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朝日、読売の談合? [2008年04月02日(Wed)]








 3月20日から毎日と産経が、3月31日から読売と朝日が、紙面の文字を大きくしました。

 どう考えてもこれは談合であり、情報量の削減からして実質的な値上げだ。

「読みやすく」文字を大きくしたと言うが、読者は必要な記事だけしっかり読むものであって、
その情報が削減されては、意味がない。

 また、それがどうして、同じ日に実施されるのか。偶然を通り越しての奇跡ですよね、それって。

 こうした点については何の説明もないのがひどいと思いませんか。
赤十字L [2008年04月02日(Wed)]







 西南戦争が終わってから10年ほどの博愛社(日本赤十字社の前身)時代は、活動が実に怠慢でした。当時の新聞でも、組織をつくったはいいけれども、過去5年間、何もやっていないではないかという、博愛社を批判する報道がなされているほどです。

 それが変わったのは、日本全体がいわゆる欧化主義の時代になってきてからのことです。

 赤十字というのはひょっとしたら大変な組織だということについて、少しずついろいろな人が気づいてきた。

 そして、これはどういう活動をするものなのか、どういう資金的な裏付けでやるのか、どんな人がやっているのかといったことを調べさせに、ヨーロッパに相次いで人を派遣したのです。
 
 やがて、ジュネーブ条約に入らなければ、赤十字という名称は名乗れないのだということもわかってきました。

 そういうこともあって、ついに、まずジュネーブ条約に入ることに照準を合わせるようになって行ったのです。

 ですからジュネーブ条約への入り方をしきりに研究しました。研究に基づき、とうとうアプローチをしたのですが、そのアプローチがなかなかうまくいかなかったのです。

 といいますのは、ヨーロッパにしかない赤十字というものに対して、東洋から日本人という、価値観や宗教などがよくわからない異文化の国の人々がやってきた。これでは簡単に加盟させるわけにはいかないという心理があるわけです。

 ジュネーブの赤十字国際委員会(ICRC)のギュスターブ・モアニエ委員長――この人はICRCの創立以来、実に40数年もその職にあった国際法の世界的権威でしたが――からはっきり言われました。

「キリスト教的な価値観のない国で赤十字ができるのか。何を考えている」と、まあ、こんなふうに怒鳴られて帰ってきたというのが実態でした。ことほどさように19世紀のヨーロッパにおいては、キリスト教国がすなわち文明国であり、そして、それが国際法を守る国であるといも思い込みを彼らは持っていたと言っていいのではないでしょうか。

 一方、デュナンは自分本来の事業であるアフリカでの農業会社が失敗して、1868年にジュネーブ地裁で破産宣告を受けました。その後は、ジュネーブを追われるように出てゆき、各地を転々としながらたいへん厳しい生活になり、自ら創った赤十字の世界からも排除されます。

 つまり、多くの人々に投資を呼びかけた末の破産ということは世の中に大変な迷惑をかけたことになりますから。

 ですから、モアニエもデュナンを徹底的に疎外したのです。その結果、この当時、そしてこの後、デュナンという名前はほとんどどこにも出なかったのでした。

 いろいろ工夫し、苦心を重ねた末、日本は、1886(明治19年)6月5日、ジュネーブ条約に加入を果たしたわけです。
看護界の先駆者・現代版 [2008年04月02日(Wed)]



 恩師の娘であり、かつての同僚が朝日新聞(3月27日付)夕刊の「ニッポン人脈記」で登場した。「みんな、その日まで:13 手をあてて、それが看護」という中でのこと。

 私は1972年から約20年、日本赤十字中央女史短期大学、日赤看護大学の教員だった。川嶋みどりさんはそのころから、看護婦には珍しい?論客だったし、著述から多くのものを学ばせていただいた。

 その川嶋さんから大きな影響を受けたという人が、村松静子さん。私にしてみれば、秋田大学学芸学部付属中学校の後輩であり、ご尊父・高橋賢一先生(通称「タカケン」、生徒間の呼称「おとうちゃん」)は、理科の教師であり、かつ学年主任であった。

 加えて、日赤中央女史短大では同僚でもあった。

 訪問看護の大切さを説く遠藤周作さんと意気投合し、独立して、訪問看護の先駆者になった。川嶋、村松両さんは、看護界で「この人を知らなければウソ」と言われるまでの存在感のある指導者となっている。

「おとうちゃん」は受験雑誌の執筆者としても活躍しておられた。「この父にしてこの娘あり」といってもいいし、「吹浦の後輩とは思えない立派な人」といわば言え。

 昨年末、恒例のメヂカルフレンド社忘年会で久々にお互いの壮健を喜びあった。さらなる活躍を期待している。朝日新聞嫌いの人にも読んでもらいたくて、紹介した次第。


  //☆//☆///☆/★\\\\☆\\\\☆

 
 フローレンス・ナイチンゲールは19世紀のクリミア戦争で傷病兵の手あてに尽くし、「クリミアの天使」と慕われた。ナイチンゲール記章は看護に献身した人に赤十字国際委員会から贈られる。

 日本では大正期から100人。昨年5月に栄誉を受けた川嶋(かわしま)みどり(76)の看護人生は、患者の体に手をあてることから始まった。

 ソウル生まれ。敗戦の翌年に引き揚げ、東京の日本赤十字女子専門学校へ。19歳で看護師になって10日目、重体の9歳の女の子の全身をお湯にひたしたタオルでふく。脈が力強くなり、食欲もでた。「体をきれいにするだけでなく、命まで救えるんだ!」

 地質調査の技術者の威(たけし)と26歳で結婚、男の子2人の母になる。働き続けたくて仲間と病院に保育所をつくった。当時、夜勤は1週間ぶっ通し。ナイチンゲールの言葉「犠牲なき献身こそ真の奉仕」に力づけられ、60年にストライキ。「私たちは白衣の天使じゃない。人間らしい看護をするために、人間らしい生活を」と訴えた。

 理論物理学者武谷三男(たけたにみつお)の技術論に目を開かれ、看護学セミナーを始め、研究所もつくる。論文400、著書100冊余。03年、日赤看護大学教授になった。

 夫の威が「入れ歯が合わなくなった」といいだすのは06年2月のことだ。舌がん。手術で舌を切除した。自宅療養の毎日、ミキサーで流動食をこしらえる。07年3月、威は痛みを訴えて緩和ケア病棟に入り、川嶋も付き添った。

 臨床から離れて30年、患者家族の身になってみると、つらいことが多かった。注射の前、手首につけたバーコードで本人確認をする。ピピッ、ピピッと電子音。「顔を見ればわかるのに、スーパーの商品みたい」

 威が「胸が苦しい」というと、若い看護師は動脈血の酸素の濃さを測る機器をもってきて数値を読み、「大丈夫です」。川嶋はいらだった。モルヒネの量をふやしてすぐ出ていく看護師に「もう10分、みていられないの?」。

 一番ショックだったのは、せっかくの緩和ケア病棟なのに機械や薬ばかりで、肝心の、手でふれるケアがほとんどなかったこと。「背中をさするとか体の向きを変えるとかで、すごく安らぐ。ナイチンゲールも言っていますが、看護不足が患者の苦しみをつくるんです」

     *

 そんなある日、後輩の看護師村松静子(むらまつせいこ)(61)が見舞いにきてくれた。病室に入るなり、威の背中に手をあて「肩こってませんか?」。すーっとマッサージした。威は涙を流し、「パンパンです」と筆談の紙に書いた。

 村松は26歳で長女を産み、退職しようかと悩んだとき、川嶋に「続けることが大事」と励まされた。33歳で日赤医療センターの集中治療室の初代婦長に。羽田沖の日航機墜落事故などで瀕死(ひんし)の人たちを大勢看護した。

 「患者さんのつらいところに、すぐ手がでるんです。川嶋さんの病室にいったときも、自然に」

 07年4月、威は川嶋に手を握られて亡くなった。79歳。「アリガトウ」と書いたのが最後の言葉となる。悲痛のなかで闘病の筆談記録を読み返し、川嶋は思った。

 医療のIT化でモニター画面を見る時間が長くなり、なまけているわけではないのに、手でふれるケアがおろそかになっている。熱やむくみがないか、手をあてればすぐわかるし、そのぬくもりは患者の不安を癒やす。

 「それが看護の基本、ケアの心と私は30年、全国を駆け回って教えてきた。それが実っていない。いったい何を教えてきたのか、反省しました。痛恨のきわみ」

 機械化が進み、みとりの場でさえ、ナースが心ならずも「歯車」になっている。いまこそ人の手を。川嶋は「手あて学」をつくりたいと夢みている。看護の手のはたらきを研究して大切さを裏づけ、「TE−Arte」(テアテ)として世界に広めたい。

     *

 人は、いずれ死ぬ。大切な人とも別れなければならない。だからこそ、旅立つ人も、みおくる人も「いい人生だったな」と思える最期にしたい。みんなにくる、その日のために。

 (本文は敬称略)
 
皇族の五輪開会式出席なし [2008年04月02日(Wed)]







 3月24日、ギリシャのオリンピアで行なわれた採火式。
記者の数人が中国の人権抑圧に抗議行動を行なった。







ジョカン(チベットの首都ラサの旧市街の中心にある
7世紀中期に創建された吐蕃時代の寺院)








 今朝、4月2日の産経新聞によれば、
8月8日に行なわれる予定の「北京五輪開会式に
皇族の出席はない」とのことである。

 残念なことだが、結構なことだと賛意を表したい。

 1988年にソウルで行なわれた「88(パルパル)五輪」には、
高円宮ご夫妻が出席され、
見事に期待された役割を達成された。

 しかし、今回は、
チベットでの人権抑圧、
東シナ海での地下資源問題、
毒入り餃子事件・・・で、
日本の世論が中国に厳しいと言うことを、
はっきりと示すべきである。

 折から、英国のチャールズ皇太子も不参加という。
世界の、少なくともまともな国は皇族や大統領の出席を
お断りするだろう。

 もしかして、どこかの国の首領様だけが、
最高首脳として参加するのかも。
中曽根元首相の90歳 [2008年04月02日(Wed)]








 昨日、中曽根元首相との出会いについて書きました。みなさまから、いろいろメールをいただきありがとうございます。

「その後の二人の関係についても書くべし」という注文が多く、「では」と一瞬は思ったのですが、46年間のことを振り返ると、まだまだ生々しすぎる話が多く、「いずれ」ということにさせてください。

 3月27日にも、元首相とはゆっくりお目にかかることが出来ました。

 この日は、わがユーラシア21研究所が1周年を迎えた年度末ということでのご挨拶・ご報告がメインでした。そこから話題が広がり、最近のモスクワ情勢、日露関係、洞爺湖サミットのことに及び、プリマコフ元ロシア首相からの伝言をお伝えすることもできました。

 しかし、実は、何人もの諸兄姉から頼まれたことがありました。それは、
「オヤジ(元首相)の90回目の誕生日に、卆寿の祝いの会を、なんとか開催するよう説得せよ」
でした。

 来たる5月27日、中曽根元首相は満90歳になるのです。1905(明治38)年のこの日、日本海海戦で大勝利した13年後に群馬県の高崎で生まれています。長じて、内務官僚となり、海軍主計大尉になりましたから、この日については特別の思いがあるようです。

 毎年、一族郎党が赤坂プリンスホテルに集まって、祝賀会を催してきました。3年前には、45分間、立ったまま原稿なしで感動的な演説をしました。

 続く石原慎太郎都知事が「歳はとりたくないね。なんたって長すぎるよ」と言いながら、自分も25分間も話をし、顰蹙を買いました。

 次が曽野綾子さん(当時、日本財団会長)。「男の人というべきか、政治家は話が長くて困りますね」と言いながら15分。グラスを持ったまた、みなさん、いささか困惑していました。

「では、乾杯の音頭を瀬島龍三さんに」と、司会の政治評論家の三宅久之さんが言うや、90を超えた瀬島さんが、さっと壇上に上がり、大きな声で、
「中曽根くん、おめでとう。それで十分。乾杯!」。

 そのスマートさにこそ、乾杯すべきでした。

 一昨年、米寿のとき、元首相は「スピーチは15分で。時間厳守を」と懇願されていました。

 それでも35分。しかし、これまた記録に残すべき高い格調の話でした。両隣りにいた、朝日新聞の早野透・大政治記者とアメリカ大使館の幹部ともども、感動しました。

 次にマイクの前に立ったのは、韓国の全斗煥(チョン・ドファン)元大統領。使い慣れた感じの日本語で、回顧談に終わらない、いい内容の話をしてくださいました。

 昨年は89歳ということで、「年齢が半端だから」と開催されませんでした。

 そんな経緯もあり、「今年も」というべきなのかもしれないと思いつつ、私は関係者の声を率直に伝え、「是非、お受けいただきたい」とは言いませんでした。

 それにはいくつかの理由があります。

 思いのたけを述べるには、15分やそこらの時間ではおさまらない人であることを熟知していることです。日々、膨大な情報を入手し、次々と内外の重要人物と会談しています。

 そして、日本の国益がどこにあるかを見据え、そのためには現下の政治はどうあるべきかと思索をめぐらせておられます。

 もちろん、その後の歴代の首相には適切なる助言をし、また、電話でのやり取りも頻繁に行なわれています。

 昨年は、ちょうどお目にかかっていたところに安倍首相から電話があり、その話を終えたところで、
「今、吹浦くんがここに来ておる。ちょっとキミにも聞かせたい話だから電話を代わるよ」
ということもありました。

 そのときの私は、ある助言を安倍首相にすべきかどうかを中曽根元首相に相談に行っていたのです。

 中曽根元首相に「卆寿の祝賀会を是非、受けてください」と強く言わなかったのは、いかにお元気とはいえ、90歳は90歳です。そして誰にとっても、大勢の人の前で日ごろ思うことを短時間にまとめて説得的に話すということは、決して楽なことではないはずです。おまけに、発言の内容は、天下国家に影響をもたらす重要な要素を含む中身になるはずです。

「キミはどう思うのかね」と言われ、
「きょうはちょうど誕生日の二月前ですから、準備は間に合いますが、諸般の事情を勘案された上、祝賀会はやめたと決断されたならば、昨年同様、今年は、所感を自らしたためられ、それを印刷して、誕生日までにお配りしてはいかがでしょうか」
とお答えするにとどめました。

 諸兄姉には申し訳ないことかもしれませんが、重要人物には一族郎党、そのくらいの気を使っていいのではないでしょうか。

 もし、自分から申し上げたいことがあれば、自らでむくか、書簡に託すかして、コミュニケーションを図ってはいかがでしょう。生意気なようですが、そんな思いを強くしました。あしからず。
カフェラテの飲み方 [2008年04月02日(Wed)]








関西在住の「妙齢の美女」から、昨日の小欄をごらんになって、
カフェラテについて、こんな「秘術」を教えてくれました。

関西にはいい文化がありますね。


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先生、カフェラテの飲み方をご存知ですか?

少し前、夙川にあるカフェ・ザ・テラスにお茶をしに参りました。

知る人ぞ知る、と言った余り他人には教えたくない素敵なカフェです。

マダムは外国生活が長い方との事でした。

その彼女が注文したカフェラテをテーブルに置きながら
『カフェラテの飲み方をご存知?』
と耳元で。

そう言われれば知らないかも〜と
『いえ、存じませんわ。特別な頂き方でも?』
と私。

雰囲気タップリと会話のやり取りがあったのですが、
結局カフェラテは
スプーンで混ぜたりせずに泡の上にパラパラとお砂糖なりシナモン等を振り掛け、
甘味が少なくなれば又振り掛けながらいただくもののようです。
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