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源氏物語と隅田川<下> [2008年11月03日(Mon)]







   「春爛漫」、挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
掲載させていただいております。禁無断転載。






件(くだん)の短歌が出てくるところは、
『源氏物語』の「胡蝶」の巻、
六条院の宴での出来事が見事に描かれているところだ。

 そこで、今回あらためて、
日本古典文学大系15『源氏物語』(山岸徳平校注。岩波書店)に
あたってみた。

●2、3番にも源氏の連想が

「三月の二十日あまりの頃ほひ、
春の御前の有様、
つねより殊につくしてにほふ花の色・鳥の声、
ほかのさとには「まだ古りぬにや」と珍しう、見え聞ゆ」と
原典は書き出している。

田辺さんの『新源氏物語』ではこれが、
「三月の二十日すぎ―もう春もたけようという頃なのに、
ここ六条院の春の御殿の庭は、
いまなお、盛りの美しさだ。

ほかの御殿の人々は、庭の木立や、
池の中島や花園の匂やかさなど、
遠くからかいま見てあこがれていた」
となる。

 高校の国語乙・古文を履修しただけの私には、
遺憾ながらこのあと、
原典に細かくあたるうえでの十分な古典読解力と
根気がない。

そこで、原典も参考にしながら『新源氏物語』で、
この短歌の詠まれた情景を見てみよう。

  源氏36歳、秋好中宮27歳のこと。

源氏はちょうどお里帰りをしている中宮に
春景色をお目にかけてお慰めしたいと、
中宮方や紫上(28歳)方の女房たちを集め、
唐風に舟を飾り立て、
舵取りの童も、掉さす童も
髪はみな、みずらに結わせ、
唐風の装束をさせた。

「こなたかなた、霞みあひたる梢ども、
錦をひきわたせるに、
お前のかたは、はるばると見やられて、
色をましたる柳、枝を垂れたる、
花もえも言はぬ匂ひを散らしたり。

ほかには盛りを過ぎたる桜も、
今さかりにほほゑみ・・・」。

  まさに『花』の2番以下を連想させるではないか。
『新源氏物語』でさらに、この情景を紹介すると、

  あちこちの梢は霞に煙っている。
ここからは春の御殿の庭がはるばると見わたせた。

青々と緑の糸を垂れた柳、紅い霞のような花々。
よそでは散った桜も、ここでは今が盛りだった。

『新源氏物語』では女房たちが
あまりの美しい光景に
「時を忘れますわね、こんな所にいますと」
「ほら、不老不死の仙境という蓬莱山(ほうらいさん)とやらは、
こんな景色ではないでしょうか」などと会話している。

「眺めを何にたとうべし」を連想していいのではないか。

  この後、評判の玉蔓(たまかずら)(22歳)が、
にわかに貴人たちから懸想文(けそうぶみ)を
寄せられる。

そんな章「胡蝶(こてう)」の始めの部分だ。そして
この後すぐ、六条院における春の御方、
すなわち紫上の、舟遊びと音楽のにぎわいを
女房たちが楽しむ中で紹介される
4首の歌の最後の1首が、
「春の日の・・・」である。
他の3首も女房たちのものとなっているが、
特に紹介するほどのことはなさそうだ。

   ☆//☆///☆/☆

まだまだ話は続くが、長くなったので、
ここで一区切りとする。

さらにご関心の向きは、
amazonででも、拙著をお求め下さい。産経新聞や
読売新聞などで紹介されたので、
あるいはお近くの図書館に並んでいるかもしれない。

あらためて、田辺聖子さんの文化勲章受賞を祝し、
ご指導に感謝したい。

源氏物語と隅田川<中> [2008年11月03日(Mon)]










ではまず、田辺聖子さんからいただいた
お手紙の全文を紹介しよう。

歌は横書きでは書けないからというものを
小欄では縦書きにしか出来ないところが、
申し訳ない。

拙著では、書家にその和歌を書いていただいて
掲載した。
 
■ ■■ ■■□■■ ■■ ■

 「花」は日本の誇る天才の一人、
瀧廉太郎が明治三十三年に作曲したものですが、
日本の歌曲第一号であり、
誠に美しい曲で、
世界に発表して誇るにたるもの。

子どものうちから歌わせ、
日本人ならすぐハーモニーよろしく
合唱できるようにしたいものです。

なお、作詞の武島羽衣さんが、
一番の歌詞を『源氏物語』から採っているのを
ご存知でしょうか。

『源氏物語』の【胡蝶】の巻、六条院の宴のところ、
女官の一人が歌います。

歌は横書きでは書けませんので
下に書きます。
(ちなみに、私は日本語の横書き反対派の一人です)。
 
「花」と『源氏物語』が
美しいハーモニーを奏でているところも、
われわれ日本人を誇らしく、力づけてくれます。

   春の日の うららにさして ゆく舟は
     棹(さお)のしづくも 花ぞ散りける  
                            
田辺さんの『新源氏物語』(3巻。新潮文庫)を
私は以前、読んだことがある。

タイの難民キャンプに向かう機上でだったので、
よく憶えている。

タイムスリップしたような気分だった。

しかし、これまた古典文学の素養に乏しく、
加えて感度の悪い私は、
その「中巻・春の夜の夢に胡蝶は舞う」の章に、
この歌が取り上げられていたことに
まったく気づいていなかった。
             (つづく)
源氏物語と隅田川<上> [2008年11月03日(Mon)]




  



     田辺聖子さん




『源氏物語』千年という今年、
その現代語訳という業績も大きな
田辺聖子さんの文化勲章受賞は
ほんとうに嬉しい。

 きょう11月3日(文化の日)、
皇居での授与式には、
車椅子で出席し、
陛下から直接、勲章を授与されていたが、
報道によれば、
受賞者8人を代表して、
「それぞれの分野において
いっそう精進を重ねる決意でございます」と
お礼の言葉を述べていた。

齢80にして、
陛下の前で
「いっそう精進を重ねる決意」と述べる
その意欲的な生き方には大いに学ばされる。

 私は、
『歌い継ぎたい日本の心−愛唱歌とっておきの話』(海竜社)を
執筆したとき、
田辺さんに、実に大事なことを教えていただいた。

「花」(武島羽衣作詞、瀧廉太郎作曲)の歌詞が、
『源氏物語』に由来するものであるという事実だ。

 このことは武島羽衣の子孫の方も、
隅田川の顕彰活動をしている人たちも
ご存知じなかった。

 私は小欄を書き始めて直ぐの、2006年4月7日、
桜が満開という時期にこの話を書いたが、
田辺さん受賞の機会に、再掲したい。

    ▲∵△∵▲∵△∵▲∵△∵▲∵△∵

  日本人はほんとうに桜が好きだ。

10日あまり前、上海と南京に行った。

ちょうど桜が満開だったが、
誰も話題にもしないし、
わざわざ見にも行かない。

とここまで書いたら、
福島から県議のYさんが訪ねてきた。

最初の挨拶が「この週末、満開なんですよ」。
主語はいらない。

「朝日新聞」が「日本人と桜」について、
夕刊の「新・人脈記」で連載している。

これを読むと、
うかつに花見で酔うわけには行かないくらい、
多くの先人が、桜に尽くしてきているということが
わかる。感謝したい。

 埼玉県立大学で教鞭をとっていたころ、
この季節、高速道路で隅田川の脇を通るのが楽しみだった。

花見をしながら運転していたものだ。

時には、長命寺で、
かの二枚の葉を組み合わせた桜餅を買って行ったりして・・・。

 歌は、もちろん「花」(武島羽衣作詞、瀧廉太郎作曲)である。

 一、春のうららの隅田川
    のぼりくだりの船人が
    櫂(かい)のしずくも花と散る
    眺めを何に喩(たと)うべき

二、見ずやあけぼの露浴びて
     われにもの言う桜木を
     見ずや夕ぐれ手をのべて
     われさし招く青柳(あおやぎ)を

三、錦織りなす長堤(ちょうてい)に
     暮るればのぼる朧(おぼろ)月(づき)
     げに一刻も千金の
     眺めを何に喩うべき


● 田辺聖子さんからのご教示

 3年ほど前、拙著
『歌い継ぎたい日本の心―愛唱歌とっておきの話』(海竜社)の
執筆中に、
作家の田辺聖子(せいこ)(1928〜)さんから
貴重なご教示をいただいた。

この歌詞の一番が
『源氏物語』からの「本(ほん)歌取(かど)り」である
ということだ。

『文藝春秋』(2002年9月特別号)での
永六輔(1933〜)さんとの対談によれば、
長年介護に努めたご主人・川野純夫(通称・カモカのおっちゃん)を
1月に亡くされたばかりの時に、
ご指導をいただいたことになる。感謝に耐えない。

 田辺さんは私からのアンケートに答えて、
ご自身の「歌い継ぎたい日本の愛唱歌」の筆頭に
『花』を挙げられた上でのことである。  (つづく)
東京・秋たけなわ [2008年11月03日(Mon)]






































 東京ではいよいよ、秋たけなわ。

 きょうは「文化の日」、
やはり雨は降りませんでした。

 特異日ってどうしてできるんでしょうね。

 貴重な3連休を明日からに活かして、
今週は、週後半から、沖縄に向う。

 沖縄平和賞が難民を助ける会に授与されることとなり、
その授賞式に列席し、そのあと、
日本財団の助成事業「与那国開発研究会」の
公開シンポジウムに参加する。

 沖縄も秋なのかな?

 紅葉するのかな?
古橋広之進さんも [2008年11月03日(Mon)]





  古橋広之進さん




古橋広之進さんも文化勲章を受章された。

この人のことについては受賞発表の直前に
小欄で書いたので、そのことは省きたい。

私は、
オリンピック東京大会組織員会国旗担当専門職員として
お目にかかったことがある。

お目にかかったというより、日本毛織の
ウール・バンティング(毛織物旗地)のセールスマンとしての
古橋さんに売り込みを受けたのだった。

場所は、今の迎賓館羽衣の間。当時、そこに
組織員会の事務局競技部式典課があった。

東京五輪の旗地は1963年春に選定した。
ウールのほか、
ナイロン(東レ)、エクスラン(東洋紡)、ボンネル(三菱化成)
などが、
主要な候補だった。

結局、スペイン、グアテマラといった複雑なデザインで、
かつ原反、染色、縫いつけなどさまざまな染色や技法で製作した
国旗をさまざまなサイズで試作し、
千駄ヶ谷の国立競技場で半月間、掲揚試験した。

結局、染めの「泣き」(染料の流出)でナイロンが、
強風で破れることでウールが落第となり、
「フジヤマノトビウオ」古橋さんも×、
ナイロンを売り込んでこられた「鬼に金棒・小野に鉄棒」の
体操金メダリストの小野喬さんの東レも採用とはならなかった。

しかし、お二人とも、本当にすばらしい方で、
専門職とはいえ、所詮は一学部生に過ぎない私は
大いに敬服し、
東京五輪は、国旗で絶対にヘマをしないよう、
懸命に働いたのだった。
祝・小澤征爾さんの受賞 [2008年11月03日(Mon)]


   



              小澤征爾さん






 文化勲章の話の続き。

 今年の文化勲章受章者は8人。
内、理科系は物理学、数学、生物の大家の4人、
物理学のお二人はノーベル賞という「黒船」での追認か。

理科系の方々は、まったく存じ上げないどころか、
研究内容さえ、見当もつかない。

 しかし、ほかの4人とは、それなりの面識やご縁があった。

小澤征爾さんの演奏は国内ではともかく、
海外ではじめて接点を持ったのは、1978年のザルツブルク音楽祭、
カール・ベーム、ヘルベルト・フォン・カラヤンと3人が
交代で、1ヶ月間、毎日違ったオペラを上演するという
すごい企画だ。

私はベームの「バラの騎士」をみたのだが、
広い会場に日本人は令夫人・入江美樹さん(元トップモデル)と
私しかいなかった。

若き小澤さんが、両巨頭に伍して活躍している音楽祭に、
ザルツブルクの市内を胸を張って歩けたものだ。

湯川秀樹がノーベル物理学賞受賞して、
敗戦ショックに打ちひしがれていた日本人を
励ましたように、
小澤さんの活躍は、
日本人の芸術水準に対する国際的な評価を
一気に高め、
音楽を愛する私たちに限りない喜びを与えてくれた。

そして、今から8年ほど前、
ロストロポービッチのチェロと新日フィルの共演で
難民を助ける会が小澤さんの協力で
チャリティ・コンサートを開催したときにご一緒した。

これが、同会での私の公式な活動の最後だったかもしれない。

5時間で切符が完売というのは、嬉しかった。

外務省の支援もあって、河野洋平外相と、
ロストロさんの祖国ロシアのイワノフ外相、
さらに橋本元首相もお越しくださった。

純益2600万円は、記録的な“成果”、
チェチェンからの難民支援と
ロストロさんの希望で、ヤマハの協力もあって
サハリンの「チェホフ記念国立劇場」に
コンサート・ピアノを贈呈した。

このとき、小澤さんと、ロストロさんは
出演料を「受け取り」、かつ、全額を
「寄付した」。

お二人と私とで記者会見、
「こうした活動から税金を取るとはけしからん」
「国は善意の守護者であるべきだ」
などと、無税を主張した。

あとから大蔵省(現・財務省)に事情を説明にあがり、
紆余曲折の末、問題がうまく解決した先例を作った。

昨年来、体調不全の様子。kanari
かなり回復されたとははいるが、
全快とさらなるご活躍を祈る。   (つづく)
文化勲章  [2008年11月03日(Mon)]







文化勲章の受章者は故人を含めて346人。

 浅学非才にして草莽に暮らす私とは
めったにご縁のある方はいない。

 これまでの受賞者で
懇談させていただく関係や経験がある(あった)方と言えば、
(社)協力対を育てる会の初代会長・茅 誠司(元東大学長)、
2代目会長の中根千枝(いずれも私は常任理事)くらいのもので、
あとはその方の音楽、芸術、文学で親しんだくらい。

さらにはせいぜい
「教科書に出てたな(西田幾多郎、小林秀雄、岡義武)」

「息子さんがやってるの蕎麦屋はよく行くけど(黒澤明)」

「松田トシ先生のレッスンでよく絞られた曲の
作曲者だよね(山田耕筰)」

「毎日、広辞苑にはお世話になってます(新村 出)」
「なぜか二人で『現代用語の基礎知識』の
最長不倒著者をやってましたね(中村 元)」

「わが師・末次一郎と青少年育成国民会議を創設して
がんばっておられましたね(井深 大)」

「『明治37,8年俘虜取扱顛末』は大岡昇平が
私から借りたままになっているから取り戻したらキミにやるよ、
といって大岡先生を紹介してくださったことがありましたね(河盛好蔵)」

「小谷豪冶郎(秀二郎)先生が生前、
絵をくださいました(小倉遊亀)」・・・
という程度のご縁しかなかった。

 しかも、以上の方々(敬称略)で
お元気なのは中根先生くらい。

 先日も音楽会でお会いし、久々にご挨拶できた。

 文化勲章って、もう2,3年
お若いうちにあげていただきたいもの。

 ノーベル賞受賞であわてて文化勲章受章者にというのは、
あまりに「黒船的」すぎまいか。
                (関係記事につづく)
空幕長解任の真相は? [2008年11月03日(Mon)]





   挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
  掲載させていただいております。禁無断転載。





 きょうの毎日新聞電子版に拠れば、
解任された田母神俊雄前空幕長が応募したのは、
ホテルチェーンなどを展開する総合都市開発
「アパグループ」(東京都港区)が主催する
「真の近現代史観」懸賞論文だという。

 この懸賞論文には約230件の応募があり、
田母神氏の「日本は侵略国家であったのか」
と題した論文が最優秀賞を受賞した。
 
 関係者によると、田母神氏は更迭決定後に
「信念を持って考えてきたことを
個人的な意見として論文にした」と
周囲に説明する一方、
「大変な心配を総理や大臣にかける結果となり
申し訳ない」とも話しているという。

 見解の当為はともかく、
ここまではっきりした意見を持っているならば、
@ なぜ、任命前に周囲が気付かなかったのか、

A なぜ、もっと広範な人々が読むことの出来る
  著名な総合雑誌にでも発表しなかったのか、

B 自衛隊関係教育施設や各部隊での上官の訓示では、
  第2次世界大戦と日本との関係について、
  どう教育しているのか、

C 防衛省職員や自衛隊員の研究発表は、
  許可制なのか、報告(通報)で済むのか。

 この更迭には、しかと検証しなくてはならない疑問が
いくつもある。

 そのあたりは同省のみならず、
自民、民主をとわず、
党内にさまざまな見解を持つ人が多くいて、
国会での論戦にはあまり向かないかもしれない。

 両党合同の調査研究チームでも創設して、
秘密会でもいいから、
慎重かつしっかりと検討してもらいたいものだ。

 そこには田母神前空幕長も
参考人として出席してはどうか。
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