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近衞忠W日本赤十字社社長 [2009年02月08日(Sun)]






           近衞忠W日赤社長。奥は吉備健氏。




 畏友・近衞忠W日本赤十字社社長は
なかなかの才人である。

実兄・細川護煕元首相が
陶芸や中国文学に秀でているように、
近衞さんも芸術、
特に声楽(バス)にはなかなかの実力を持ち、
何度も重唱した経験からその力量はよく知っている。

昨年は、なんと帝国ホテルでの
「六本木男声合唱団」のディナーショウで
指揮者も務めた(これは私にもいささか驚きだった)。

 しかし、なんといっても魅力的なのは
当意即妙のスピーチ。同じ学習院出身の
某首相の単に軽いだけの話術とは雲泥の差。

 めったに書いたものは読まないが、
ルビなしで読み間違うなどということは
ありえない、教養豊かな人。

 きょうの「橋本祐子先生生誕100周年のつどい」では、
スピーチの最後を「びしっ」と締めるものの、
終始、品のいいユーモアの連続で、
この「近衞節」だけはどうしても真似ができない。

「ハシ(橋本祐子)先生の功績はいろいろあるでしょうが、
なんといってもこれだけ多くの
“人道のクラスター爆弾”を入念に拵えたというのは
すごいことです。みなさん多方面で大活躍しておられるが、
中には不発弾もあるし、
突然、暴発するという“子爆弾”もあるようだ」。

 昨年、軍縮の最大の成果は
このクラスター爆弾の禁止であったことを、
実に巧みに話に取り込むのである。

 日赤の式典、看護大学の卒業式など、
これまで赤十字関係の公式の場で、
歴代の社長など幹部は、
「役人より役人的」な挨拶しかできなかった。

 それをこの近衞忠W社長は、
見事に転換した。

しかも、
赤十字赤新月社連盟の副会長として、
諸外国にあっては英語とフランス語で、
聴く者を唸らせ、
感心させ、感動させるスピーチをするのである。

 率直に言って、
日赤の巨大な組織・機構の改革は
未だ「日暮れて道遠し」の感なしとしない。

それでも、このすぐれたセンスと指導力で、
20年前とは大きく変わっていることを実感する。

 五摂家筆頭の家格、まわりの環境、受けた教育など
いろいろあろうが、
若いころから特別親しかった私に言えることは、
この人、この領域になるまで、
見えないところで実に、
大変な努力を重ねているということだ。

 少しでも真似をしようとするなら、
私もその倍の努力をするしかない、
といつも思う。

 これからも兄事したいと慕う先輩の一人である。
生誕100年の方々 [2009年02月08日(Sun)]




               











 
 老若男女、善男善女(?)、美男美女(???)が集まった
恩師・橋本祐子先生の生誕100年の集い、
今朝になって、「先生と同じ1909(明治42)年生まれの人」には
どんな人がいたのかとにわかに気になって、年表を繰ってみた。

 今年も各界さまざまな、個性的な人たちがそうだった。

  橋本祐子先生と親交のあった秩父宮勢津子妃殿下をはじめ、
作家では、松本清張、太宰治、
「俘虜記」の大岡昇平、「李陵」の中島敦、「時雨の記」の中里恒子、
「フクちゃん」の横山隆一・・・、

 俳優では、上原謙、田中絹代、11代団十郎・・・
 作曲の古関祐而、クラリネットのベニー・グッマン、
  
 国際場裡では牛場信彦元外務事務次官、
ミスター・ニェットのアンドレイ・グロムイコ、

 学界では、社会生態学者ピーター・ドラッガー、
そして美容の山野愛子、薬品販売の松本キヨシ・・・

 橋本先生はそういう世代の人なのだ。

 1941年生まれの私、時には自分の世代を
振り返ってみようと、思う。

恩師の生誕100周年 [2009年02月08日(Sun)]



      
         











 恩師・橋本祐子(さちこ)先生の生誕100周年の会が、
先生の誕生日である2月8日、
日本青年館で開催され、約100人が参加してくれた。

 青少年赤十字の団員、青少年赤十字の指導者、
日赤語学奉仕団の団員、日赤本社ボランティア、
青年の船の関係者、車椅子バスケットボール関係者、
日赤看護婦経験者、日赤幹部看護婦研修所指導者や元研修生、
日本赤十字社本社・支部職員、
献血運動関係者、中央青少年団体連絡協議会幹部、
アンリー・デュナン教育研究所幹部など、
生前に橋本先生が決定的な役割を果たした組織の関係者だ。

 そして御親戚も数名の方がお越し下さった。

 さらに、先生を謦咳に直接、触れたことのない
ニューフェイスの外国人も二人、
来てくれた。

 また、遠くは、
トロント(カナダ)からエイデルマン敏子、
テキサス(米国)からカールトン千鶴子、
インドネシアから森井克彦のみなさん、
国内からでも佐賀から樋口浩康くん、
山形から江口源助、
米沢から大橋久三郎、
そして秋田から山谷浩二の各先生がお越し下さった。

 山谷先生はわが母校・秋田県立秋田高校の
青少年赤十字の指導者で満80歳。

 この先生がいなければきょうの私はない。

 すなわち、高校2年の時、
この先生が私を選んで、
三重県伊勢市での
第3回青少年赤十字スタディセンター参加の機会を
作ってくれなければ、
当時、日本赤十字社青少年課に勤務しておられた
橋本先生に出会うこともなかったのである。

 きょう、私は司会者兼発起人代表を務めた。

 それにしても、名簿整理の悪い私から直接、
連絡できた人はほんのわずか、あとは、
「相互にメール、電話などでお知らせいただきたい」
「出席予定者はブログで書く」
としただけで、1994年の葬儀以来の
顔合わせができたというのは、
「国際マフィア」と陰口?を叩かれるだけのことはあると、
再認識した。

 きょうの会合では、最初に、
本来なら、当然ここに集っているであろう先輩、
仲間たちで早世された方々に黙祷を捧げた。

 橋本先生が去って15年、
この間に、まるで先生が呼び寄せるかのように、
坂野昌男、森川啓介の先輩、
そして、私より若い丸山一郎、浜本勝行、
高島和子、酒井直子ほかのみなさんが逝かれた。

 これを思うと、声も沈み目も潤みがちになる。

 しかし、私がこの会を思い立ったのは、
先生の生誕100周年を祝おうという気持ちからである。

 ここは気分を変えて、
先生の誕生日にふさわしくと、
「Happy Birthday」をみんなで歌った。

 そうか、ろうそくを1本でも、10本でも、
いや100本立てておくべきだったと
わが想いの至らなさを、途中で思った。

 バースデイ・ケーキだってあってもよかった。

 こんな素晴らしい出会いを、15年経ってなお、
作ってくれた先生なのだから。
               (つづく)
横手は「かまくら」の町<下> [2009年02月08日(Sun)]







  いいですよね、こういう風景。観光ポスターから。















    かまくら体験室と一般展示室の温度表示板。





















 入口でこれを着用して「かまくら体験室」に入る。
 「若い」、(もう一度「若い」)私はスーツ姿で体感した。








 横手は本来なら豪雪地帯。しかし、
今年は暖冬で、雪が少なく、
あちらこちらでアスファルト道路や
夏になると緑地になる公園の構内とか空地に直接、
雪の山が築かれていました。

 下に雪が少ないのと、寸法が全部同じというのは、
少々味気ないのですが、それは、
今では子供たちが作るのではなく、
「かまくら職人」という、
いわばプロが請け負って機械的に
建設するからなのだそうです。

 今年は、先月訪れた札幌でも
「雪まつり」の雪が不足で、
山の方から運搬してくると言ってました。

おまけに雨にまでなって、
いまごろどうしているのでしょう。

 横手には「かまくら館」という観光センターがあり、
室温マイナス14度というところに、
「どんぶく」という綿入れの着物を羽織って
入ってゆくのです。

そこでは、年中、「かまくら」を
見ることができます。

 西麻布のそんな「アイス・バー」を思い出してしまいました。

 私が「ご幼少の砌」には、
秋田市でも屋根から雪を下ろしたりして、
よく、兄たちと「かまくら」を作ったものです。

 雪が少なくなったし、
年々、冬が過ごしやすくなってきたことを、
秋田の人たちは、
「うれしくも悲しくもある」
「農作のことを考えると喜んでいいのやら」といってました。

 それでも表に出ると、結構寒いです。
雪国育ちの私のからだもなまったのかなぁ。


「かまくら館」をでてからいただいた、
アツアツの白玉ぜんざいが
おいしかったです。
横手は「かまくら」の町<上> [2009年02月08日(Sun)]







これが典型的な「かまくら」の風情。
観光ポスターから。











  2月4日にはまだこのような雪山だけでした。











    2月14日からの「かまくら祭り」には全国から観光客のみなさんが・・










   「かまくら館」では一年中、「かまくら」を見ることができます。








 秋田県横手市、といっても他県の方は
あまりご存じないようです。

 平成の大合併もあり、
秋田県で第2の都市、人口は10万を数えます。

 東京からは東北新幹線で盛岡経由大曲で下車、
奥羽本線で30分ほどで着きます。横手盆地のど真ん中、
湯沢、角館といった「あきた美人」の「産地」に隣接、
もとい、山地のど真ん中に位置しています。

 かつて、
石坂洋二郎の代表作『山と川のある町』の
モデルとなったところで、
その記念館もありますが、
当時も今も「かまくら」で知られている町です。

あれっ! 「かまくら」をごぞんじない?

さもありなん、日本も広いのです。
「雪の降る街」ばかりではないですよね。

「かまくら」とは、高さ3メートルくらいの雪室で、
中に水神様を祀り、
その前で子供たちが甘酒を飲んだり、
お餅を焼いたりという
雪国ならではの風物詩です。

 今年も100を超える「かまくら」が設置され、
2月14、15の両日の「かまくら祭り」には、
全国から大勢の見物客があつまってくるようです。

 2月3、4の両日、講演のためこの横手市をを訪れました。
                        (つづく)
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