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恩師・橋本祐子先生@ [2008年02月06日(Wed)]



  講演中の橋本祐子先生







 小欄では時々、「わが師・末次一郎」と書いていますが、もちろんほかに「師匠」がいないわけではありません。それどころか、実に多くの先生方に恵まれてきょう今日までを過ごしてきたものと、感謝感謝の日々です。

 人生、迷うときは何度もあります。

 そういうときに、私にはこの「先生たちと対話」出来ることを感謝しています。

 中学時代の恩師・藤原立宏先生、高校時代の山谷浩二先生、
そして、これからご紹介する、
日赤の橋本祐子(さちこ)先生(1909〜1995)です。

 もちろん、末次先生のことは言うまでもありません。

 ところがこれまで、橋本先生―私たちの間では「ハシ先生」
と呼んでいますが―については、
ほとんど触れずに来ました。

 早く言えば「心の聖域」なのかもしれません。

 影響力があまりに大きく、深呼吸をしなくてはとても
語ることが出来ないほどだからかと思います。

 2月8日は、ハシ先生99回目の「誕生日」。

 私は、岡山、大阪、福岡、佐賀とまわっていますが、
心の中で感謝の祝杯を挙げたいと思います。

 なにか、ハシ先生と私のことのわかるものが
ないかと思っていたところ、
先生が、自ら主宰された「アンリー・デュナン教育研究所」の
「会報」1985(昭和60)年に5月号に書かれた一文が見つかりましたので、
追悼と感謝の気持ちをこめて、転載させていただきます。

 かくいう私に、今、郷里・秋田から大変難しい決断を要する話が来ています。
このあとも、上記の諸先生方と、「心の対話」をしなくてはなりません。

 それについてはいずれ・・・ということにして、まずは
ハシ先生の書かれたものをご覧ください。

 ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

   時は5月、我らは若い!
                         橋本祐子

  今年の4月16日のお昼頃のことでした。かねてお約束してあった長野の赤十字看護専門学校の要請に応えて、新入生に「赤十字との出会い」に関する心構えと、取り組み方の実習を、私の体験からお話しする目的で、長野駅に降り立つや否や、出迎えて下さった学校の方が、ニコニコして手渡して下さったのが、この新聞記事でした。

「先生、これ御覧になりました?」と言いながら・・・。

「アレーッ、吹浦さんじゃないの?!」と悲鳴をあげてしまいました。

  あんまり美男子の大写しなんですもの。

  それがまぎれもない我がアンリー・デュナン教育研究所の幹事、吹浦忠正氏だからでした。

  戸隠の山上近い会場まで登る車の中で読んだ記事がまた、大変心打つものでした。

「菊地育三」と明記した記者の筆力にも感心するものながら、かつて彼が高校生当時に、赤十字と言うテーマを以て「出会い」した私は、今や40代の実年を生きる彼を、その間ズーッと身近かに見つゞけて来た身ならではの、
深い感慨を覚えたのです。

  それはこの記事の中にある一文がみごとに表現しています。そして、それは事実なのです。言わば私は生き証人ですから・・・。

「高校一年生のとき青少年赤十字に入り、ハンガリー動乱による難民救済の街頭募金に参加した」に続いて、その他各種の救援活動の実績が挙げてありますが、「その後、赤十字思想の実践をライフ・ワークに」でくくってあるのが、私にとっては言い得て妙と言いたいところです。

  彼、生涯の生き方の布石は、彼の15、6才の頃既に「赤十字思想との出会い」によって敷かれていたのでした。青少年教育の重要性を痛感します。       (つづく)
東京五輪の閉会式 [2008年02月06日(Wed)]





    1964年10月24日、東京五輪閉会式の日、
  アフリカのザンビア共和国は独立した。
  開会式とは違った新国旗を持って、
  残留したたった一人の選手が、
  誇りたかく入場行進してきた。
  満員の観覧席からは、もちろん
  精一杯の拍手が送られた。







 1996(平成8)年、喜納昌吉
(シンガーソングライター、現・民主党所属参議院議員)は
アトランタ五輪のイベントに招待された。有森裕子らが活躍した、
近代オリンピック100周年を記念しての夏季大会である。

 五輪の公式文化イベントとして開催された「Celebrate the Rings」、
このイベントで、喜納昌吉&チャンプルーズは
アジア大陸代表として招待を受け、
喜納は100名を超える「エイサー隊」を率いて公演を行った。

 まさに晴れの舞台となったアトランタ行きであったが、
同時に様々な疑問点も残し、
あまり満足のゆく公演とは言えなかったようだ。

 アトランタでの模様については、
喜納自身のの著書『すべての武器を楽器に』(冒険社)で
詳しく述べられているので省きたい。

 しかし、喜納とオリンピックは切っても切り離せないものがある。

 喜納は自著『すべての人の心に花を』(双葉社)で、
「16歳(高校三年生)だった僕が、大好きなカツ丼を食べるのを忘れて、
食い入るように見つめた東京オリンピック閉会式の映像。
平和の象徴である祭典に導かれ、僕はここまで歩いてきたのかもしれない」
と書いている。

 あの日、1964(昭和39)年10月24日、
東京オリンピックの閉会式が代々木の国立競技場で行われた。

 既にあたりは暗くなっていた。

 私は職務上、その場にいた。感動を直接、体感したのは
生涯の感激である。

 まず、『第十八回オリンピック競技会公式報告書』
(オリンピック東京大会組織委員会発行)で、
その閉会式について確かめよう。
 
 天皇陛下がロイヤルボックスにご臨席になり、
君が代が演奏された。午後5時、
参加各国の旗手がプラカードに従って入場し、
フィールド中央に整列した。

 続いて競技を終了した開放感と大会に参加した喜びに満ちあふれた
各国選手は洪水のようないきおいで、
しかも無邪気になごやかな雰囲気のうちに入場、
チームの区別なく入り混じって整列を終わった。

 2分冊で厚さ10センチにもなる報告書の中で、
関係の記述がこれしかないことに、
正直、唖然とした。

この記述では「あの感動」はほとんど伝わってこない。

 当時、私は早稲田の学生だったが、
ありがたいことに、
日本では数少ない国旗の専門家として組織委式典課に迎えられていた。

 その経緯については、東京五輪の年1964年元旦号と、
3日付号で、当時、読売新聞社会部に所属していた
本田靖春記者が詳述している。
 
 その後も長野五輪やサッカーW杯でも
国旗づくりに大きく関わったが、ここは1964(昭和39)年の話。

 開会式同様、閉会式でも万一に備え、
予備の国旗を全部揃えて、メインスタンドの前にいた。

 国名を書いたプラカードと国旗とが間違いないかを確認するわけだが、
とりわけ、アルファベット順で最後に入場するザンビアが、
開会式とは違った旗で入場するのを
この目で確かめることに神経を集中していた。

 その日の早朝、選手村の宿舎に「独立おめでとう!」と
言いながら新国旗を届けたことも脳裏によぎった。

 そのザンビアのプラカードと旗手が入場し、
最後に開催国日本の旗手・小野喬(体操)が入場した直後、
各国の選手たちが一丸となって入り混じり、
互いに手を握り、肩を叩き、抱き合い、踊りながら入場してきた。

 そして、すぐさま追いついた、日本とザンビアの旗手を肩車にして
担ぎ上げた。

 開会式では秒単位の狂いも起きないよう、
進行表をにらみつつ懸命な指揮を務めた松戸節三式典課長以下だったが、
閉会式では、対立する米ソ両大国をはじめ選手たちが交じり合うだろうか、
日本の選手たちは生真面目に手を振るだけの行進になりはしまいか
などと不安だった。

 このこの巧まざる和合と親善の効果に嬉し涙が止まらず、
まさに、
「泣きなさい 笑いなさい」の心境で
私たちは肩の荷を下ろしたのであった。
編集手帳で愛唱歌の話 [2008年02月06日(Wed)]







  昨日、「1ファン」として小欄に「愛唱歌の連載、興味深く読ませていただきました。吹浦さんの日本の歌に対する思い入れを、もっとたくさん書き込んでください。」とのコメントをいただいておりました。ご激励ありがとうございます。

 以前にも申し上げましたが、私は音楽愛好者ではありますが、特別に、音楽の勉強をしたわけではなく、3,4年前から「歌におばさん」松田トシ先生に声楽を、また、ピアニストの山季布枝(やまきのぶえ)先生に「音楽」を教わったことがある程度です。

 ただ、5年ほど前に大学におりましたとき、『朧月夜』の歌を知らず、「朧月って何月ですか?」と訊くゼミ生がいて、これでは国際情勢をはなししている場合ではないと、一念発起、日本の愛唱歌について調査・研究をいたしました。

 昨今、小欄で連載しているのは、そのときにまとめた『歌い継ぎたい日本の心−愛唱歌とっておきの話』(海竜社)に加筆しているものです。

 いただいたコメントのほか、メールでもこの本については、質問や企画の提案などをいただいております。ありがとうございます。

 群馬県在住の星野健吾さんという方からは、私がすっかり忘れていた、読売新聞「編集手帳」の切り抜きコピーを送ってこられました。

 日本の愛唱歌に対する私の思いの一端を適切に書いてくれていますので、この機会にご紹介させていただきます。2003年7月1日付です。

☆・★☆・☆・☆・★・☆・☆・☆・★☆・☆・☆・★

「灯火(ともしび)ちかく衣(きぬ)縫う母は」で始まる唱歌「冬の夜」。二番に「いろりのはたに縄なう父は すぎしいくさの手柄を語る」とある。「居並ぶ子供はねむさ忘れて 耳を傾けこぶしを握る…」

◆埼玉県立大学の教授、吹浦忠正さんの近著「愛唱歌とっておきの話」(海竜社)によれば、出回っているCDには詞を改めたものもあるという。「すぎし昔の思い出語る…」

◆いまの子供には理解できないと思ったか。戦争の手柄話などもってのほかと考えたか。これでは子供たちがなぜ、こぶしを握って父親の話に聞き入っているのかが伝わるまい

◆「赤蜻蛉(あかとんぼ)」の姐(ねえ)やは、現在の民法では認められない十五歳で嫁にいく。「里の秋」の子供は父親の復員を待っている。歌われる時代に合わせて詞を変えていけば、先人の美しい遺産はぼろぼろになる

◆一日は、児童文芸誌「赤い鳥」の創刊日(一九一八年)にちなんで設けられた「童謡の日」。時代の背景を語り聞かせれば、いまの子供にも昔の歌の心は通じよう。歌い継ぐとはそういうことだろう

◆「故郷(ふるさと)」二番の詞に、「いかにいます父母」とある。親のいない児童に配慮し、飛ばして教える先生もいるという。考えすぎてもいけない。「(親のない子が)涙ながらに歌っても、それは必ず成長の糧になるはずだ」と吹浦さんは書いている。
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