国が、共約することは不可能のように感じたが、ソ連崩壊のような過去の事例からも、可能性は多いにあると思いました。
                          (男子学生)


 北方領土に関する話は、タブーのような扱いを受けている印象を持っていましたが、今回のようなスピード感のある率直なお話を聞けて、とても感動しました。領土問題は、気を長くもって、長期的に解決していくべきだと思いました。
                          (女子学生)


 「北方領土問題」というのは何度か耳にしたことがあったもののあまり身近な問題ではないので特に意識したことはなかったが、今回の講義を通じて、これが歴史上非常に深い問題なのだということが分かった。
                           (男子学生)

 吹浦さんのおっしゃる通り、四島返還の時期は同時の必要は必ずしもないが、四島一括返還は条約締結をして約束すべきだと思う。
                           (男子学生)



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