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岩屋毅くんを推奨する [2008年04月24日(Thu)]






岩屋 毅 (イワヤ タケシ)

生年月日 1957/08/24 50歳

国会初当選年 1990

当選回数 衆議院:4回

出身大学1 早稲田大学政経学部

政党 自由民主党

URL http://www.t-iwaya.com/cgi-bin/index/right_index.cgi

議員以前の経歴 大分県議会議員

内閣での経歴 2006/09 外務副大臣

  以上は「ぷぶりすてら」による。






永田町周辺に37年もいる私がみて、岩屋毅衆院議員は、
国を憂い、真摯に国政に取り組む信頼度抜群の政治家と評価しています。

もちろん、この人しかいないというわけではありませんが、
私が第一級の政治家の一人と推奨する一人です。

私が惚れた男を、ご注目ください。

最近は週に何度もメールのやり取りをしています。

その岩屋代議士のメッセージの一部を転載します。今日の国政の
ていたらくぶりをきちんと見定めて、その決意を語っています。

是非、ご覧ください。

▲∵△∵▲∵△∵▲∵△∵▲∵△∵▲∵△∵▲

こんにちは、岩屋たけしです。

 今頃が一番いい季節ですね。さわやかな春風に吹かれて朝のウ
ォーキングをしていると幸せを感じます。そういうときは現在の
国会のことは忘れるようにしています(笑)。

 「閑話」のほうにも書きましたが、最近は宿舎の書道教室にも
通うようになりました。毎週一回、朝の6時半から一時間ほどで
す。朝の静けさの中で筆を持っている時間は心を空白にできるひ
とときです。一日がスタートしてしまえ分刻みのスケジュールに
追い立てられるのですが、こうやって合間合間に心整える時間を
設けて頑張っていきたいと思っています。

 さて、心乱れる国会情勢です。与党としては来る30日には税
制関連法案を再議決して暫定税率を復活させる予定です。先の衆
議院での議決から60日が経過したからですが、本来は参議院で
同法案を採決してくれれば「否決されたとみなす」ような手続き
を取らずに済んだのですね。ところが、野党はこの間、一ヶ月以
上にわたって法案の審議をしなかった・・・再議決はやむをえな
い措置だとご理解いただきたいと思います。

 問題は今度こそガソリンスタンドで混乱が生じるのではないか
ということです。ガソリンが安いうちに満タンにしておこうと誰
しもお考えになるでしょうからね。しかも、連休の真っ最中とい
うことになれば、スタンド側も値上げしていいものやら悪いもの
やら、実際のところ実に悩ましいところだと思います。

 全国のガソリンスタンドの組合の皆さんは「この間の政治の混
乱によって生じた損失についてはきちんと補填してもらいたい」
とおっしゃっておられますが、当然のことだと思います。政府に
おいてしっかりとした対策が講じられるよう、私も強く働きかけ
てまいります。

 再議決へ向けて党内には一部に反対論もあります。特に、5月
中旬に予定されている二回目の「特定法」に関する再議決につい
ては慎重論が根強くあります。なぜ、二回の採決が要るかと言え
ば、最初の税法の再議決は2兆6000億円の予算額を確保する
ためのもの、次なる特例法の再議決はその予算を地方に道路財源
として配分できるようにするものだからです。法の根拠がなけれ
ば勝手に配分できないのですね。

 その二回目の採決がこのままだと「原案」どおりのものになら
ざるをえないので、一部に慎重論や反対論があるのですね。
「原案」は「道路計画を10年にする」となっていますが、それ
では「10年を5年にする」と言った福田総理の約束と中身が違
うではないか!という指摘があるわけです。実際には「5年」に
作り変えるのですが、法案そのものは「10年」という中身のま
まになっていますから、それでは国民の理解を得られない!と懸
念を持っている議員がいるわけですね。

 理屈としてはまったくそのとおりなんです。本来は期間を短縮
する修正をしてしかるべきところですが、問題はあまりに頑なな
民主党の姿勢にあります。かれらはあくまでも「政局目当て」で
すから、いくら修正協議をしても乗ってくる気配がありません。
 仮に法案に修正をかけるとなると間違いなく再び参議院で宙吊
りにされるでしょう。そうなれば、さらに60日を経なければ決
することができなくなってしまうのです。

 これ以上、道路整備を凍結している自治体側に迷惑をかけるわ
けにはいかない、というのが与党としての判断です。そして、来
年度以降は、お約束どおり特定財源制度を廃止して「一般財源化」
を実現し、道路整備以外にも福祉や教育、あるいは環境といった
分野に財源を振り向けることができる制度に変えてまいります。
 そのことをより明確にするために再議決の前には何らかの形で
そのことを担保する措置を取ることになるでしょう。

 世論調査によれば過半数運以上の方々が最値上げに反対してお
られます。それはそうでしょう。消費者のお立場としてはそうで
あるに違いない。しかし、ここは決断せざるをえないのです。不
人気になることを承知で再議決を行なうことには正直、辛いもの
があります。しかし、これもまた政権党の責任だと割り切るしか
ありません。最終的にはきっとご理解いただける。そう信じて前
へ進んでいきたいと思います。
上坂冬子さんへ [2008年04月24日(Thu)]
















週刊新潮の4月24日号の「掲示板」欄で、ノンフィクション作家の上坂冬子さんが「奉安殿の残っているところはないか?」と尋ねておられます。

この方が北方領土に強い関心を持ち、いろいろ動かれたり、書かれ始めたのは、4年ほど前、私どもがモスクワでの日露専門家会議にお誘いしてからのことです。

また、ご本人とはその後も、とても親しくさせていただいておりますし、我が家にも先生のところにも伺ったことのある仲です。

去る2月には、ご一緒に銀座から日比谷公園まで、北方領土返還を叫んで、デモ行進もしました。

しかし、こういうのは、間違いが起こらないように、書いたものでお返事したほうがいいと思い、早川清編集長あてに一筆啓上しました。

★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

1つは、択捉島の天寧。連合艦隊の31隻が集結し、真珠湾に向ったところです。そこに奉安殿がのこっているのを昨年9月に現地で「発見」(確認)しました。私たち8人の訪問は、戦後、公式には初めての日本人の天寧訪問でした。

荒地の中にコンクリートだけが残っています。

もうひとつは、サハリンの州都ユジノサハリンスクです。郷土博物館の前庭にあります。

こっちは、日本時代に建築した郷土博物館(大阪城スタイル)がきちんとそのまま同じく博物館として使用されてきましたので、残存し、たくさんの花に囲まれた形で、
新婚さんのメッカになっています。これも写真があります。

取り急ぎご報告申し上げます。

  ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

雑誌に掲載されるかどうかは別として、これは小欄の読者にはお伝えしたいことです。

案外、台湾、朝鮮半島、満州(中国東北部)などにものこっているのかもしれません。

この奉安殿、要するに、天皇皇后両陛下の「ご真影」を掲示しておく場所で、戦後、GHQの命令で破壊が命じられたものです。

われ「ご幼少の砌」、秋田大学学芸学部付属小学校ですが、2回の講堂の舞台正面一番奥に引き戸があって、その中が奉安殿になっていました。

また、同付属中学、もう私は「紅顔の美少年」の時代になりますが、正面玄関に向かって左側と言うべきか、前庭のバレーボールのコートの奥というべきか、そこにコンクリート製の奉安殿が建っていたと記憶しています。あるいは、兄たちが中学生で私はまだ小学生だったときに付いて行ってみたのかもしれません。

沖縄では半壊のまま残っている奉安殿が、文化財に指定されているとか。ほかにもありましたら、情報交換をしましょう。
最初の日の丸 [2008年04月24日(Thu)]








 幕末に政府の旗印として「日の丸」が最初に用いられたことにつき、
小欄では前回、「週刊新潮に感謝」と題して、以下の一文を掲載した。

 しかし、この題では国旗の関係者や国旗に関心のある方が見過ごしてしまう
可能性がお起きいので、同じ文章を、あえて表題のみを変えて
ここに掲載させていただく。

 前の文章をお読みくださった方は、無視していただきたい。


   
★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

 私は「週刊新潮」を毎号、愛読している。それは、
煎じ詰めれば、文芸評論家・野口武彦先生の
「幕末バトル・ロワイヤル」を拝読するためといってもいい。

 もちろん、他の記事もなかなか充実しており、
斬新な視点での切り口に感嘆することしばしだが、
この連載は、他にない充実した内容である。

「文久殺陣録20」と題する4月24日付号は
「鰊(ニシン)倉に死す」として、
元治元(1864)年秋の、
武田耕雲斎以下水戸藩の一部である天狗党と
その制圧に向った幕府軍との戦闘を描いている。

 その中に、幕府軍が
「白地に日の丸」の旗印を立てて進んだという
一文があり、
私はさっそく、その詳細を知るべく、
早川清編集長に一文を送った。

   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 4月24日号の72ペイジ。
「幕末バトル・ロワイヤル」、わが愛読の連載ですが、
その右のペイジの2段目に、
「白地に日の丸の旗印を先頭に」とあります。

 もしそうならば、
政府の陸軍(幕府の歩兵隊)が
陸戦で日の丸を掲げた最初のはずです。

 もっと詳しくしりたいので、
是非、その出典を伺っていただけませんでしょうか。

  〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

 この質問に対し、同編集長はkind enough(ご親切にも、
またはと件のご厚意にて)、
早速、野口先生に質問の趣旨をお伝えくださり、
即日、
野口先生から早川編集長経由で
ファックスと速達が拙宅に到来した。

 お二人に心から感謝したい。感謝感激である。

 以下、野口先生が送ってくださった
『水戸藩史料』(下編巻十九)を参考にしつつ、
そのあたりの状況について記したい。

 幕府軍は、徳川斉昭が大砲鋳造のために
那珂湊に築造した反射炉を拠点に立てこもる筑波勢に対し、
陸海両面から包囲攻撃をした。

 やがて那珂湊勢は兵糧が尽き、動揺。崩れ始めた。

 鎮派といわれた榊原新左衛門が幕府軍に降伏の意を内通し、
10月23日早朝、
幕府歩兵隊は「白地に日の丸の御旗」を建て、
剣付き鉄砲を担ぎ、
歩兵太鼓を打ち、
足並みそろえて、
七曲を平地のごとく、
整々(原文のまま)堂々繰りのぼったというのだ。

 また、平岡四郎兵衛、都築鐐太郎の両歩兵頭、
さらに小山金之介指図役といった幹部など
歩兵を指揮する役の人々は
一手一手に「白地日の丸の御標」を建てた。

「白地に日の丸の御旗」と「白地日の丸の御標」がどう違うかは
さだかではないが、
これは日本政府の陸軍(幕府の歩兵隊)が
陸戦で日の丸を掲げた最初の例ではないかと思うのだが、
どなたかほかに例をご存知なら、ご教示いただきたい。

 ちなみに、海軍では、1860年、
日米修好通商条約の批准書を交換するため
遣米使節団一行を乗せたアメリカ軍艦ポーハタン号に随行した
咸臨丸(艦長=勝海舟。福沢諭吉やジョン万次郎らも乗船)が、
船尾に日の丸を掲げていた。

 咸臨丸(艦長=小野友五郎)はその後、
1861年から翌年にかけて、
外国奉行水野忠徳(1810〜68)を乗せて
小笠原諸島の父島と母島の巡視と探検に向かった。

 ペリーが書いた『日本遠征記』が
批准書交換のため訪米した一行に渡され、
小笠原島に欧米人が定住していることが明らかになり、
幕府は大騒ぎとなっていたからだ。

 そのとき、父島で今、旗立山といわれている旭山に
わが国最初の「日の丸」を立てて、
日本の領土であることを示したとも伝えられている。
週刊新潮に感謝 [2008年04月24日(Thu)]








  東京オリンピック閉会式(1964年10月24日)に
各国選手に担ぎ上げられたまま「日の丸」を掲げる、
体操の(金)メダリスト小野喬選手。
さきごろまで参議院議員だった
小野清子さんの夫でもある。









 私は「週刊新潮」を毎号、愛読している。それは、
煎じ詰めれば、文芸評論家・野口武彦先生の
「幕末バトル・ロワイヤル」を拝読するためといってもいい。

 もちろん、他の記事もなかなか充実しており、
斬新な視点での切り口に感嘆することしばしだが、
この連載は、他にない充実した内容である。

「文久殺陣録20」と題する4月24日付号は
「鰊(ニシン)倉に死す」として、
元治元(1864)年秋の、
武田耕雲斎以下水戸藩の一部である天狗党と
その制圧に向った幕府軍との戦闘を描いている。

 その中に、幕府軍が
「白地に日の丸」の旗印を立てて進んだという
一文があり、
私はさっそく、その詳細を知るべく、
早川清編集長に一文を送った。

   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 4月24日号の72ペイジ。
「幕末バトル・ロワイヤル」、わが愛読の連載ですが、
その右のペイジの2段目に、
「白地に日の丸の旗印を先頭に」とあります。

 もしそうならば、
政府の陸軍(幕府の歩兵隊)が
陸戦で日の丸を掲げた最初のはずです。

 もっと詳しくしりたいので、
是非、その出典を伺っていただけませんでしょうか。

  〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

 この質問に対し、同編集長はkind enough(ご親切にも、
または特段のご厚意にて)、
早速、野口先生に質問の趣旨をお伝えくださり、
即日、
野口先生から早川編集長経由で
ファックスと速達が拙宅に到来した。

 お二人に心から感謝したい。感謝感激である。

 以下、野口先生が送ってくださった
『水戸藩史料』(下編巻十九)を参考にしつつ、
そのあたりの状況について記したい。

 幕府軍は、徳川斉昭が大砲鋳造のために
那珂湊に築造した反射炉を拠点に立てこもる筑波勢に対し、
陸海両面から包囲攻撃をした。

 やがて那珂湊勢は兵糧が尽き、動揺。崩れ始めた。

 鎮派といわれた榊原新左衛門が幕府軍に降伏の意を内通し、
10月23日早朝、
幕府歩兵隊は「白地に日の丸の御旗」を建て、
剣付き鉄砲を担ぎ、
歩兵太鼓を打ち、
足並みそろえて、
七曲を平地のごとく、
整々(原文のまま)堂々繰りのぼったというのだ。

 また、平岡四郎兵衛、都築鐐太郎の両歩兵頭、
さらに小山金之介指図役といった幹部など
歩兵を指揮する役の人々は
一手一手に「白地日の丸の御標」を建てた。

「白地に日の丸の御旗」と「白地日の丸の御標」がどう違うかは
さだかではないが、
これは日本政府の陸軍(幕府の歩兵隊)が
陸戦で日の丸を掲げた最初の例ではないかと思うのだが、
どなたかほかに例をご存知なら、ご教示いただきたい。

 ちなみに、海軍では、1860年、
日米修好通商条約の批准書を交換するため
遣米使節団一行を乗せたアメリカ軍艦ポーハタン号に随行した
咸臨丸(艦長=勝海舟。福沢諭吉やジョン万次郎らも乗船)が、
船尾に日の丸を掲げていた。

 咸臨丸(艦長=小野友五郎)はその後、
1861年から翌年にかけて、
外国奉行水野忠徳(1810〜68)を乗せて
小笠原諸島の父島と母島の巡視と探検に向かった。

 ペリーが書いた『日本遠征記』が
批准書交換のため訪米した一行に渡され、
小笠原島に欧米人が定住していることが明らかになり、
幕府は大騒ぎとなっていたからだ。

 そのとき、父島で今、旗立山といわれている旭山に
わが国最初の「日の丸」を立てて、
日本の領土であることを示したとも伝えられている。
不敬罪 [2008年04月24日(Thu)]






 私のような不経済な者が不敬罪について書くことを、まずもってお許しいただきたい。

 今朝(4月24日)の朝日新聞にタイで「国歌演奏 起立拒み不敬罪」という記事が出ている。

 何でも、映画館で国歌の演奏が流れたとき、若い男が起立せず、これをとがめた近くの男性とけんかになり、この男性の告発により、男は警察に呼び出されたのだという。

 タイは若干の王政イスラム諸国同様、今も不敬罪がある。

 だから、昨年3月、国王のポスターにペンキを塗ったスイス人が金庫10年の実刑判決を受ける(その後恩赦)と言うこともあるなど、外国人を中心に、不敬罪の適用がたびたびあったという。

 法律があるならばこれに従わなくてはいけないのは当然であろうし、なくとも、確立された慣行を外国人も尊重すべきである。

 思い出すのは、3月21日付の読売新聞。「明治天皇を隠し撮り 不敬罪おそれ…秘蔵1世紀 所有者が写真公開」という記事。

  ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 明治末期に隠し撮りされた明治天皇(1852〜1912年)の写真を、所有者の元会社役員、安藤恒男さん(83)(神奈川県藤沢市在住)が初めて公にし、東京・渋谷区の東郷神社などに複製を寄贈した。

 写真嫌いで知られた明治天皇の写真は数少なく、撮影自体が不敬行為とされていた時代で、民間人が撮影したスナップはほとんど知られていないだけに、貴重な資料として注目を集めそうだ。
 
 写真は、1911年(明治44年)5月16日、旧陸軍経理学校(東京・新宿区)の卒業式に出席した際のもの。菊の紋章入りのテントに置かれた席を立ち、校庭に敷かれたじゅうたんの上を校長に導かれて歩く姿がとらえられている。背景には陸軍の幹部が居並び敬礼している。

 安藤さんの父、昇さんが第7期生として同校に在学中、ひそかに写真師に依頼して校舎2階から撮影させたものだという。

 36年(昭和11年)になって、父から「天皇陛下を見下ろす写真を撮るのは不敬罪だから誰にも見せるな」と注意された上で見せてもらい、そのまま家族のアルバムに収めたままになっていた。
 
 天皇家の写真に詳しい皇室ジャーナリストの道越治さんの話「紋章や玉座、いわゆる天皇服と呼ばれる服装などから考えて、明治天皇の写真に間違いない。非常に貴重な資料だ」。

  ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 戦前の日本には、不敬行為を戒める関連法規がいろいろあった。刑法に基づき、不敬罪や大逆罪があった。

 内村鑑三は、1890年(明治23)年から第一高等中学校の嘱託教員となったが、翌年1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して、敬礼はしても最敬礼をおこなわなかったことが同僚・生徒などによって非難され、それが社会問題化し、不敬事件とされた。

 このあと、内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。(「内村鑑三不敬事件」、「第一高等中学校不敬事件」)。

 1910年の幸徳秋水事件、
1923年の虎ノ門事件、
1925年の朴烈事件(「朴烈、金子文子事件」)、
1932年の桜田門事件(「李奉昌事件」)など、
不敬罪について、公開の場における慎重な審査なきまま、判決の結果は極刑にいたるなど、特定の思想を持つ人物への抑圧を企図して扱われた要素の強いケースもあったとされる。

 また、美濃部達吉東京帝国大学教授は、1935(昭和10)年、「天皇機関説事件」の際、不敬罪で告発された。これは不起訴となったが、本人は貴族院議員を辞職した。

 さらに、創価学会の初代会長であった牧口常三郎は、1943年7月6日、治安維持法違反・不敬罪の容疑で逮捕されるということもあった。

 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

 私たちが気をつけなければいけないのは、国によって法律は異なると言うことだ。シンガポールではタバコの吸殻を捨てては、高額の罰金を取られるし、日本で外国の国旗を燃やしては刑法犯となる。交通規則なども国によって随分違う。

 そこまで行かなくとも、青年海外協力隊には、ケニアで国歌演奏中に、それと知らず、横になっていたというだけで、警察のお世話になったという隊員もいる。

 法と慣習、文化と宗教は互恵と寛容あっての21世紀なのであるとはいっても、そこのところが難しいのが現実だ。
聖火リレー最悪のケース [2008年04月24日(Thu)]



















 いよいよ長野に聖火がやってくる。

 さまざまな人たちが、さまざまな形での嫌がらせ、否、チベットでの人権を守ろうと、示威行為や行動を企図しているようだ。

 不要な暴力行為には断固反対だが、中国政府がチベットの人たちにとった暴力行為が許され、これに反対する人たちの行動が大きく制約されるのは(ほかにぴったしの旨い表現が見つからないから書くが)「片手落ち」と言うほかない。

 反対行動は、

@ リレー前に長野で、
A リレー中に長野で、
B リレー後に長野で

企図されようし、また、
警備の手薄な東京その他の地たとえば、
@ 大使館前
A 空港
B 宿舎
C 首相官邸や外務省
などでもありえよう。

留学生など中国人と日本人その他、反対行動を行なう人々との間でトラブルが発生する可能性も大いにあるだろう。大いに自重し、法の範囲での反対行動を、まずは願いたい。

心配なのは、「青い服を着ていない青シャツ隊」。日本側の要望で聖火を管理する中国の組織員会関係者は二人だけが伴走するようだが,なんとも不思議なのは、中国の聖火トーチは常時管理しなくていけないほどヤワなのか。

44年前の東京オリンピックの時には、トーチの試作品の段階からその周辺にいたのでよくわかるが、振りまわそうと倒そうと決して消えることはない。したがって、この二人は何のために伴走するのか。

二人以外の「青シャツ隊員」はどこで何をしているのか。

間違えてもこの人たちが、反対行動する人を押さえ込んだり、排除したりしてもらっては、主権問題として許すことは出来ない。日本の警察は逆に、自国民保護の立場に立ってその「青シャツ隊員」を排除すべきである。

5月6日に予定されている胡錦濤国家主席の来日が延びたってかまいやしない。(過剰なほどの)民主主義国家日本で、傍若無人な行動をおとりになるなら、日本はそんな訪日は断っても結構な話だ。

あらためていうが、私は東京五輪の組織委と長野冬季五輪の組織委にかかわり、式典を担当した。だから、オリンピックの成功を祈る点においては、誰にも負けない思いがある。

しかし、中国の暴挙を座して眺める日本であってはならないと、より強く念じている者でもある。

願わくは、過剰な警備がない形で、整然と聖火リレーが行なわれ、それに反対する人たちの示威行動もまた、粛々と行なわれんことを。まして、その示威行動に反対する中国人留学生たちや「青シャツ隊員」が、興奮状態でこれを挑発しないことを。
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