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北方領土講演録B [2008年04月17日(Thu)]






お若い方はご存知ないかもしれませんので、あえて掲載します。
これがソ連の国旗です。
1921年のソ連邦成立から1991年12月の崩壊まで、
労働者の象徴であるハンマーと、
農民の象徴である鎌を組み合わせ、
5大陸に共産主義が普及し、普遍化することを
表わす黄色で縁取られた赤い星が「付いています。

なお、今でも、中国、北朝鮮、ベトナムの国旗はこれに準拠したものですし、
日本共産党のマークも同様です。

さらに、モザンビーク、アンゴラ、ジンバブエ、ミャンマーの国旗のデザインにも
大きな影響を与えています。









カムチャツカ半島の目と鼻の先にあるシムシュ島の、その少し西側にはアライト島という島がありますが、ここは富士山がそのまま海に浮かんだようなとてもきれいな島です。ここにも戦前、季節労働者がたまに入っていました。

1893(明治26)年、シムシュ島に、かの幸田露伴の兄である郡司成忠が海軍大尉を退役後、海軍予備隊を中心につくった報效義会が、隅田川から手こぎボートで行きました。

その辺の公園や遊園地の池でこいでいるようなボートをたくさん連ねて出発しましたが、函館からは、海軍が出してくれた軍艦に乗り換えてシムシュ島までたどり着きました。

シムシュ島は小さな島ですが、戦時中は大変な防備をしていました。

目前にはソ連最南端のロパトカ岬があり、その少し東には、日本軍が米軍と戦って玉砕したアッツ島があります。

堤不夾貴(ふさき)中将が率いる第91師団という優秀な部隊が、戦車も飛行機も持っていて、猛烈な訓練を重ねていたところに、終戦の日から3日たった、8月18日、ソ連軍がいきなり空爆と艦砲射撃で攻めてきたのです。

我々は、1945(昭和20)年8月15日を終戦記念日だと思っていますが、実は違う見方もあるのです。終戦の文書に署名した日、9月2日をもって終戦と言う国際法的な言い方も不可能ではありません。ソ連はそんな言い分です。

さらに、カムチャツカからのソ連軍部隊は島づたいにウルップ島まで来て引き返しました。

というのも終戦の1ヶ月前の7月14日から15日にかけて根室が米軍に大空襲されていましたし、ウルップ島から南は米軍が来ているはずだと考えたからです。

当時根室は、物資の供給地になっていた関係で、激しく空襲され3分の2が焼失しました。

根室町長だった安藤石典は、北方領土返還要求運動の原点になった人ですが、終戦の年の12月に3日かけて東京までやってきました。そして、マッカーサーには会えませんでしたが、担当の局長に北方4島は米軍の占領下に置いてくれと陳情しました。

もしこのとき米軍の占領下に置かれていたら、今は4島とももうとっくに返還されていたわけですが、不幸にして、樺太で戦ったソ連軍の別の部隊がそのまま4島に移ってきたのです。

樺太では大変な激戦でした。日露戦争後、ポーツマス条約で北緯50度線まで日本の領土でしたが、1番人口が多かったときには、日本人が48万人もいました。

そして、昭和20年8月9日、ソ連軍が50度線を破って攻めてきました。ただ、この50度線というのは大変な湿地帯なので、戦車や大砲が一遍に来ることができないため、かなりの激戦が行われましたが、そこから突っ込むことはせず、西海岸の真岡、今のホルムスクを艦砲射撃し上陸しました。

最後まで残った電話交換手の女性9名がみんなで青酸カリを飲んで死んだという悲劇があったのが、この真岡です。「氷雪の門」という映画にもなりました。そのようなことがあって、樺太は全部とられました。

そのあたりのことは、今、稚内の郷土博物館でしっかり展示されています。機会があったらご覧ください。

ややこしい地理や歴史の話をしたのは、4島一括返還と言うと、いかにも全部要求しているような言い方に聞こえるという人が、ロシアはおろか、日本にもいるようですので、そうではない、日本は本来であればもっといろんな要求ができるのだということを言いたかったからです。

少し無理な論理を展開すれば、南樺太を要求することもできなくはないのです。少なくともシムシュ島までの全千島を要求する根拠は十分あるわけです。

私たちのユーラシア21研究所では、3月に、また26回目の日露専門家会議をモスクワで開催します。

そういう会議の場で我々も本来ならばもっと要求できるということさえあるのに、4島を2で割って2つでいいとか、等面積でわけようといった話ではない、もはや妥協できない4島なのだということを強く主張し続けていきます。


チベット国旗入手法 [2008年04月17日(Thu)]








 チベットの国旗とその入手の仕方についてです。

 1938(昭和13)年発行の『萬國旗』(吉川晴帆)で、事実上の独立国としてチベット国旗を扱っていることは既に小欄で紹介したが、その図では、旗ざおが黄色の帯のない側(この図では右側)に描かれている。

 そこで、ダライ・ラマ法王駐日事務所にメ−ルで問い合わせたところ、下記の返事が来ました。

  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

吹浦忠正 様

チベットの現状をご理解して頂き、
どうもありがとうございました。
チベット国旗は、以下の電話番号に問い合わせください。
Tel:03−5483−3055

どうぞ宜しくお願い致します。

ルントック

  *****************************************

そこで、くだんの番号に電話したところ、「チベットショップ・マニマニ」でした。

チベット関連の商品を扱っているお店です。

結論は、この黄色の帯のほうに竿を付けるのでいいのではとのことでした。


このお店では、例えば国旗を入手することができます。

40×55センチのものが1575円。
40×65センチのものが1890円。

聖火を「歓迎」したい方などにお勧めです。東急線の自由が丘駅からすぐです。
所在地は、世田谷区奥沢5−2−9 2F。

さあ、あなたもチベットの国旗を持って聖火を「歓迎」しに行きませんか。

北方領土講演録A [2008年04月17日(Thu)]







日本の領土はどこまでか

最初にお話ししなければいけないのは、日本の領土はいったいどこからどこまでかということです。

戦前、「蛍の光」という歌は4番までありました。

今は3番、4番は歌われておりませんが、1番最初の4番の歌詞は「千島の奥も沖縄も八洲(やしま)のうちの守りなり」でした。この歌詞をご存じの方は今はそう多くはないはずですが、少なくとも、今100歳以上の方が習った教科書はこうでした。

その後、「樺太の奥も台湾も」になりました。これは恐らくご存じの方もいらっしゃるはずですが、75歳ぐらいから上の方が習った教科書に出ています。要するに、当時の日本はそのぐらい広かったのです。

1855年、川路聖謨とプチャーチンは、北方4島、すなわち、歯舞、色丹、国後、択捉のところまでを日本の領土として、その向こうのウルップ(得撫)島との間に境界線を引こうということを日魯露通好条約で結びました。

そのときの交渉のことをいろいろ調べてみますと、このプチャーチンという人は、海軍の軍人ですが、大変な外交官でした。

ソ連時代は公文書は全部秘密でしたが、それが公表されるようになり、「ウルップ島までロシアの領土とするように、そうすれば褒美をとらせる」というプチャーチンがニコライ1世からもらった訓令が出てきました。

しかし、プチャーチンは、日本との国境は、国後と択捉の間にするということで日本に強く迫りましたが、日本の努力によってウルップと択捉の間が国境線になりました。

プチャーチンは妥協して引いたにもかかわらず、大威張りで帰国し、一介の海軍提督だったのが貴族に列せられ、伯爵になりました。そして、紋章が出来ました。家紋ですね。それは、一方にプチャーチンそっくりの人が立っていて、もう一方には日本の侍がちょんまげを結って2本の刀を差している絵までついたデザインなのです。

私はそこまでは知らなかったのですが、先日、ユーラシア21研究所の虎ノ門フォーラムで、NHKの前のモスクワ支局長である石川一洋さんに教わりました。

さらに、ウルップ島の先には、島と岩との区別が非常に難しいところが多いのですが、20何島かあります。その1番北の方にパラムシル(幌筵)島という島がありますが、ここには戦前は東洋第1の缶詰工場がありました。

現在この島は根室市と姉妹都市になっています。

また、さらにその北にシムシュ島という島があり、占守と書いてシムシュと読みますが、この島が日本の最北端で、「千島の奥」というのはここだったのです。

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