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ヤブリンスキーの党首辞任 [2008年06月23日(Mon)]




   3月19日、ユーラシア21研究所一行と会談する
  ヤブリンスキー党首。左側中央が筆者。










      右は、木村汎北海道大学名誉教授(ユーラシア21研究所理事)







ロシアの典型的なリベラル系野党「ヤブロコ」のグレゴリー・ヤブリンスキー代表(1952〜)は21日の党大会で、党代表を辞任すると発表した。後任は、ヤブリンスキー氏が推したセルゲイ・ミトロヒン同党モスクワ支部長。

 ヤブリンスキー氏は1993年、ヤブロコを結成。同党は、エリツィン政権下で改革派を代表する政党となった。同当主自身も1999年12月に三選され、議会内で一定の勢力を保持した。

この間、1996年の大統領選挙に立候補し、 7.34%の得票で4位。2000年の大統領選挙にも立候補し、5.79%の得票率で3位であった。一貫して自由主義改革派の野党の立場を堅持、チェチェンとの戦争にも反対し、北方領土の日本への返還に賛意を示したことでも知られている。

ロシアが国力を回復し始めたプーチン政権となって党勢は低迷。2003年の下院選挙では、ヤブロコは比例区で4.3%の得票率に終わり、5%条項を超えられず、同じリベラル派の右派勢力同盟とともに国家院での議席の大半を失なった。

 また、昨年12月の国家院(下院)選では議席獲得に必要な7%の最低得票率を超えられず、国会での議席を失っていた。

もっともこの5%条項を7%に引き上げたは、ヤブロコを蹴落とすためのプーチン大統領とその取り巻きたちの仕業というのは世界の常識である。

「ヤブロコ」は、創立者のヤブリンスキー、ボールディレフ(現在は脱党)、ウラジーミル・ルキン(下院議員、元駐米大使)の頭文字に“コ”をつけたもの。ロシア語で「リンゴ」を意味し、党のロゴにもリンゴを用いている。

 私は創立者の一人ルキン氏とは、彼がアメリカ・カナダ研究所の課長時代から大変親しく、また、ヤブリンスキー氏とも1990年代の初めから何度もお会いし、今年3月にも、ヤブロコの党本部でユーラシア21研究所の同僚たちと一緒に意見交換した。

 ヤブリンスキー氏は前日、プーチン、メドヴェージェフ両氏と久々に長時間会談して、モスクワの「政治スズメ」たちに大いに注目されていた。

 今回の辞任の真相は未だよく分からないが、7月に私がモスクワに行くことになりそうなので、そのあたりもしかと見定めて来たい。

  ロシアの新たな政治の流れの象徴でなければと願っている。
高野興業・親友の決断 [2008年06月23日(Mon)]






 わが親友・高野國夫を尊敬するゆえんの1つは、優れた判断力である。

 先年、還暦を迎え、自ら30年かけて育てた会社の経営を一気に長男・泰弘に委ねた。

 弱冠35歳の泰弘は、「門前の小僧」の分を含んで、いかに「帝王学」を学んでいたとはいえ、それは「いつかは」という話であって、おそらくは相当に悩み、苦悶したのではあるまいか。

 周囲もまた、「えっ!?」「今ですか?」という気分だったのではないか。

 それでも、ひとたび決断すれば、あいつは私とはまるで違う。実に魅力的な人物の度合いを高める。

「ほんとにいいのか、それで」と私は愚問を投げかける。

「もちろん、いい。ワシは好きな園芸にでも精を出し、サツキとサクラの林でも作るから、花見にでも来いよ」

「わかった。しかし、社員200人への責任は取れるのか」

「それももちろん。十分、基礎は作ってある。オレのときは同じ歳でゼロからやったんだから」

「そりゃそうだな」

「それとね、イザとなったらまだ復活できる気力、体力があるからできるんだよ」。

 あれから7年、今や泰弘社長は、おしもおされもせぬ堂々たる経営者になった。社員の信頼も「熱い」。

 アイツの判断力、決断力にまたしても脱帽。敬服の年はさらに高まった。来春には花見に行こう。

今度は泰弘社長にも社会貢献を通じ、少し力を貸してもらおう。
                  (文中:敬称略)
世界遺産と国旗C [2008年06月23日(Mon)]






  カンボジア王国時代の国旗であり、現在の国旗










   1970〜75年、いわゆるロン・ノル政権時代の国旗











     1975〜79年のクメール・ルージュ(ポル・ポト政権)時代の国旗









    1979〜89年の、いわゆるヘン・サムリン政権時代の国旗












  アンコールワットは長年野ざらしにされてきた。加えて、巨大な熱帯植物が繁茂し、時には戦火にさらされたため、傷みが酷い。

  このため、この地を領有していたフランスは長らくその管理と補修に努めてきたが、1972年、カンボジア内戦によって修復チームはカンボジアを離れ、寺院はクメール・ルージュ(ポル・ポト派)の支配地域となった。

「4人組」時代の中国の影響を強く受けたクメール・ルージュは、聖域にあっても、仏像や遺跡に敬意を払うことなく、これらに対する手ひどい破壊行為を行なった。

  1979年、ヘン・サムリンを担いだベトナム軍にクメール・ルージュが首都プノンペンを追われると、カンボジア北西部であるこの周辺に逃れて来た。堅牢な城西のような構造である上、世界的な文化遺産であることから、攻撃にあたっては重砲の使用はためらわれた。

  内戦は1993年10月の「パリ和平協定」で終焉した。この間、各派はいずれも、アンコールワットを大きく取り入れた旗を掲げていた。また、1992年、アンコール遺跡は、ユネスコの世界遺産に登録された。

  ヘン・サムリンを継いだかたちのフン・セン政権下のカンボジアは、クメール・ルージュを完全に駆逐・消滅させ、一応国内の政治は安定している。

  このため、アンコールワットでは各国の協力をえて、修復活動を進めており、対人地雷密集地であった寺院周辺では地雷の撤去も進捗し、各国から大勢の観光客が押し寄せている。  (つづく)
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