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古紙偽装の罪は深い [2008年02月23日(Sat)]




   「メッ!」



 再生紙で作ったという名刺をいただくと、
思わず、この人は善意の人なんだな、
環境を大事にしている人なんだな
と(自称)人のいい私などは、
かねてから、そう思い込んでいました。

 しかし、それが偽装だったというので
このほど、
製紙会社のトップが揃いもそろって、
退任や大幅な減俸になりました。

 当たり前です。
蟄居どころか、島流し、獄門、磔でもいい。

 人の善意を踏みにじったんですから。

 昨日、「しゃがませていただいたところ」に
未使用のトイレット・ペーパーがあったので、
ふと見ると、
「緑の地球を子供達へ」
「古紙1トンは20年の立木20本に相当します」
と書いてありました。

でも、いくら「人のいい(否、いい人)」フキさんだって、
もう騙されませんよ。「じっくり座って」考えて、気づきました。
このトイレット・ペーパーは
昨年の夏に製造されているんですから。

 そのくらいこの偽装の罪は深く、大きいのです。
「白紙」には簡単には戻りません。

差別には大反対だが [2008年02月23日(Sat)]




   信玄棒道の野仏



 繰り返して言うが、差別はもちろん厳禁だ。

 また、人を不愉快にするような言語をその人に向って言ってはいけない。

 しかし、「たたき台」は「たたき大工」(建築技術者の最下層の人)を連想させるからダメ、
「百姓」は「農民」差物する時代の用語だからダメ(「百姓一揆」は「農民一揆」か?)、
外交政策も「片手落ち」はダメ、
「めくら判」を押すもだめ、
丹下左膳が「めくら滅法斬りこむ」という表現も禁物、
谷崎潤一郎の『盲目物語』も「視覚障害者」への別称だから×・・・

でも、しかし、それでもなお、
こんな傾向が続いたら、日本文化を歪めてしまいはしないかと恐れる。

以上、「めくら蛇に怖じず」の類かも知れないが、あえて申し添えておきたい。

 おっと、あやうく「薮蛇(やぶへび)」になるところだった。

 いやいや世の中は「めくら千人、目明き千人」だから、きっと私の主張を理解してくれる人もいるはずだ。
NHKで失敗(?) [2008年02月23日(Sat)]




   対馬の金田城跡から。





もう、10年ほど前になるが、私はNHKの生放送で失敗した「らしい」。

広瀬修子アナウンサーのインタビューに応え、日本の難民受け入れ政策を論じた中でインドシナ3国からの定住難民を受け入れながら、他の諸外国出身の人については堅く門戸を閉じるというのはというくだりで、

「これでは外交的に片手落ちといわれても仕方がない」といった趣旨のことを述べた。

すると、番組の最後に「ただ今のゲストの発言の中に不穏当な表現がありました。お詫びして訂正します」と広瀬さんが言ったのだ。そこでテーマ音楽。

番組終了後、「ね、ちょっと待ってよ。ゲストって私しかいないんだよね」と訊いたところ、ここのところなのだそうだ。

どうやら、「政策のバランスを欠いている」とか「外交がダブルスタンダードである」と、言い換えなくてはいけないものらしい。N

どうやらNHKには「めくら判」を押す人もいない様子だし(そうかなぁ?)、以後、私はささやかに反省はしている(つもりです? いや、反省しています!)。
藍川由美さんの警鐘 [2008年02月23日(Sat)]








藍川由美さんのことは以前にも書いたが、日本最初の音楽博士。実力派のソプラノ歌手で、音楽学者でもある。

「弟子を取らない指導者」でもある。ステージからはもちろん、著書やCDで指導される。ここ数年、何度もこの人の「学会発表的リサイタル」にはせ参じたし、個人的にご教示いただく機会もあった。

その藍川さんの『これでいいのかにっぽんのうた』(文春新書)で、「歌における原詩は作曲された時の詞と考えるべきであり、こと芸術作品に関しては、教科書にスミを塗ったり、人物の顔を塗りつぶしたりするような行為はつつしむべきであろう」とし、歌の変更について次のように厳しく諌めている。

「わが国では文部省が率先して勝手な改作を行なってきただけに、オリジナル重視の意識が希薄なのだろうが、俗に<歌は世につれ世は歌につれ>といわれるように、歌詞から当時の民衆の心情や社会状況を窺い知ることもできる。従って、歌詞の内容よりも、こうした貴重な歴史的資料を改竄したり、隠蔽するといった行為をこそ問題視すべきではないだろうか」「われわれは芸術作品に対してもっと謙虚に接する必要がある」。 

藍川さんは、専門家としての立場から、個々の例を沢山挙げて文部省をはじめ、作曲家、歌手、解説者が勝手に詞や表題、解釈まで変更してきたことに警鐘を鳴らしている。

文化論、社会史といった視点からも、この警鐘は拝聴すべきものであり、大いに賛意を表したい。
コソヴォ国旗の案 [2008年02月23日(Sat)]





@ 在米アルバニア系コソヴォ人で、独立運動の中心的な人物である
ディオ・グアルディが考案したデザイン。










A 有力だったとされる案。









  B 結局、是に近い案が採択された。







   C 最終的に採択されたコソヴォの国旗





最終的に2月18日にコソヴォの国旗は
青地に6つの星と国土をシルエットにしたもの(C)とされたが、
それまでのコンペティションで有力とされたデザインには
こんな案があった。

@では棹側上部(カントン)にアルバニアの国旗、
それ以外はアメリカの「星条旗」のイメージ。

これでは、気持ちはわかるが、セルビアのみならず、
とても国際社会が面食らってしまう。

 21世紀のナショナリズムは
あくまでenlightenされた、
センスのいいものでなくてはならないのではないか。
落語へのお誘い [2008年02月23日(Sat)]






 三遊亭金八師匠と言うわが友人がいる。

 師匠といっても、わがこの人について落語を勉強しているわけではない。ようやく40に手が届きそうな、真打5年目の噺家さんだ。

 毎年、2月7日に九段会館で開催される「北方領土返還要求全国大会」の司会者をお願いしてきた。だから、この人の「言うなり」で、歴代の首相から共産党の委員長まで、立ち上がったりすわったり、しゃべったりしているというわけだ。

 昨年3月、わがユーラシア21研究所をオープンしたときや、今年の新年第1回目の「虎ノ門フォーラム」(月例講演会)の懇親会では、得意とする「南京玉簾」をしていただいた。

 この月例講演会にも、聴衆としてほとんど毎回、参加している。

 4年ほど前には、寛仁親王とご長女にお越しいただいたチャリティ・コンサートでも司会をしてもらった。

 そのくらい深い付き合いをしてきているのは、もとはといえば、この人のご両親が北方領土は歯舞群島の志発(しぼつ)島の出身、つまり、師匠は根室生まれの「北方2世」というわけだから。3年ほど前には一緒に、国後島や択捉島にも行った。

 以上は前置き。

 その金八師匠の恒例の独演会が池袋演芸場(豊島区西池袋1-23-1 エルクルーゼビル、電話:03-3971-4545、アクセス JR池袋駅西口大塚よりから徒歩1分)で開かれる。題して、「第6回ゴールド・ラッシュ」(金が8つもあったら、そりゃゴールドラッシュでしょうよ?!)

 私も毎年、学生や院生らとともに、馳せ参じる。

3月29日(土)18時30分開演。
木戸銭:は、売2000円、当日2200円。
出しものは、金時が『普段の袴』、金也が『干物箱』。そして金八師匠はおなじみ『三方一両損』など。

お申し込みは、aap24610@hkg.odn.ne.jpへ。
外務省と定食屋 [2008年02月23日(Sat)]








 8月の北京オリンピックを前に、今、私は世界の国旗に関する出版物3つに、同時並行で取り組んでいる。

 おかげさまで、昨年12月に学研から出した『国旗かるた』は好評で2万5千部となり、ついに、続編をということになった。最初の50カ国を除く国々で、あらたに読み札を考えるのは至難の業で、この2,3週間、「苦吟」したが、ようやく、2日前になんとか担当者は納得してくれた。

昨夜は、94文字で50カ国の国旗の説明をという“無理難題”をなんとかこなした。

この後は日本語と英語で各200字で世界の国旗を説明する文章を書かねばならないし、1冊は10年前に出したものの全面改訂の校正をしなくてはいけない。

そんなときに困ってしまう1つが、コソヴォ。この旗を出すか出さざるか。

ま、ヒルメシでも食いながら考えるか、と入った外務省に近いわが研究所の裏の定食屋で耳にした話。

コソヴォの独立をめぐってのこと。言葉遣い、話の内容からして間違いなく外務省職員同士。

A「ベオ(グラードの日本)大(大使館)大丈夫かな」

B「アメ(リカ)大(使館)ばかりじゃなく、ドイツ大(使館)まで暴徒の襲撃にあったぜ」

A「ウチも町村さん(官房長官)が国家承認に向けて手続きを進めているなんて言ったから、狙われるかもね。在京大(東京にあるセルビア大使館)とはいろいろやってるよ。いざとなったら警備はセルビア側にすがるしかないんだもんな」

B「でもさ、セルビア政府にしてみれば、国民の騒ぎは簡単に抑えられないだろうが、どこか納めどころを考えてるはずだよな」

A「EUと全面対決ちゅうわけにはいかんものな。セルビア人が多く居住しているコソヴォの北部をセルビアに残す、コソヴォとアルバニアとの合併を禁止するなんてとこかな。あと、コソヴォにはセルビア人にとっての聖地みたいなところもあるんだよ」

B「日本が承認するのは、欧米の主要国が全部承認して、セルビアの後ろにいるロシアの顔もある程度立つ形の見通しができ、中国も欧州のことにはシャカリキにならないなという見極めがついた頃かな」

A「アメリカにしてみれば、日本が早期にコソヴォを承認することがアジアへの影響力を考えて重要だろうね」

B「たぶん、上のほうには結構プレッシャーが来てると思うよ」

A「承認は暴徒が納まって、来週くらいかな。また忙しくなるかな。やはり、ロシアはチェチェン、中国はチベットや新疆ウィグルを抱えているからなかなかウンとは言えないよね」

B「いや、台湾ですよ、台湾。独立宣言をだし、欧米が承認すれば国連に加盟できるなんて話になったら、一番危ないのは台湾問題ですよね」

A「そりゃそうだ」。

そうかな。もっと危ないのは、こういう話を、定食屋で大声で話している外務省の機密保持ではないのかな。

実は、もっときわどい話をしていたのだが、近くで食事していた「どうってことのないボケ老人」である(と見えたであろう)フキさんは、もう、すっかり忘れてしまった。歳は取りたくないもの。また、機密はめったな場所では口にしないものでもあるよね。

以上、酒を飲むと、とかく大声を出しがちなわが身への反省を込めて。
歌詞と差別やイジメ [2008年02月23日(Sat)]








唱歌・童謡の歌詞と差別やイジメの関係について続ける。

『冬景色』(作詞作曲者未詳)の「いまだ覚めず岸の家」で「寝ぼすけの岸」と揶揄された岸S教授、

『朧月夜』(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)の2番、「田中の小路をたどる人も」で「広い道を歩いてはいけない」と言われた田中さんもいる。

『海』(作詞作曲者未詳)の冒頭、「松原遠く」でいじめられた松原くん、
『鯉のぼり』(作詞者未詳、弘田龍太郎作曲)の「橘かおる」で歌えなかった橘くんの話も聞いたし、
『椰子の実』(島崎藤村作詞、大中寅二作曲)の「旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
枝はなお 影をやなせる」の「最後の部分を強調して男の子たちにからかわれた」と柳瀬さんは小学校時代を懐かしんでいる。

私自身、『春の小川』(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)の冒頭「春の小川はさらさらゆくよ」で「小川」、
『春が来た』(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)の「山に来た里に来た」で「里」に無用に力んで、小川さんやKさとさんといった仲良しをいじめた?ことがある。ごめんなさい。

 しかし、こんなことは言ったり歌ったりした子供に特段の悪気があってのことではないし、むしろ愛着や親しみの表出であり、本来、目くじらを立てるほどのことではないのではないか。もちろん、度を過ごしてはいけないが。
 
毎年NHKは真夏に「懐メロ」特集をやる。2002年のトリは舟木一夫の『高校三年生』(岡灯至夫作詞、遠藤実作曲)。

以前、TV関係者から「これが出来た頃は、中卒者が大勢いた。そういう人達に辛い思いをさせるから、この歌はまずいんだよね」という話を聞いたことがある。

あれほどのヒット曲、高卒者が9割を超える以前から愛唱されていたことが嬉しい。差別に過剰反応しなかったからにほかならない。
ジプシーは禁語か [2008年02月23日(Sat)]







   山田の中の一本足の案山子 
       (山梨県内で、2006年に撮影)




『案山子(かかし)』(作詞、山田源一郎作曲)。「山田の中の一本足の案山子…」というあれである。これは障害者への差別を助長しかねないから、子供に教えるには不向きであるとされている。したがって教科書にもない。

「『案山子』や『ジプシーの歌』は差別用語の自主規制で放送できない」(NHKの音楽番組関係者)のだそうだ。

ジプシーについては今はロマということになっている。だから、同じ曲を「ロマの歌」と言い換えている人も多いようだ。放送では全部を『ロマの歌』にしているのだそうだが、果たして、ジプシーということばについて、日本人にそんな差別感があるというのだろうか。

「ツィゴイネルワイゼン」とは「ジプシーの歌」という意味のドイツ語ではないか。それとも、そんなことはあまり知られていないからいいというのだろうか。

シューマンの超有名な合唱曲『流浪の民』もロマの人たちへの差別を助長する歌なのか。石倉小三郎の名訳でしかわからないが、祖国を持たない民へのある種の憧憬のようなものさえ、感じられるではないか。

リストの『ハンガリー狂詩曲』やビゼーの『カルメン』には有名な『ジプシーの歌』がある。ドボルザークにもある。CDなどは必ずしも「ジプシー」を全否定はしていない。

ブラームスの『ジプシーの歌』は日本声楽界の権威・畑中良輔が弟子たちをズラリそろえて、CDを出している。

ジプシーの音楽性のすばらしさを称えて、その名で定着したものまで、無理に変えねばならないのだろうか。作曲者たちが聞いたら、「えっ、おれはこんな大をつけなかったぜ」と驚くに違いない。

「『埴生の宿(赤土で造った貧しい小さな家)』の埴生は構わないが、『われは海の子』の「とまや(苫で屋根を葺いた粗末な小屋)はいけないそうだ」と、藍川由美は『これでいいのか、にっぽんのうた』(文春新書)で嘆く。

『案山子』の作曲者も山田姓である。

しかし、わが友人で某中央官庁エリートの山田某くんは「小学校の時、『案山子』の歌でずいぶんいじめにあったから今でもあまり聞きたくない」と苦笑し、「あの歌でどれだけいじめられたか知らないからあなたはそんなことを言う」と私を叱る。以後、私は何となく、ファーストネームで呼んでしまっている。

山田の中の案山子はもちろん農耕の援けをして役立っているはずだし、その姿がかわいく面白いから、歌としても広まったのではあるまいか。

わらべ歌には気にすれば気になりかねない歌詞が幾つかある。

しかし、歌は歌、子供の間に発生したのがわらべ歌であり、そうした歌には、「相手の人間なり、動物なりをからかいはやし立てるものが多く」「教訓色のないの」がこの歌のいいところと金田一春彦は『日本の唱歌』で述べている。

愛着や親しみのあまり、こうした揶揄的な表記や行動になるのは、これもまた日本文化なのであって、いじめのために文部省唱歌として誕生したわけでは、もちろんない。

多少のいじめは後に薬になったり、悪友やワルガキの懐かしい思い出になるのではないか。悪友やワルガキもいまごろきっと(私同様?)胸に手を当てて反省しているに違いない。

しかし、こんなことでこの歌を引っ込めるのは、曲へのいじめにほかならない。

これは厳然たる日本文化である。差別やいじめには極力反対してきたつもりの私だが、時には、その行き過ぎに唖然とすることがある。

 本稿、もしかして私は重大な感違いをしているのかもしれない。それであっては、あるいはご迷惑をおかけすることもあるので、あらかじめ諸兄姉のご寛恕を願いつつ、間違えていたら懇篤にご指導いただきたい。

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