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米原万里さんたち [2008年02月25日(Mon)]



米原万里さん



<日露文化交流B>


 私は今回の日露専門家対話に、セルゲイ・チローノフさんが同時通訳として協力してくれていることを特に評価し、嬉しく、感謝したい。

 イノゼムツェフ、アルバートフSr.、末次らによって1973年に始まったこの会議は長らく、両国が発言の機会はもとより、財政的にも通訳の上でも、平等であり、双方から優秀な方がその任にあたった。

 戦時中、シベリアに抑留され、そのままモスクワに残った元日本陸軍所属の柳学亀(ユ・ハック)さん(戦後、40年近くソ連科学アカデミー主任研究員などの任にあたり、現在、韓国に移住)、ヴィクトル・キムさん(元モスクワ放送勤務)といった方々の名前を、同様にすばらしかった工藤さん(イズベスチア東京支局勤務)、米原まりさん(エッセイスト)といった日本人の通訳のみなさまの名前ともにわすれることができない。

 しかし、こうした方々が第1線を退かれたり、亡くなられてからは今回も通訳をしてくださっている吉岡さん、柴田さんほか、日本人だけが同時通訳にあたったという会議が14回、続いている。

 私たちは毎年、サハリン州とも「サハリン・フォーラム」を開催し、こちらも通算11回にもなるが、そのすべてが、日本人通訳で行なわれてきた。しかも、日本人でもこうした通訳のできる人は、せいぜい5,6人といった数に過ぎない。

 こうした日露語間の通訳の不足は両国関係の発展にとって実に由々しい問題である。両国が賢明な努力をしなくてはこの窮状は解決できないと思われる。

 しかし、最近すばらしい報道があった。モスクワの小中高14校で日本語が選択必修科目になっている、とサンケイ新聞モスクワ支局長が2月19日に次のように報じたのだ。

「それによれば、モスクワの一部公立小中高校でこのほど、日本語が初めて第2外国語の選択必修科目となり、日露関係者の間で話題となっている。領土問題を抱える日露両国の政治的な関係は冷ややかだが、市民たちの日本に寄せる関心の高さを示す出来事といえそうだ」。

「小学5年生から仏独伊日の4カ国語の中から第2外国語を選択するが、同校では、ロシアは東西の中間にある。西側文明を取り入れ、独特な発展を遂げた日本への思いは特別です、という。

 モスクワの公立校で日本語が選択必修科目となったのは昨年9月から。日露賢人会議の共同議長を務めたルシコフ・モスクワ市長が主導し、同市内の14校が日本語必修指定校となった。

 指定校以外からも、問い合わせがあるが、小学生用の日本語教材が存在しないことや、日本語の教師陣不足などで試行錯誤が続いている。

 日本大使館の文化・広報部では、こうした動きを歓迎しており、日本語教材の提供や日本語教師の研修などの支援を検討しているという」というのが記事の概要だ。
               (つづく)
バイカル号の旅 [2008年02月25日(Mon)]











<日露文化交流A>

 「バイカル号」は5千トンあまりの貨客船。
同型の船が、横浜〜ナホトカ、レニングラード〜ロンドン、
ジェノヴァ〜ヤルタなどの航路を通航していた。
私はこの3つのうち、ジェノヴァ〜ナポリ間以外に、
1960年代後半に乗船したことがある。
夜間に航行して昼は各都市を見物できるというのは、
とても魅力的なものであった.。

 当時は、横浜からソ連船「バイカル号」で2泊3日、
船員と交流しながらナホトカに到着、
列車でハバロフスクに行き、そこから
飛行機や鉄道でモスクワその他を視察し、
ヨーロッパに向かうというのは、若者にとっての、
理想と現実が一致した1つの海外旅行パターンであった。

 しかし、それが終焉して久しい。
今はビジネス客を含めて日本からロシアに入国する者が
年間約6万、ロシアから日本へは約4万人に過ぎない。

 これは中国、韓国台湾などとは比較できない少なさであり、
欧米に比べてもはるかに少ないのは、ロシアの
ホテル、バス、道路事情などインフラの未整備や物価の高騰、
治安上の危惧といった社会条件、さらに、
航空事情の困難、観光情報の少なさなどのほか、
ガイド、通訳、日本の旅行社への働きかけの不足などが
あるのではないかと考えられる。

 思えば、日本からは、大相撲が初めて海外に出かけたのは
モスクワであったし、歌舞伎も大好評であった。
男声四重唱はロイヤルナイツ、ダークダックスをはじめ、
ソ連で大きな評価を受けた。

 茶道、いけばな、柔道など、
日本文化がさまざまな分野で受け入れられた。

 プーチン大統領が柔道に親しんでおられるというのも、
そうした延長線上にあるのではないかと拝察する。

  しかし、昨今はどうであろう。

 日本では高校や大学でのロシア語の履修生が激減し、
専門的な語学学校でも、履修者は中国語を履修する者の
圧倒的な多さは言うに及ばず、
韓国語に大きく離され、フランス語、スペイン語、ドイツ語に及ばず、
昨今は、イタリア語、ポルトガル語、アラビア語にも抜かれているというのだ。    (つづく)
「カラマーゾフの兄弟」がブーム [2008年02月25日(Mon)]










日露間の文化交流@

『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫、各750円、全5巻)が今、日本でブームになっている。発行元によれば、2006年9月に発売されてからこの2月までで64万部も出ている。ロシア文学がこういう形で突然、ベストセラー入りすることはとても珍しいことであり、出版界ではこれについて2つの見方をしている。

第1は、この作品が本来、ロシア人のみならず日本人の心の琴線に触れる内容的な共感性であり、第2は、新たに翻訳をした亀山郁夫(1949〜)東京外国語大学教授の翻訳文のすばらしさ、読み易さである。

 つまり、作品が持つ根源的な価値と新たな努力によって価値との相互作用により、このブームが起こったのである。

 日露間の文化交流の活性化については、尊敬するご列席の皆様方にだれひとり異存がないと拝察する。

 しかし、かつて年間37億ドルにまで落ちた日露間の貿易が昨今200億ドルにまで急増したに関わらず、文化交流はもしかして、1960年代のほうが活発であったのではないかと、私は今、自分の学生時代を振り返っている。

 入学してすぐ、宇宙飛行士ガガーリンとであった。彼が私の学んでいた早稲田大学を訪問し、1万人を超える学生に大歓迎されたのである。また、ボリショイ・バレエ、ボリショイ・サーカスは、当時、日本で大人気であり、巷では、ロシア民謡が日本語に翻訳され、何十曲も歌われていた。おそらく、日本の55歳以上の人は今でも2,30曲は知っているのではあるまいか。トルストイ、ドストエフスキー、チェホフ、チャイコフスキー、プロコフィエフといった人たちの作品は、そのあらすじやメロディーがおのずと浮かんでくるほど、日本人の多くに親しまれて来ているのである。

当時、ソ連は科学・技術、芸術・文化における最先端国であり、それゆえに世界の若者にとって垂涎の的であった。

ロシア文学はその5つ6つの概要を知らない者はいなかたっといっても過言ではあるまい。映画も良かった。劇場には列を成していた。

英語のほか、第2外国語としてロシア語を学ぼうとする日本人も多かった。
          (つづく)
末次一郎先生のこと [2008年02月25日(Mon)]





  沖縄・宮古島でみた月。2007年7月撮す。




「佐賀県・3月に定年S」さんから、「わが師・末次一郎」についてのご質問をいただきました。

 大変恐縮ですが、インターネットでもたくさん出てきますし、私も小欄でたびたび書いてきましたので、それらをご参照ください。

 なお、先週、共同通信から配信されたものが、各地方紙に出ています。私はたまたま20日の静岡新聞で見、そのあと、22日の京都新聞を、磯辺寿子前京都市議会議長が送ってくれましたので、ほぼ同じ内容のものを読むことが出来ました。

 佐賀新聞にも出ているかもしれませんが、念のため、静岡新聞から転載させていただきます。

 末次と沖縄の関係の一端が描かれています。

 なお、末次のことについては雑誌や新聞にもたびたびインタビューを受けていますので、このあとも、もし、これはという記事がありましたら、小欄でご紹介します、皆様のほうでも気づかれた際にはお知らせいただければ幸甚です。

  ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

20年目の平成−象徴の軌跡 負の遺産(3)
 慰霊行事仕掛けた密使

 一九九三年の天皇初の沖縄訪問では、陛下の慰霊の思いをどういう「形」で表してもらうか、県遺族会を交え大田県政と宮内庁がせめぎ合った。舞台裏では「陛下の意をくむ水面下の交渉役」(同庁幹部)が奔走した。

 訪問を翌年に控えた九二年春、県遺族会幹部宅に一本の電話が入った。「陛下の立場で最初に沖縄に来られるのだから戦没者の慰霊をしていただこう」と熱く訴え「宮内庁と県との橋渡しは私がやる」と買って出た。

 故末次一郎氏。北方領土返還や沖縄返還などを生涯の仕事として「戦後処理」に取り組み、中曽根康弘元首相ら歴代首相の相談役でもあった。念頭には、昭和天皇が果たせなかった訪問の実現を機に、陛下の意向を踏まえて「沖縄の戦後に決着を」との考えがあった。

 沖縄の子供を本土に招く豆記者交歓で六○年代から当時の皇太子夫妻と接点があり、日の丸を贈る運動や返還運動などを通じ「沖縄に広い人脈があった」(同庁幹部)。

 「X計画」。関係者は末次構想をそう呼んだ。追悼式や遺族代表との面会が検討されたが、天皇への複雑な感情が残る沖縄では「天皇の政治利用」を警戒する声が強かった。「これだけ頼んでいるのにどうしてできないのか」と末次氏が県幹部に迫る局面も。幹部は「最後まで宮内庁との板挟みが続いた」と明かす。

 綱引きの末、式典は中止に。国立沖縄戦没者墓苑参拝と、沖縄平和祈念堂で待ち受けた県遺族会傘下の代表らに、陛下がねぎらいの言葉をかける妥協策に落ち着いた。

「沖縄では遺族会だけが遺族ではない。なぜ慰霊や『お言葉』に固執するのか違和感があった」と別の県幹部。宮内庁幹部は「形は重要ではない。実質的に追悼の場ができた」と総括する。

 九二年の訪中でも陰で動いた。反対運動が盛り上がった時期、赤坂御所に陛下を訪ねた。慎重論を話す末次氏に、陛下は「中国は大切な国なんですよね」とつぶやいたという。「お気持ちは前向き」と解釈し自ら反対派らの説得に乗り出した。

 平成の皇室が向き合う「負の遺産」。側近は言う。「末次氏は人脈を駆使して重い課題の解決に動いた密使。本人も歴史の宿命を負っていた」(肩書は当時)
           *      *
 ▽末次一郎氏
 佐賀県出身。陸軍中野学校二俣分校(旧天竜市)で、1974年にフィリピンから帰還した小野田寛郎氏と同期。戦争直後は引き揚げ者や東京裁判の戦犯支援に取り組み、青年海外協力隊設立にも尽力。北方領土返還運動でソ連(現ロシア)政府内に太い人脈を築く。海部、橋本、小渕の各政権で相談役を務める。安全保障問題研究会代表だった2001年に78歳で死去。
ロシア語は23の高校で [2008年02月25日(Mon)]







今朝早く、文部科学省国際教育課の野村さんから、回答をいただきました。

「全国の高等学校でロシア語を指導している学校は何校ありますか?」
という私からの質問についてです。

「平成18年度に調査したところ、39校でした」と、さきに野村さんから伺いましたので、その実数をと、さらに訊いたのでした。

答えは「23校」。

大学でのロシア語教育も講座数が減っています。受講者も当然、減少です。

この状況の改善は、日露両国にとって急務ではないでしょか。

野村さん、ありがとうございました。
パラグアイの海軍 [2008年02月25日(Mon)]



パラグアイの国旗




先般、ご質問にお答えして、内陸国であるモンゴルやボリビアの海軍についてお書きしました。

まだまだそうした例はあります。パラグアイも海軍を持っています。台湾と国交のある国であり、台湾からの艦艇の援助を受けてもいます。

パラナ河やパラグアイ河という河川を警備するための海軍です。

兵力は各500人からなる大隊が4つで計2,000名、ほかに海兵隊員900名がいます。航空隊の100名はこの中に含まれています。

保有している艦艇は
120mm砲4門搭載のパラグアイ級哨戒艇2隻、
40mm砲4門搭載のナナワ級哨戒艇2隻、
40mm砲1門、20mm機関砲1門搭載の哨戒艇1隻、
40mm砲1門、20mm機関砲1門搭載の旧式哨戒艇1隻、
カピタン・オルティス級哨戒艇1隻、
台湾・海鴎級哨戒艇2隻、
ほかに小型警備艇20隻、各種支援艦艇5隻。

ラプラタ川を遡ってやってくる外洋船もあるほど、パラグアイの河川は大きいのです。

私も以前、パラグアイを訪問したときに、その川の大きさに驚嘆しました。そして、世界三大瀧流の1つイグアスの滝のスケールにも目を見張ったものでした。

なお、スイスにも海軍があるということをおっしゃる方がいますが、これは陸軍傘下の水上部隊です。80ft型哨戒艇13隻を保有する湖沼や河川の警備を担当する部隊です。

オーストリアの海軍については、かねてから書きたくてしょうがないのですが、時間があるときでないと、それにはまってしまいそうで、自分への今後の宿題としておきます。

それと、パラグアイの国旗には表と裏があるのです。これについてもいずれご紹介します。
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