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捕虜第1号 G [2007年10月31日(Wed)]











―― 収容所内での病気や戦地から続いての負傷者の例などはどんな様子でしたか。
酒巻 マラリアはもちろん熱帯病や伝染病の人はたくさんいました。負傷した人、大怪我の人、いろいろいますが、米軍側が適切に治療し、入院もさせました。
 肺結核になって、ニューメキシコのキャンプのほうの結核療養所のようなところへ行った者が10人余りいます。

―― 米軍側とのトラブルはいかがでしたか。
酒巻 「掃除をやれ」というわれたときの態度が悪いといって番兵と口論になり、撃ち殺された例がありました。あとは私を含め営倉入りはたくさんありました。

〔注〕「ここが汚れておるじゃないか」と、番兵からいわれる。ほうきを投げ出して「そこを掃け」。そのいい方が気に食わん。日本人に対する侮辱だ、日本軍人に対する侮辱だということで、それやっちまえ、でなぐりかかったわけですよね。そうしたら向こうはパパーンと射ってくる、殺されちゃった。こういう類のことがある。
<小野田寛郎・酒巻和男対談集『遥かに祖国を語る』時事通信社、117頁>

―― 自殺を企てた者はいないですか。
酒巻 そういうことを起こしがちだったので、われわれが努力して起こらないようにしたんです。幸い私が直接管轄しているところでは全然ありませんでした。ただ私のところから離れていったところに、今の番兵と口論して死んだということがあったのです。
 私は、つまらない死に方をするな、もっと大きい目標をねらわなくちゃいけない。大儀に生きた死に方をしてくれ。大石良雄はあざけり笑われても辛抱して、大目標、大儀に生きた。われわれが生きているのは天から生かされているのだ。つまらない死に方をするな、とこれが私の説得の論旨です。これを兵隊たちに教えました。それで無事みんな帰りまして、復興に尽くしたのですが、ともすれば目の前の小さな事がらのため興奮してしまう。

―― 捕虜どうしの仲違いやトラブルもいろいろあったようですね。
酒巻 サイパンだったか、スマトラだったのか・・・・・・降服勧告があったとき、「勝手に手を挙げて出て行ったじゃないか」「そのときおまえがうしろで銃を撃ったじゃないか」というトラブルもありました。その撃った者も、またその翌々日に出て来たのですね。「何だ、同じことじゃなか」。けれどそういうことから仲違いをし大げんかになりました。「帰国したら、おまえをやっつけてやる」なんて最後までいっていました。それも個人的なつまらないことです。けれどもね、本人にしてみれば生命賭けの話です。

―― それはキャンプ内のことですか。
酒巻 キャンプ内のことです。私のところにいる間はそのようなことがないように努めていました。しかし、私から離れてから脱走を試みたのですね。いたたまれなくなったのでしょう。

―― どちらですか。撃ったほうですか。先に逃げたほうですか。
酒巻 先に逃げて撃たれたほうです。どちらかというと、捕虜観においてアメリカナイズされた考え方の人間ですね。日本的な思考が好きな者の考え方ではない。収容所内の捕虜はほとんど全員日本式な考え方ですから、皆にいわれていたたまれなくなったのでしょう。それで労働作業中に、みんなの間をくぐって逃亡しようとしたんです。逃亡したからとて自分が思うところに行きつくということはできないんです。
 だから、そういう馬鹿な事は考えるな、馬鹿げた企てをするな、といっていたのです。ただ、そうはいっても、いたたまれないで逃げ出す。しかし、結局、米軍側の管理事務所に戻ってきた。「助けてくれ」といってね。

―― それは兵ですか。
酒巻 兵です。兵どうしのトラブルです。

―― しかし、本人にしてみれば深刻な話ですね。
酒巻 殺すか、殺されるか、ですからね、今でいうリンチです。いうならば簡単なリンチで生きるか死ぬかという事態になるわけです。
 のちに将校と下士官が遠方のケネディ収容所(テキサス州)に移されてからは兵のみとなり、統率にかなり問題があったようでした。われわれがマッコイ(ウィスコンシン州)にいた時はとにかく日本人として恥しくない態度をとらせましたが・・・・・・。

―― 私もベトナム戦争や印パ戦争で国際赤十字の代表として捕虜の管理、保護をやったのですが、そのとき感じたことは、とにかく捕虜の組織を大事にし、捕虜代表のいうことを最大限尊重する以外に、捕虜をまとめていくことは至難だということです。生活習慣、文化、宗教、言語の違う者が自分の物差しで管理することには大きな無理があります。その収容所の捕虜代表にいい人がいる場合は本当に助かりました。
酒巻 そうでしょうね。あの当時の日本人捕虜の場合やはり統率する者がしっかりしていなければダメでした。
ハワイの花景色 A [2007年10月31日(Wed)]
 ハワイで出会った花です。こういうのが、庭先や軒先で
咲いているんですから、散歩が楽しかったです。



























チャリティ行事の出演料 [2007年10月31日(Wed)]






 寛仁親王(ともひとしんのう。三笠宮家のご長男。宮号なし)が
会長を務められる柏朋会主催第31回
「愛のコンサート・現代一流のプロと天才少年ドラム奏者の夕べ」
に参加した。

 寛仁親王が直接関わっているもので
最も力を入れている1つである。宮様の理念がいい。

「さまざまな会合に出て違和感を感じる」というのが原点とか。
それは、
@ 主催者、
A 寄付先の人々、
B 聴衆
に「何のつながりも感じることができなかった」と
感じていたから、自らがはじめた
とおっしゃるのだ。

めざすは「三権分立」ではなく「三権融合」なのだとか。

 つまり、出演者が福祉を理解しているのか、
聴衆は楽しみだけで来ているのではないか、
といった心配があったとお書きになっている。

 100回近く同様のチャリティ行事に関わってきた者として
これには多少異存なしとしないが、
全面的に否定するわけでもない。

 そこからの宮様のエネルギーがすごい。

「そこでわれわれは」と主語を置き
(「われわれ」とは、司会者である神津善行さんらとのことか?)、
「秘密裏にステージを見に行き、技術を確かめ」
「我が家にお招きして徹底的に私が説得し」たというのだ。

「年に1度くらいはノーギャラで」と説得し
「快くOK」した方のみ、出演していただいたのだという。

出演してくださる方のギャラの問題は実に難しい場合がある。
難民を助ける会の場合、古くは石井好子さん、森進一さん、
小澤征爾さん、ロストロポービッチさん・・・
最近では中村紘子さん、天満敦子さん・・・などは
ノーギャラだが、
事務所が介在し、関係者がいろいろありといった場合は、
楽器の運送費(実費)とか、
(特に名を秘すが)「お化粧代」が必要な場合もある。
出演後、ボソボソと「無料出演のはずでしたが、
諸事情がありまして・・・」と請求してくる、呆れた人もいた。

 柏朋会では、入場券の販売についても、
宣伝せず、プレイガイドに頼まずというやり方で、
つまり口コミだけで、
芝公園の「ゆうぽうと」を超満員にしている。
大変な組織力であり、積み重ねの賜物であると感心する。

 私は毎年のように出かけているが、
今回はプログラムも知らないまま、
「30代の美女」二人に誘われて出かけた。

ところが、出演したのは、
日野皓正(トランペット)、
山下洋輔(ピアノ)、
渡辺香津美(ギター)
のトップスター3人に、
邦楽から藤舎名生(笛)、中川秀亮(太鼓)の父子。

そして圧巻は、
和丸(16歳)、石若 駿(15歳)、鬼束大我(9歳)の3少年の
ドラムの競演。前日は遅くまで論文を書いたりしていたので、
詰まらなかったら寝るか帰るかくらいのつもりで行ったのが、
これで「目が覚めた」。

 それにしても宮様の健康が心配だ。
8回もの手術をされ、ご自分の歯は1本だけとやらで、
お声もふだんとは随分ちがっていた。
体重も随分減ったようにお見受けした。
それでもこの催しには特段の力を注がれている。

  ご自身でもまだ5分の回復だとおっしゃっておられた。
ご全快と再発なきを祈念する。

  日野皓正さんと宮様となると、
私は、6,7年前のわが大失敗を思い出して赤面する。

  難民を助ける会が主催した
日野さんと航空自衛隊音楽隊とのコンサートが
昭和女子大で開かれたときのことだ。中間の休憩時に、
私との昔話が盛り上がり、
2部に完全に遅れてしまい、
暗い中を手探りで入場したのだった。

 日本各地で、
もっともっとチャリティの文化が栄えることを
願っている。

 皇室がそうした傾向に先鞭を付けてくださっていることに
感謝したい。
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