CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 2007年09月 | Main | 2007年11月»
<< 2007年10月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
根室への緊急患者 [2007年10月12日(Fri)]





  根室から搬送されるニキータくん。写真は毎日新聞



 毎日新聞によると、北方領土・国後島で重度のやけどを負ったニキータ・ルイジョフ君(1歳11カ月)が12日、北海道根室市の市立根室病院に緊急搬送された。

 同島に寄港していた「ビザなし渡航地震火山専門家訪問団」(中川光弘団長ら18人)のチャーター船が、12日の帰港予定を半日早めて緊急搬送し、根室経由、札幌医大にペリ輸送したという。

 搬送に立ち会った市立病院の看護師は「顔を除く全身にかなり激しいやけどを負っている。やけどは時間がたってからの経過が大事なので(命を救えるかどうかは)分からない」と話したと毎日新聞の記事にはある。全快を祈る。

 根室ではこれまでも北方領土のロシア人患者への医療を提供してきたが、緊急救援は初めてである。こうした協力は「日本との信頼関係の強化につながる」ものでもあり、大いに進められるべきだ。

 そしてそのためにも、根室そのものの市立病院の拡充が図られねばならない。同病院は医者不足で、まさに青息吐息の状況にあるが、これは国立病院か道立病院、または自衛隊病院の分院にでも切り替えて、しっかりとした医療施設にするべきであると考える。



インドの首都 [2007年10月12日(Fri)]





   インディアンゲイト(ウィキペディアより)



 M氏は
(株)学習研究社(学研)辞典編集部に所属している。
その誠実な仕事ぶりには
いつも感心させられる。

 同社とはもう45年ものお付き合いであり、
いろいろな人とさまざまな出版物を製作してきた。

 もちろん、みなさん「美男美女」で「善男善女」であるが、
このM氏は、気分よく仕事ができるという点では、
屈指の編集者だ。

 そのM氏から、こんなメールがきた。

 拙著『国旗ビジュアル大事典』の内容についての
問い合わせである。


☆ .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜


読者の方から質問が参りました。
インドの首都の表記に、「デリー」と「ニューデリー」の
二つの表記があるが、どちらが正しいのか?という
ものです。
表記が違う理由と、今後子供たちに教えるには
どちらを教えるべきか?
教えて欲しいとのことです。

この本では、デリーとしてますが、世界地図のところ
で1カ所、ニューデリーとしてしまっています。
外務省やインド大使館は、ニューデリーと表記して
ますが、イミダスなどをはじめデリーとする書籍もございます。
以前インドに参りましたとき、新市街と旧市街が城壁
によって区分けされていて、新しい方をニューデリー
と言ってました。行政機関が建つ新区域を首都と考える
のでしょうか?

色々調べておりますが、なかなかずばり言及した資料が無く、
お忙しいとは思いますが、先生にお教えいただきたく存じます。

どうぞよろしくお願いいたします。

***********************************

 私は、早速、いくつかのHPで調べ、外務省南西アジア課に問い合わせてみた。

 まず、便利なウィキペディアはこう書いている。

★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

1911年にカルカッタからデリーにインドの行政府所在地が移された。その際に、デリー市街(現オールドデリー)の南方約5km程の場所に行政都市として建設されることとなった。これがニューデリーの始まりである。都市計画はイギリス人・エドウィン・ルーティエンス (Edwin Lutyens) によって行われた。(中略)ニューデリーはインド独立後はインドの首都となり、国会議事堂や中央官庁、大使館街もニューデリーに集中している。
現在ではデリー大都市圏は大きく拡大し、オールドデリーもニューデリーもその中心部を構成する一地区となっている(首都機能が移転したわけではない)。そのため、2002年以降に発行された『世界の国一覧表』(編集発行:(財)世界の動き社、編集協力:外務省)では、インドの首都が「ニューデリー」から「デリー」に修正され、日本の教育現場ではインドの首都は「デリー」と指導されるようになっている。
☆ .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

日本の外務省の話はこうだ。

「インド憲法には首都に関する規定はない。
しかし、第130条で<最高裁はデリーに置かれる>とはある。
ま、デリーとニューデリーはあえて日本に置き換えて言えば、
東京と千代田区のようなもので、
どちらが首都かといわれると本当に困る。

 外務省が編集協力をしている『世界の国一覧表』には
デリーとなっており、逆に,
外務省のHPではニューデリーとしている。

 但し、双方とも何度か入れ替えというか、
行ったり来たりみたいなことになっており、
実に悩ましい問題である。

 そこで、先般、インド政府に文書で回答を求めたところ、
<インドの首都はニューデリーである>との回答を得たので、
そのことを世界の動き社には伝えているが、
まだ変っていないというのが実情だ。

 インド政府からの回答があったのがいつかって?
 折り返しお返事したい」。

 返事があったら、追記したい。

 
台湾の新幹線@ [2007年10月12日(Fri)]






























   構内にはこんな広告も大きく出ていました。






 先月、台湾の新幹線(高鉄)に乗りました。

 南の高雄から台北の国際空港の近く、桃園駅までです。

 かつて中正空港といっていた台北の空港、
今では「桃園空港」に名前が変りました。

 蒋介石を表す「中正」は急激に台湾では消滅しています。
「中正記念堂」も名前を変えました。

 報告したいことがいろいろありますが、
まずは、駅の雰囲気から、
写真でお伝えします。

 高雄市の新幹線専用駅である左営駅の構内です。
自動販売機や「緑の窓口」もあるのです。

テロ [2007年10月12日(Fri)]










 きょう、10月12日は
日本社会党委員長だった
浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、1898年〜1960年)が、
日比谷公会堂の壇上で刺殺された日。

 日付はすっかり忘れていたところ、
江田五月参院議長が教えてくれた。

私はその現場をほとんど最前列で目撃したのだった。
ほとんどというのは、
その前にカメラマンが林立していたということだ。
浅沼委員長は、
全国津々浦々を極めて精力的に遊説し、
「演説百姓」「人間機関車」と呼ばれた。

私は日米安保条約の改定には賛成だったから、
政治的に共鳴することはなかったが、
その飾らない人柄は多くの人々に愛され、
安保改定を阻止することはできなかったが、
個人的な人気は絶頂にあった。

この日、同公会堂では、
自民、社会、民社3党の党首による立会演説会が
行われた。

会場は超満員。秋田から出てきたばかりの私は不慣れで、
開場と開演を間違えたため1時間前に到着した。
大日本愛国党の赤尾敏総裁らが先着していて、
同総裁は私の両肩を掴み、
「キミはいい面構えをしておる。どこから来た? 
秋田?! うんうん、
日本の将来はキミたち青年の双肩にかかっている。
今の代議士どもはみんな堕落している。
キミもしっかり勉強して将来の日本を背負いたまえ」。

開場後、警備の警察官の指示で、
最前列の真ん中に座ることになった。

西尾末広民社党委員長が最初に演説した。
私は生まれたばかりの民社党に希望を託していたので、
大いに共感し、拍手を送った。

ついで浅沼社会党委員長、そして最後が、
池田勇人自民党総裁(首相)の順で登壇し
演説することになっていた。
浅沼委員長が演説を始めるや
会場内の野次がにわかに激しくなり、
中身が聞こえないほどの騒然さとなった。

司会の小林利光アナウンサー(NHK)がいくら
「ご静粛に」と自制を求めたが騒ぎはやまず、
逆に、ビラが撒かれたり、
後部席の人が前に出てきて
罵声を浴びせたりということで、
場内は騒然となった。

記録によると、浅沼委員長が
「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、
全部捨てておいて、選挙で多数を占むると…」と
発言した3時5分ころ、
突然、刃渡り33cmの短刀を持ち、
学生服の上にジャンパーを着た若者が、
上手から壇上に駆け昇り、
浅沼委員長の左胸下を突き刺した。

一度、抜いた。

委員長の黒縁の眼鏡がずりおち、
腰をかがめ、両手で胸を押さえた。

もう一度刺した。
警察官が男を取り押さえ、
何人かの人で委員長の巨体を抱えて下手に運び去った。
壇上には、誰のかわからないが、指先が2つ、
落ちていた。きつかった。

左右の席の人と顔を見合わせ、
「酷いことをする」
「でも、よかったですね、心臓を外れて」などと
語り合った。

しかし、一撃目の刺し傷は深さ30cm以上に達しており、
出血多量でほぼ即死状態だったという。

すぐ近くの日比谷病院に収容された3時40分には
すでに亡くなっていたそうだ。

凶漢は17歳の少年・山口二矢(おとや)という17歳の少年。
同じ十代の者として私のショックは大きかった。
直前まで大日本愛国党の本部メンバーであったという。

少年は3週間後、東京少年鑑別所で自決した。
「七生報国 天皇陛下万才」と
監房の壁に書き残してあったという。

自殺させてしまったことについては
看守に責任があるのかもしれないが、
私はそれより、当日の警備が甘すぎたと思う。

制服・私服合わせて
場内の4人に一人くらいが警察官だったように思う。

やじりも拍手もしないから変な人たちだなと思ったが、
やがて隣の席の人が教えてくれた。

それだけいて、何もできななかった。
私はそのことについては、
朝日新聞に投書した。

投書特集が2頁分組まれ、
私の投書が5段見出しで
トップに掲載された。

 その後も、この事件については、
公安関係者、メディアの多くの人から詰問されたり、
取材されたりした。

自分でも不思議に思うのは、
手に2,3冊の本を持っていたのを、
なぜ投げつけなかったのか、
なぜ、浅沼委員長に「危ない!」と
大声で注意しなかったのかということだ。

 これについては多くの人から非難を受けた。
当然である。反省もしている。心がさいなまれることもあった。

 しかし、あえて言わせていただくなら、
私はあの時「固まっていた」のである。
ところで、このとき、
私の目の前にいた毎日新聞の長尾靖カメラマンは、
浅沼委員長を刺そうとする瞬間を撮影し、
日本人初のピューリッツァー賞を授与された。

 事件から、5年ほどたって
長尾さんと親しく話をする機会があった。
「ボクも大勢の人に言われたんだよ。
あれだけピントを合わせて写真を撮ることができたなら、
なぜ、そのカメラ(スピグラ)を
犯人に投げつけなかったのかって」。

 長尾さんも随分、滅入った様子だった。
職業として撮影している人に
そのことを求めるべきかどうか、賛否はあろう。

「オマエはどうなんだ」という声がきこえる。

今の私なら
きっと本を投げつけることができるだろうとは思う。
 そのくらいの人生経験は積んだつもりだ。

しかし、あの時は本を握り締めたまま何もできなかった。
これは厳然たる事実なのだ。

37年前のきょうのことだ。
わが人生の1つの辛くて苦い思い出である。
| 次へ