CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 2008年03月 | Main | 2008年05月»
<< 2008年04月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
カフェオレとカフェラテ [2008年04月01日(Tue)]












 某有名ホテルで、カフェオレを注文したら、
「カフェラテならできますが・・・」
といわれた。

 以前調べたことがあるのだが、頭の中は混乱した。

 そこで、ユーラシア21研究所にもどってから、
拙著『社会人のための社会科』(祥伝社)を引っ張り出して見てみた。

 フランスでは、毎朝、カフェオレを飲むのが習慣になっている家庭が多い。ミルクがたっぷり入ったコーヒーである。

カフェラテ caffè e latte・・・エスプレッソに熱いフォームミルクを加えたもの。

カフェオーレ café au lait・・・ブレンドコーヒーに温めたミルクを加えたもの。

エスプレッソ espresso・・・蒸気を利用して急速に抽出するフレッシュなコーヒー。濃厚な香りと味、きめ細やかな泡立ちが特徴。

エスプレッソは、豆をよく炒り、器具を使って蒸気圧を加え短時間で濃く抽出したコーヒー。イタリアから始まったので、イタリア語で言う。
日露専門家対話B [2008年04月01日(Tue)]



  「専門家対話」の開会にあたり挨拶する
 斎藤泰雄駐露大使。進行役の
 袴田茂樹ユーラシア21研究所理事、
 ヴィチャスラフ・ニコノフ露平和基金
 総裁(右から)。







 プーチン・メドヴェージェフ体制について、会議や表敬その他で耳にしたところ、以下の通り。

@ 経済の好況を反映してか、政治的な混乱を嫌う声がおおきい。経済発展については国民全体が確信を持ち、確信している様子だ。ただし、資源に頼る「サウジアラビア現象」に陥る不安は隠せない。そこに、日本重視の視線を感じる。

A 今後のロシア政治についての展望も、比較的楽天的な見方が多かった。メドヴェージェフ大統領が短命という人はいなかった。但し、力関係は常に注目する必要がある。

B タンデム(連結)政権はメドヴェージェフが大統領としての自分の権限の重要さと大きさを自覚したとき不安定な時期を迎える。タンデム政権であっても、ロシアの国章のように、左右別の方向を見ている「双頭のワシ」ではなく、当面は、ハンドルと前のペダルを踏むプーチンとひたすら自転車を漕ぐだけのメドヴェージェフという形であろう。
メドヴェージェフが、唯漕ぐだけのばからしさにやがて必ず気づくときがくる。それは人事を決断するときであろう。

C メドヴェージェフ政権が8年続けば、また、3回連続して、新大統領は最初の外交の場が日本でのサミット・デビューとなる。これは意外にきついのではないか。
日露専門家対話A [2008年04月01日(Tue)]




会議開会を待つ、(左から)木村汎北大名誉教授、
吹浦、小池百合子衆院議員、三原朝彦同。
ダニーロフスキー修道院ホテル国際会議場で。







 日露専門家対話での「主要な収穫」は以下の通り。

@ 北方領土問題の解決なくして、日本政府が
日露平和条約を締結することはありえないことを周知せしめたこと。

A 日本国民が、北方領土問題を諦めたりすることは
ありえないというメッセージをきちんと伝えることができたこと。

B したがって、日本の政治事情がいかなる変化をしたとしても、
この問題は全党、全国民挙げての正当な要求であり、
日ロ間における最重要な課題であることを淡々と伝ええたこと。

C 大国的ナショナリズムが横行しているロシアにおいて、
これ以上激しい議論をするのは、
会議の継続を危ぶませる危険さえあり、
次回につなぐという意味では、十分な成果を挙げえたこと。

D ロシア側に少数見られる感情的・詭弁的対日論を並べる
参加者については、両国からの参加者が、
その人たちの「浮き上がり」を感じたこと。

E メドヴェージェフ次期大統領とプーチン次期首相の関係については、
ロシア人の知識層でも非常に危ぶむ人が少なくないこと。

F ニコノフ代表が長時間にわたり
プーチン、メドヴェージェフ両首脳と会談し、
また、日本側からの表敬希望相手のアポイントを
100%以上取り付けている手腕などからみて、
モロトフ元外相の孫というこの人の今後に注目し、
期待しうること。     (つづく)
日露専門家対話@ [2008年04月01日(Tue)]











 ユーラシア21研究所、安全保障問題研究会が日本側の、ロシア平和基金ほかがロシア側の共同主催者として、「新しい日露関係・専門家対話2008」が3月18、19の両日、モスクワのダニーロフスキー修道院ホテルで開催された。

日本側の出席者は以下の通り。

安野 正士 上智大学国際教養学部准教授
木村  汎 安全保障問題研究会座長、北海道大学名誉教授
小池百合子 衆議院議員、前防衛大臣
袴田 茂樹 安保研座長、青学大教授、ロシア東欧学会代表理事
花岡 信昭 政治評論家、元産経新聞論説副委員長
兵藤 長雄 元外務省欧亜局長、元駐ベルギー大使
吹浦 忠正 ユーラシア21研究所理事長、元埼玉県立大学教授
前原 誠司 衆議院議員、前民主党代表
孫崎  享 防衛大学校人文社会学群長、元駐イラン大使
三原 朝彦 衆議院議員、自民党国際局長
村井 友秀 防衛大学校教授、図書館長
本村 真澄 石油天然ガス・金属鉱物資源機構首席研究員
吉岡 明子 ユーラシア21研究所常務理事、安保研事務局長、

 上月豊久在モスクワ日本国大使館公使ほかがオブザーバー。

 ロシア側の主な出席者は以下の通り。
 ヴェチェスラフ・ニコノフ      露側団長、ロシア統一基金総裁、
 コンスタンチン・ヴィノグラドフ  上院国際関係委員会エキスパート
 アレクセイ・ヴォスクレセンスキー 国際関係大学東洋学部主任
 エヴゲニー・ガヴリレンコフ    投資会社常務取締役
 アレクサンドル・ディンキン    世界経済国際関係研究所所長
 コンスタンチン・ザトゥーリン   国家院議員
 アナトリー・クリメンコ       極東研究所主任研究員
 エヴゲニー・コジョキン      ロシア戦略研究所所長
 イリヤ・コロソフ         中央TVプロデューサー兼キャスター
 アナトリー・コーシキン      戦略立案センター上級エキスパート
 セルゲイ・マルコフ        国家院議員
 アンドラニク・ミグラニャン    非公開株式会社副社長
 ヴァシリー・ミヘエフ      世界経済国際関係研究所日本課主任
 ヴィクトル・パヴリャチェンコ   極東研究所日本研究センター長
 アレクサンドル・パノフ      外交アカデミー学長、元駐日大使
 パーヴェル・スリャンジガ    少数原住民族協会第一福会長
 ヴラジミル・チェレホフ      ロシア戦略研究所主任研究員
 ヴィタリー・トレチャコフ     「政治クラス」誌編集長
 ドミトリー・トレーニン      カーネギーセンター最高責任者
 ミハイル・チタレンコ       極東研究所所長
                     (つづく)
国家主席の来日 [2008年04月01日(Tue)]




  チベットの首都ラサのポタラ宮殿。   







 北京五輪の聖火が3月31日、北京空港に到着し、
天安門前広場での歓迎式で、
胡錦濤国家主席が聖火リレーの開始宣言をした。

 読売新聞によれば、
「観光客が約1キロ離れた路上まで退去させられるなど、
厳戒態勢が敷かれた」。

 このあと、カザフスタンに運ばれ、
周辺国や中国国内をまわり、
チベットを6月19〜21日に通過する見込みという。

 北京五輪の成功を祈念するが、
少々、首を傾げたくなることも少なくない。

 国家元首が開始宣言というのも、その1つ。

 聖火が中国中を駆け巡って、
オリンピックの政治利用を最大限に発揮する道具となろう。

 注目すべきは、人権抑圧が続く中で、これからの4ヶ月間、
何が起こるかということだろう。

 史上最大の警戒態勢と
人権抑圧の続くの中で行なわれるオリンピックって
なんなのだろう。

 そんな中で、同国家主席は5月6日に国賓として来日、
11日までの6日間、東京、奈良などを訪れることになったという。

 98年の江沢民国家主席の訪日以来10年ぶり、
「普通の国」と国との関係になってほしい。

 さらに、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマが4月12日、
訪米の途中、成田空港に数時間滞在するという。

 日本政府が何をするか、大いに注目しようではないか。

 まさか、
「胡首席、オタクも大変ですね。がんばってください。
このあいだ、ダライ・ラマとかいう人が
成田空港を経由してアメリカに行きましたが、
日本政府は完全に無視ました」
なんていうことにはならないんでしょうね。
赤十字K [2008年04月01日(Tue)]



 


アンリ・デュナン




    


   西南戦争時における「博愛社」の救護活動。
   赤十字活動をしながら、十字は「耶蘇のしるし」で
   あるとして、認められなかった。


 1867年にパリの万博で、佐賀藩士・佐野常民が、赤十字について知ったときには、そんなに強い印象は残っていなかったのではないでしょうか。

 しかし、国際赤十字の創立者アンリ・デュナンのほうはちゃんと覚えていたのではないかと思われます。

 彼は日本から来ている者とこのパリ万博で会ったということを書き残しているからです。そういった記録が最近発見されました。

 佐野が日本で赤十字をつくろうという決定的な動機づけになりましたのは、明治6年にウィーンで開かれた時の万博での見聞です。これは初めから見聞を目的として、つまり、前回のパリ万博のように、鍋島、薩摩、徳川と3つが出掛けていって張り合ったような話ではなくて、今度は正式に政府の使節として佐野は出掛けていって、赤十字館をしかと見て勉強して帰ってきました。

 さて、明治10(1877)年、西南戦争の時に佐野と大給恒(おぎゅう・ゆずる)の両名が、両軍の傷病兵救護のために結社をつくりたいという嘆願書を出し、その5月1日に、嘆願書を熊本まで持って行きました。

 この日を今日も日赤は創立記念日としています。その日に熊本に着き、副文はすでに宮側のほうに渡しているわけですが、正式には3日に有栖川宮に設立嘆願書を提出して、その場で許可されるというセレモニーが行われました。

 ただ、そのときは日本赤十字社ではない、博愛社という、国際的には赤十字と同じものができて、日の丸の下に横一というマークで発足したのでした。

 博愛社は、西南戦争ではそれなりの活動をいたしました。

 9月までに1420人を救護したという記録が残っております。そして、東京に仮事務所を構えたのです。その時すでに宮内省から1000円というお金をいただき、これが最初の活動資金となりました。

 しかも、後に小松宮となった東伏見宮親王を総長に推戴することができたわけです。ですから、完全に皇室と一体になって日本赤十字社、その前身である博愛社が発足したとお考えいただきたいのです。

 そして、このあとも皇室の支援が随時あったということをご理解いただければと思います。
テロの現場での19歳 [2008年04月01日(Tue)]











  西村さんのご著書。
  類書のないすばらしいご本を
  拝読させていただいた。感謝。




 1960(昭和35)年10月12日の出来事を私は忘れられない。

 日本社会党委員長淺沼稲次郎が日比谷公会堂での3党首合同演説会で演説中、「暴徒の凶刃にたおれた」(朝日新聞)、その瞬間を、会場の最前列で見たのである。暗殺したのは山口二矢(おとや)という、私と同じような年齢の少年だった。

 まだ弱冠19歳、われながら若かった。すぐ、朝日新聞の投書欄「声」に一文を送った。

「事件に関するおびただしい量の投書が、連日、『声』欄に殺到した」(同)という中で、その一文が、同19日付「淺沼暗殺事件・声・特集」という一個面のトップに4段見出し「異様だったフンイキ 主催者は責任免れまい」として掲載された。

  〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・

東京 吹浦忠正 19

 私は、浅沼氏が刺殺されたのを目のあたりにみて、興奮を押えることができず、ペンをとっている。

 私は17歳という年齢について、考える。あの場のフンイキには、山口をして刺殺を止め得ぬ何物かがあったように思われるのである。

 浅沼氏の演説は、ケンケンゴウゴウたるヤジ中で、始められた。

2階から、ビラが多量にバラまかれた。

ヤジる右翼と格闘した青年。

演壇にかけあがり(山口があとで同じコースを上がった)ビラをまきつつ奇声を発して楽屋に去った右翼青年。

 報道陣のライトは、ヤジる右翼の集団を、熱いほど照らし出していた。聴衆の耳目も、演壇から“左に陣どる右翼”にすっかり奪われた。

 演説は中断され、司会者が静粛をこうた。

再開後5秒、左側の右翼に向かって堂々胸をはって語る浅沼氏の右から、短刀を低く構えて山口は突進した。

「民族社会党」と称する者が、こぶしをふるい、つい先まで浅沼氏が使っていたマイクで自党宣伝をぶっている。

右翼も登壇している。池田氏は、顔面を固くし、幾重にも囲まれた中で震えているように見えた。

 まるで、1つの物語が次第に展開されて、ついにクライマックスに達するようなテンポではないか――。そこに“17歳”をして、暴走せしめたものがあったようだ。

 私がつくづく思うのは、選挙権のない者は入場できぬようにすべきだったということだ。

彼は17歳、私は19歳である。あまりに、フンイキにまきこまれやすかった。私は、以後、この種の会への参加は遠慮したいと思う。
(学生)

  〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・

 今、読み返してみれば、我ながらいかにも田舎からぽっと出の“紅顔の美少年”的ナイーブ(純朴さ)で、少々、顔を赤らめざるをえない。しかし、そのときの率直な気分だったことは間違いない。

 私は、本を2、3冊持っていたのだから、山口に投げつけることも出来たし、生来の大声で、淺沼さんに危険なことを気づかせることもできたはずだ。それなのに、まるで無声映画でも見ているかのごとく、凶徒が壇上に駆け上り、腰を据えて心臓のすぐ下を一突き、一度抜いてまた刺し込むのをじっと眺めているだけだった。

 あれからまもなく50年、今同じようなことが目前で起こったら私はまちがいなく、何らかの対応が出来るような気がする。実際、内外でそれに近いような場面に出くわしたこともあり、しかるべき態度を示したと、振り返ることもできる。

 今回は、小欄を通じて、西村典子さんという、投書欄の学術研究者の方から、当時の新聞のコピーを頂戴して、久々に読むことが出来た。感謝している。
中曽根元首相とのこと [2008年04月01日(Tue)]






 中曽根元首相とヴィシャスラフ・ニコノフ
ロシア平和基金総裁。2007年3月。
中曽根事務所にて。




 私は中曽根康弘元首相の「郎党」や「食客」の一人のようなものである。

 1962年秋に行なわれた、憲法調査会中央公聴会で青年代表として公述人になった私は、当時、まだ、早稲田大学第1政経学部政治学科の学生だった。

 全国放送の生中継という状況で、30分間公述したあと、中曽根委員から質問が出た。「貴君は青年として、私の持論である首相公選制についてどう思うか」というのである。

 あきらかに賛成してくれると思い込んでおられた風情だった。

「結論から申し上げますと、私は反対です。わが国においてはイデオロギー的に国論が二分しており、しかも、参院全国区の選挙でみられるように、いわゆる人気者が何百万票もの得票で第一位になる社会的選挙体質があります。首相を公選した場合に、予想外の人が首相に選ばれたり、行政府と立法府でまったく政策の根幹が対立するような結果にならないとも限りません。したがって、わが国の首相は議院内閣制によって選出されるという、現行憲法のままが良いと考えます」。

 失礼なことを申し上げたかなと思ううちに、公聴会は終了した。

 すると中曽根委員は、演壇のところに足を運ばれ、「キミの意見をもっと聴きたい。明日の昼は空いているかね。メシでも食おう」というのだ。

 実は、もう時効だから公開するが、私は早稲田大学の学生部長からあるお金を頂戴し、「何を言ってもいいから、終わったら10日間、大学に来るな。山に登るか温泉にでも浸っておれ」と申し渡された。

 60年安保のあとだし、大学では全学連が大暴れしていた時代だ。そんなときに憲法改正について議論する場に、参加するというのは、学生部長としては「弱った事態」か「困ったこと」だったに違いない。

 事実、西武線椎名町駅付近の私の部屋付近には、私が頼んだわけでもないのに、二人の警察官が3日間、終日、警備に立っていてくれた。

 そんな中での「きみ、明日の・・・」の話である。

 私は不本意ながら既に蓼科に逃げるべく、諸準備をしていたから、一瞬、たじろいだが、会場内におられた松本馨専門委員(後、大学院での私の指導教授)がこの声を耳にし、
「明日、もう一度、しっかり反対して来なさい」と督励してくれ、予定を変更した。

 赤坂のリキ・アパート(かの力道山が経営していた高級貸しビル)にあった中曽根事務所を訪問したところ、
「よく来てくれた。ああいうふなれであろう状況の中で、よくぞ堂々と自分の意見を開陳したね。考え方は違うが、気に入ったよ」。

 このあと昼食をご馳走になり、「ところで、秘書にならんか」といわれたが、真面目な?学徒であった私はそれはお断りし、折から話があった東京オリンピック組織委員会の専門職員をしながら、学問に励んだ(ことになっている)。  (つづく)
山田吉彦学兄の転出 [2008年04月01日(Tue)]






  山田吉彦学兄

















    山田学兄の著書。
   いずれも高く評価できる内容で、
   お勧めです。






 日本財団広報部におられた山田吉彦学兄が、転出のご挨拶にお越しくださった。

 4月から、静岡県清水市にある東海大学海洋学部の准教授として研究と指導の生活に入る。嬉しいことに、毎週後半の2日間は、ユーラシア21研究所と同じ、海洋船舶ビル(虎ノ門)にある海洋政策研究所に研究員として顔を出すと言うから、もしかして、これまでより頻繁に顔を合わせることになるかもしれない。

 山田学兄は、学習院大学を出、数年間銀行員となり、日本財団でも最初は経理を担当していたという変り種。

修士課程に入った多摩大学では日下公人教授(前・東京財団会長)の指導で修士号を取得、海賊問題や海洋、島嶼、船舶の専門家として、テレビ出演や雑誌絵の論文掲載で活躍している人。博士号の取得も近いとか。

先日はイージス艦の事故についてNHKの夜9時のニュースで解説していたし、北朝鮮の工作船事件や北方領土近海での日本人漁船員射殺事件でもすばらしい解説をしていた。

一昨年は、多忙な中を、私の推薦で北方領土にも初渡航してもらい、現地理解を進めてもらった。

 同僚としてのこれまで協力に感謝し、好漢のさらなる活躍を期待する。
「南京事件論争」の入手法 [2008年04月01日(Tue)]












   2005年に南京の記念館を
  訪問したときの吹浦。
  今もこの数字の表示は変えていないというから、
  関係者の政治性的企図を警戒せざるをえない。





 京都大学の大学院生の方から私のメールに、問い合わせがありました。

 昨日紹介した英文の「南京事件論争 Nanjing Debate」の販売状況と入手方法についてです。

 全部で4,000部印刷し、3,500部は日本の外務省が買い上げ、500部が希望者に頒布するようになっているようです。

 ただ、外国からの要望が多く、増刷が十分間考えられるもののようです。

 お申し込みは、ジャパンエコー社に直接というのが一番早いようです。

 電話は、03−3519−3514、
 メールは、je@japanecho.co.jpです。

 とかく、日本からの発信が少ない中で、この本が世界の世論に一石を投じてくれることを祈ってます。

| 次へ