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国旗の逆掲揚 [2007年10月25日(Thu)]








 東京・虎ノ門にあるわがユーラシア21研究所の
お向かいに、某有名徽章屋さんがある。

 そこでは国旗からゴルフの賞品や
スポーツ大会の優勝カップまでを扱っている。

 さきほど日本財団に行くのに
たまたま通りがかったら、
ショウ・ウィンドウにドイツの国旗が
さかさまに掲揚されていた。

 来年8月の北京オリンピック、
まさかこんなことはないでしょうね。

 1964年の東京五輪で、
私たち組織委が一番恐れたのでがこれであり、
そのためにはさまざまな努力と工夫を凝らしたものだった。

 明日まで待ってみて、
このままだったら、お向かいさんに注意してあげよう。
捕虜第1号A [2007年10月25日(Thu)]





        ワイキキの浜辺。酒巻は
     このさらに東側(写真では左側)の珊瑚礁に
     座礁したところを捕らえられた





 真珠湾攻撃で特殊潜航艇による攻撃に参加した酒巻和男海軍少尉は、オート・ジャイロの故障で、真珠湾に突入できないまま、戦力外となった。水中盲目航走のままオアフ島東南部のベローズ空港付近の珊瑚礁海岸に打ち上げられて捕らわれたのであった。

 このときの様子を酒巻は『捕虜第一号』(新潮社、1949年)で次のように書いている。

疲れ切って海中で泳げなくなってから、或は失神してゐたかも知れない。その時は、はっきりとした意識を持ってゐない。岸に着く迄、無意識に泳ぎの行動を続けたか、或は磯波にも打ち上げられたか、何れかであったに違ひない。私は何物かにぶつかったやうな感じと共にヨロヨロと動いていった。さうした行動を取ったと思ふ半意識的な記憶が残ってゐる。そして私は、はっと思って立ちすくんだ。私は急激に強い、明瞭な意識を取戻した。私の眼前には、背の高い米国兵がピストルを差しむけて立ってゐたのである。

 そこで私はまず聞いた。

―― いろいろとご苦労された様子は2つの著書(『俘虜生活四ヶ年の回顧』『捕虜第一号』)で拝見させていただきました。そこで、伺いたいのは、ご自分を含め、捕虜の取扱いについて米軍側と意見や見解を異にしたことはどんな点でしたか。

酒巻 米軍はジュネーブ条約通り取扱っていましたから、基本的に問題はありませんでしたが、感情的には、たとえば、捕虜収容所の運営上の問題があります。作業させる場合でも、米軍の方ではいろいろやらせようとする、ところが日本人としてそんなことは利敵行為になるし、受付けられないです。また労働に対する風習が違い、微妙なことになると言葉の違いも起こります。それが態度がおもしろくないとか、言葉遣いが面白くない・・・、つまらないことが誤解の始まりになります。それらの類から、管理者側たる米軍と意見が異なるというか問題を起こすというか、そういうことがありがちです。これはむしろ日本人サイドが悪いのです。捕虜になることはもとより外国人とかかわった経験がないものですから。日本人には、ただいちずな愛国心一本槍といおうか、軍人精神的なものばかりが表に出てそれが問題になります。

―― ということは、米軍からいわれた作業をすることが、たとえジュネーブ条約で規定されている範囲内であっても、戦力の増強につながると考えたということですか。

酒巻 私は利敵行為だとは全然考えませんでした。掃除とか山火事防止のための伐採とかそんな類のことなんですから。しかし、なかにはいろんな考えの人もいました。

―― その結果、ジュネーブ条約の範囲内のことまでしなかったのですか。

酒巻 あまり受付けない傾向はありました。捕虜はもはや戦闘員ではないのですから、日本人として、恥しくない収容所生活を送るべきなのです。もっと明確に状況や立場を理解し、国際感覚をもって、ジュネーブ条約的なものの考え方にレベルアップをしなければいけないと思いました。条約にそって適正にやっていく、また適正でなければ文句をいう、適正であれば文句をいう筋合いではないのです。われわれにも、文句をいわず話合いをして受入れるという体制はありましたから。むしろ中国軍に捕われるとか、ソ連軍に捕われるとか、その方では一方的な抑圧的な捕虜生活を強いられ、問題がいちいち起きたのではないかと思います。

〔注〕ゼネヴァ条約に依って兵は作業に出る事になっとる。今此方で食ふ野菜を作る農園と、近所の松林の下枝を払う清掃作業をやってゐる。これが1日80仙(セント)貰へるのぢゃ。ところが下士官は作業をやらんから毎月3弗(ドル)貰ふだけで、そこに経済上のトラブルが生じる。
 下士官の中には金の役目をするキューポ欲しさに兵のパンツまで洗ふ者がゐる・・・・・・。
                       (酒巻『捕虜第一号』)
ハワイの花景色@ [2007年10月25日(Thu)]






























ハワイで会議場とホテルの冷房にやられ、
中華航空の室内の乾燥にあい、
すっかり体調を崩してしまいました。

 そのためもあって、昨日は夜の11時近くまで、
ブログの更新ができませんでした。

「質より量」の小欄にはあってはならないことで、
何人かの方からお電話やメールで
「まだ生きているのか」といわんばかり(!)の
確認がありました。

 ご心配をおかけし申しわけありません。

 これからはそういう場合には、
写真だけでもと思っています。

 もっとも、以前、そうしたところ、
「手抜きブログはもってのほか。怠けるな」という
お叱りもありました。

 よくしたもので、さきほど、2つの出版社の編集者とご一緒に
昼食をしたところ、「お世辞とはこういう具合に言うものだ」というくらい
お二人が、催促もしないのに小欄の写真をほめてくれました。

 そこで、
「ブタもおだてりゃ木に登る」「ヘビもおだてりゃ手を叩く」の口で
早速、得意の手抜きとまいりましょう。

 ワイキキ周辺を散歩しながら撮影した4枚です。
捕虜第1号@ [2007年10月25日(Thu)]





   酒巻和男海軍少尉




 単冠湾を発った連合艦隊の31隻の艦船は、幸いにもハワイまでの約12日間、米側に察知されることはなかった。航海中に出遭ったのはわずか1隻の日本船のみ。

 ハワイに最接近したのは現地時間12月7日、日曜日の早暁であった。

 午前6時15分、第1次攻撃隊(指揮官:淵田美津雄中佐)の183機が出撃を開始。同7時49分、淵田中佐が「ト・ト・ト(全軍突撃)」と命令を発信、奇襲攻撃に成功した。
虚を突かれた米軍側の反撃は少なく、損失(未帰還)航空機はわずか9機に過ぎなかった。
 
 続いて1時間15分後の7時30分に第2次攻撃隊(指揮官:嶋崎重和少佐)の167機が出撃、今度は熾烈な対空砲火と迎撃に遭い、損失航空機は20機に及んだ。

 この時、米軍機との格闘戦で搭乗機が被弾し、機関不可能と判断した石井三郎2等飛曹は、米側に反転突入した。また、ニイハウ島に不時着した西開地重徳飛行兵曹は、かくまってくれた日系人らとともに地上で銃撃戦を行い亡くなった。

 このあたりについては既に多くの著作が発表されているので、それらに拠られたい。

 私がかねて注目したのは、二人乗りの特殊潜航艇で真珠湾に進攻し、オートジャイロの故障で方角を失い、水中盲目航走のままオアフ島東南部のベローズ空港付近の珊瑚礁海岸に打ち上げられて捕らわれた、酒巻和男少尉についてである。

 太平洋戦争の開戦直後に捕虜となり、満4年以上たった1946年1月に、復員した。その間の苦労は測り知れないが、米本土のマッコイやケネディの捕虜収容所であとから来る日本人捕虜を指導し、時には通訳もかって出るなど、秩序ある捕虜生活を送るよう努めた。

 また、バドミントンやソフトボールを拾得し、復員後、それらの普及にも当たった。

 この人なしでは、おそらく、日本人捕虜たちは、ニュージーランドのフェザーストン、オーストラリアのカウラで起こったような多くの死者を出す悲劇が、米本土の収容所でも派生していたかもしれない。

 帰国後、酒巻はトヨタ自動車に就職した。そして特に、バドミントンでは社内に部を作り、選手や監督として全国大会に何度も出場している。

 酒巻は、帰国直後に2冊の体験談を上梓している。ともにベストセラーになった。しかし、トヨタで同じ部署にいた上坂冬子さん(ノンフィクション作家)に聞いても、出版後は、捕虜時代のことを話さなかったという。それが、生前、私のインタビューには、丁寧にお答えいただいた。8年ほど前に亡くなられたときには「新潮45」で紹介した。

 真珠湾攻撃で“捕虜第1号”となった酒巻は、恐らくは捕虜となった日本人では最も有名な人であろう。

 戦争直後の1947(昭和22)年3月に出された『俘虜生活四ヶ年の回顧』(東京講演会)には、緊張の連続だった自らの捕虜生活を詳述したあとで<付録>として「米国国民性私観」と題し、「日本人が学ぶべきもの」を14項目に整理して、挙げている。それはほとんどそのまま、今の青少年教育に参考になると思われるので、私は青少年の国際交流の事前研修のときなど、勝手に紹介させてもらったりしている。

 また、自らも捕虜となってアメリカ暮らしをした人たちは異口同音に酒巻を畏怖し敬服している。

 しかも戦後は、トヨタに入り、輸出畑をどんどん昇進し、お目にかかった1977年の6月には、ブラジル・トヨタの社長。一時帰国の多忙の中でのことだったので、求めに応じ、あらかじめ質問状をお届けして話を聞いた。まだ56歳の精悍さで理路整然としかも情熱的で闊達に何でも話してくれた。

 フェザーストン(ニュージーランド)、ニューカレドニア、カウラ(オーストラリア)では多数の日本人捕虜が不幸な生命の終え方をしているのに、最大の捕虜を受入れたアメリカではついぞ多数の生命にかかわるようなトラブルは起きなかった。

 そのカギの一つが、日本人将校が下士、兵卒の捕虜の指導・監督に当たったことだろうと思う。そして、そこには酒巻、豊田、萬代、大溪・・・・・・といった少・中尉の青年将校が、相宗、中村両中佐、松井老少佐、梶島大尉らの下で一致団結し、献身的に事にあたったからではないかと思う。

その苦労は並大抵ではなく、酒巻は米軍側からは「ハード・エッグ(煮ても焼いても食えない奴)」といわれるに至ったという。

 その後、10年を経て酒巻の声を電話で聞いた。帰国して豊田総建の社長をしておられるが、声も理路整然とした語り口も何ら変わっておられなかった。

「願わくばこの人が海軍兵学校の教育、真珠湾攻撃、そして捕虜生活、戦後の国際派一流ビジネスマンとしての体験からくる人生訓なり教育論なりを執筆されんことを」と願ったが、それをはたさないまま、1999年11月29日に愛知県豊田市にて81歳にて逝去された。
内部告発の勧め [2007年10月25日(Thu)]




  秋田市千秋公園で咲いていた蓮。6月撮影。





 毎日新聞によれば、
秋田県大館市の食肉加工会社「比内鶏」の偽装問題で、
21日夜から、社員とも連絡がとれなくなっていた
同社の藤原誠一社長が記者会見し、
謝罪したというが、
どうしてこんなに時間がかかってしまうのだろうか。

「家内と近所の山をさまよったが、
死に切れなくて舞い戻った。
苦しんでいますのでお許しください」と謝罪した。

「苦しめば許される」というものではない。
同県人の後輩として、昨夜の研究会で
私まで嫌味を言われた。
「近所の子供と自分の子供を殺した事件があった
藤里村の隣町なんだってね」。

 記事によると、社長になった約10年前、
既に比内地鶏ではない廃鶏(はいけい)の使用を
認識していたとし、
「廃鶏を使う指示は私が出した。
消費者、生産者や関係者の皆様にご迷惑をおかけして
大変申し訳ない」と話したという。

 それにしても、ミートホープ、不二屋、白い恋人、赤福・・・
それに社会保険庁、防衛庁、厚生労働省と相次ぐお粗末・・・
誰しもが思うのは、食品の偽装、「他にもあるんじゃないのか」。
業者との癒着、「ウチもあるよなぁ」。そんな声が聞こえる。

 おそらくはどのケースも内部告発から
表面化したものであろう。

 この際、ウミはみんなで出そうではないか。
愛社精神はわかる。仲間意識は理解できる。が、しかし、
健康や国益、法と正義に反する事実を掴んだら、
メディアにでもいい、警察でもいい、保健所でもいい。
そういうところに出頭しようではないか。

 出頭が怖かったら一通の手紙でもいい、
ファックスでもいい。
それが社会と国を救うことだ。

 それともあなたは犯罪の片棒を担ぐのかと
自己を振り返ってみることだ。
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