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ワイキキの浜辺 [2007年10月30日(Tue)]
































 きょうは私にしては珍しく、公私ともつきについていました。

 それでお調子に乗ったのか、
いささか過激な写真をブログに掲載しました。
多少、忸怩たるものを感じています。

 そんなわけで、
先日、撮影してきたワイキキの浜辺の写真を3枚掲載して
みなさまとともに、少し目の保養をしたいと思います。


真珠湾攻撃の報道 [2007年10月30日(Tue)]














 真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗り、
捕虜になった酒巻和男海軍少尉とのインタビューを連載するのに、
軍艦旗を出したところ、
少々、やりすぎとのご注意をいただいた。

 この旗にまるで、ナチスのハーケンクロイツ(鍵十字)のような
嫌悪感を感じる人もいるようなので、以後は少し気を付けたい。

 しかし、修正や撤去をする気はしはしない。

 歴史的事実を大事にしたいからだ。

 酒巻さんは、もちろん死命を賭して攻撃したのだが、
オートジャイロの故障で企図を達成できないまま、
同乗者は溺死し、
同じ使命を帯びた他の4艇はいずれも沈められて、
9人が、「軍神」として称えられた。

 二人乗りの艇で9人というのは、
当時の人々も疑問に思ったようだ。

 ここで、ハワイで手に入れた、真珠湾攻撃を伝える
ハワイ側の新聞をご紹介したい。

 そのハワイで酒巻さんはしばらく捕らわれてから、米国の本土に
送還され、終戦の翌年、日本にもどったのであった。
捕虜第1号 F [2007年10月30日(Tue)]




  帝国海軍軍艦旗は、今、
 海上自衛隊旗として受け継がれている。





 真珠湾攻撃で捕虜になった、特殊潜航艇の乗組員・酒巻和男海軍少尉へのインタビューを拙著『聞書き 日本人捕虜』(図書出版社)から転載する。連載7回目。


   ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜


  ―― しかし、酒巻さんは将校手当は少しはあったでしょうが、労働収入は非常に少なかったでしょう。
酒巻 労働収入はないですね。けれども将校にはある程度の給与みたいなのが出るし、兵隊の労働収入にしても、同じ日本人捕虜の仲間で働いているわけですから、その収入を適当に配分して、実際働いて収入を得たものは割増しにしてという感じで再配分しました。そういう枠組みを僕がつくったんです。

―― マッコイにいたある日本人捕虜の元兵士は、「とにかく酒巻さんという人は偉い人なんだ」「何でも一人で全部するんだ」といっていました。それは話ができるということもあったと思いますが、捕虜の先輩で、捕虜とはいえアメリカ生活が長く、将校だったということもあるかも知れません。「ともかく大変怖かった。怖くてたまらなかった。収容所側よりも、もっと怖かった」といっておりました。
酒巻 (笑) それくらいにしないと、内部分裂の恐れや暴発の恐れがありました。将校同士で話合い、新米の捕虜にどう訓示するかを充分検討しましたから、今でもどんなことをいったか、はっきり覚えています。


〔注〕「・・・・・・大日本帝国国民たるの本分を自覚すると共に、被収容者たるの現状に鑑み、常に恥づかしからざる言行を旨とし、紀律厳正、協力一致、明朗快活なる生活を拓き、以って優秀なる団体生活を他に垂範するの覚悟なるべし」
<酒巻『俘虜生活4ヶ年の回顧』84頁(新来の捕虜に対し、黒板に右のように書き、心得を説いたという)>

 (昭和19年11月にはマッコイの収容所はいっそうふくれ上がり)日本軍の秩序はさらに強化されて、またしても上級の者がいばりなどし、リンチをほしいままにした。
 真珠湾攻撃のとき特殊潜航艇で参加して“捕虜第1号”になった酒巻和男少尉が世話係をしていたが、この人は温和な性格で、大学生をしのばせる理知的な風貌をしていた。わたしは、こんな青年将校に従っていこう、と決めていた。
 しかし、ファシズムにしがみつく連中は、ことあるごとに収容所の番兵とトラブルをおこし、あるときは1個中隊の米兵から銃剣でつきまくられる事件のきっかけをつくる。
<森義富(陸軍伍長、昭和18年2月、ガ島で捕われ、ニューカレドニアを経て、米本土へ。マッコイで酒巻氏らと過ごす)「ガダルカナル島の捕虜日記」(「新評」昭和47年8月号)144頁>



捕虜の指導に苦労

―― (空母飛龍の機関将校だった)萬代さんも「酒巻さんや私は本当に苦労した」ということをいっていました。とくにサイパンで捕虜になった兵隊は今とまるで違い「小学校しか出ていないような者ばかりだった」とか「ぶん殴ってやらなければいうことをきかない、しつけもしっかりしていない連中」が大勢いたとのことでした。「こわくなって、話合いとか説教とか民主主義なんて考えていたら間違いだよ」ともいっていました。
酒巻 そういうことですね。そんなことだけではおさまらないですね。全く裸と裸で体を張ってつきあわなければならなかったですね。

―― そのあたりの暴力団か何かわからないような人間もいっぱいいたらしいですね。酒巻さんらは海軍で、向こうは大部分陸軍という違いもありましたでしょうし、学校出の職業軍人もいればろくろく訓練も受けずに捕虜になったというのもいたりで、全体をまとめていくには苦労が断えなかったのでは・・・・・・。
酒巻 その通りです。皆やけっぱちになっています。背景も違うし、いろいろな状態で捕虜になったわけですからよほど厳しくしなければならなかったのです。

―― 殴ったりもしたのですか。
酒巻 殴りはしませんでした。

―― 萬代さんは多少は殴ったといってらっしゃいました。
酒巻 彼のほうが気が短いですからね。

―― 酒巻さんより3歳くらいお若いんじゃないですか。
酒巻 そんなものでしょう。ですから、そういうことはあり得るけれども、暴力はいけないですね。人間というのは、殴ったからいうことをきくというというような性質のものではないですね。ですから、そういう方法でなく、たとえ相手がどうであれ、導いて行くというのが望ましい姿ではありますね。


〔注〕歪みきった心は或る程度以上元へ戻らないのである。約束のない自由は放縦に変り、醜い自我は互いに衝突した。

 古い者と新しい者、陸軍と海軍、階級固守者と打破者。武士道死守者と打破者。不規則な斯うした対立の中で、自我の欲求を忠実に求め、個人個人が勝手な事を言ひ勝手な事を行ひ、果は勝手な徒党を作らうとしたのである。

 然し私達には、正当な制裁権も警察権もなかった。そこでただ出来るのは、不穏状態を未然に嗅ぎ出し、説教する位な事であろう。

<酒巻『捕虜第一号』138頁>
守屋氏巡る人間模様 [2007年10月30日(Tue)]








   「日の丸」が泣いている。






 後味の悪い証人喚問だった。
守屋武昌前防衛事務次官が11年間で200回以上の
ゴルフ接待を受け、
北海道や九州までゴルフ旅行に連れて行ってもらい、
ゴルフセットその他の提供を受けたとは、
相手が出入り業者でなくても、
これにはあきれるほかない。

 今後の焦点は、
@ ゴルフ接待が贈収賄事件に発展するか否か、
A 歴代の防衛相(長官)など政治家への波及はないのか、
B 速やかに退職金を返納するか、
C 他に防衛利権に絡んで同様のことが行なわれていないのか、
D 肝腎のテロ特措法の審議にどう影響するか、
といった点であろう。

 守屋氏と山田洋行の専務だった宮崎元伸氏との会食の場に、
防衛庁長官経験者が同席したことまでは認めた。

 しかし、その名前を明らかにしないまま、
久間章生元大臣は急遽入院するという。

 このほか、石破茂現大臣(防衛庁長官経験者)、
中谷元(げん)元長官、
額賀福志郎元長官といった
私が熟知し、昵懇にしている人たちは
いずれも「同席」を否定したと各紙に出ている。

 小池百合子前防衛相はどうかって?
在職していた55日間は、参議院選挙への対応で追われ、
私など「あなたは国の防衛大臣ではなく、自民党防衛大臣だ」と
冷やかしていたくらいであり、
守屋事務次官とはご承知のような関係である。
守屋・宮崎両氏との会食どころか、宮崎氏とは面識もないはずだ。

 実は私は守屋氏とは面識がある。
防衛政策課長時代からだ。
特に、玉沢徳一郎防衛庁長官時代、
ルワンダの救援活動で、
難民を助ける会が19トンもある井戸掘削機を
どうしても現地に空輸する必要があり、
私は2度にわたり、玉沢長官と長官室で怒鳴りあった。

「自衛隊のチャーター機の隅に、これを積んでほしい」
という私に、
「NGOの世話なんぞしている余裕はない。先例もない。
キミは日本通運と自衛隊を取り違えている。帰れ!」

「物理的に積めるスペースがあるときでいいから
工夫してもらいたい」

「できないことはできん。何か勘違いしていないか。
われわれは国の仕事としてゴマに向うんだ!」

「自衛隊は3オケまで運んでるじゃないか。
フロオケはまだしも、カラオケにカンオケだ。
そんなものより井戸の掘削機が大事に決まってる」

「そんなことはない。必要があってることだ」

「たった3ヶ月の滞在に何でそんなに大掛かりな荷物が必要か。
どっちが正論か記者クラブで議論しましょう」。

 これが、2度目の怒鳴りあいの雰囲気だった。
前もってあちらこちらに根回ししていたはずが、
大臣の態度が全然、「改善」されていない。
さてはて困った。
 
 空輸するには、一番安い航空会社でも3700万円と
見積もってきていた。

 そのときに、
事務官の席にひとりぽつんと座っていた守屋氏が、
何やら大臣に耳打ち。
「ふむふむ。なるほど・・・」と大臣。

「よし、判った。この際、特段の政治的配慮で、
アキがあったら再考するとしよう。約束はせんぞ、わしは」。

 かくして、千歳空港から世界最大の輸送機アントノフに
難民を助ける会の井戸掘削機は積み込まれ、
コンゴのゴマまで空輸、
そこからは陸送してルワンダに運び込んだ。
数十本の井戸を掘削して、
虐殺で荒れた同国の人々の役に立っていることは言うまでもない。

 その後、自衛隊とNGOとの関係は決定的に改善され、
ゴマとナイロビ(ケニアの首都)との間では、
自衛隊の輸送機がピストン輸送をし、
各国のNGO要員を自由に乗せてくれるなどし、
大いに頼りになった。

 そうそう私には山田洋行の幹部にも極めて親しい人がいる。

 ご夫婦で我が家に泊まっていただいたこともあるし、
一緒に海外の学会に参加したことは何度もある。
「残念ながら」ゴルフにも連れてってくれないし、
焼肉もご馳走してもらったことはない。

 この人は、心底、日本の安全保障を考え、
研究し、発言している尊敬すべき人である。
山田洋行だったか内田洋行だったかの幹部であることは
今回の事件まで私も忘れていたほどだ。

 防衛省(庁)や自衛隊のOBにはすばらしい人が
たくさんいるのに、
最高幹部が守屋氏のようなことをしていたんでは、
全体に対して著しい不信感がおきかねない。

 国際的な責務の遂行にも差し障りかねないし、
日本の官僚に対する信頼感は大きく揺らいだ。

 守屋氏は要するに、心優しい(気の弱い)
「やり手」なのであろう。

 その裏面で、かくも違法ないし酷い規律違反をしていたのは、
なんとも腹が立つ。

 その意味で、関係者の多くを知る者として
さまざまな人間模様を見た気がする。
特殊潜航艇 [2007年10月30日(Tue)]







 真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗り組み、
ただ一人捕虜になった酒巻和男氏へのインタビューを
拙著『聞書き 日本人捕虜』から転載しています。

 昨日、、
江田島に展示されている同じ艇の写真を掲載したところ、
千葉県在住の大橋さんという方から質問がありましたので、
特殊潜航艇の概要について、
海上自衛隊のHPから転載させていただきます。

 いただいたメールによると
中国との戦争で大変ご苦労されたとのことで
文面から察するに、80歳代後半とお見受けしました。
こえておられるように思います。「孫のお嫁さん」がパソコンで
私に質問してくれたようですが、
詳しいことは、そのお嫁さんに、「特殊潜航艇」について、
「インターネットで他の説明も調べてくれ」と頼んでみてください。

 いろんな話や写真が出てきますから。


    ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

<特殊潜航艇の仕様>
排水量 46トン
全長 23.9メートル
内殻直径 1.85メートル
電動機馬力 600馬力
速力 水中19ノット
航続力 6ノット80マイル 19ノット16マイル
兵装 魚雷発射管2門 魚雷2本
乗員 2名

本艇は、太平洋戦争の開始直前それぞれ
伊号第16.18.20.22.24.潜水艦に搭載され、
昭和16年11月20日呉軍港を出航し、
同年12月8日未明特別攻撃隊としてハワイ真珠湾に在泊中の
米国太平洋艦隊の攻撃に参加した
5隻の特殊潜航艇の1隻である。

昭和35年6月13日真珠湾港外約1マイルの地点で
米海軍により発見引揚げられ
昭和36年6月20日真珠湾に寄港した
揚陸艦「しれとこ」に搭載されて、
7月10日約20年振りに横須賀に持ち帰られ 
7月28日本校に到着した。

艇体頭部は受領当時切断されていたが
昭和37年2月株式会社呉造船所により新製され、
ここに艇体の原型が復元された。


 ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 なお、特殊潜航艇による攻撃は、
1942年5月31日にシドニー港内でも行なわれ、
オーストラリア側に19目の死者を出すということもあった。

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