• もっと見る
« 2007年08月 | Main | 2007年10月»
<< 2007年09月 >>
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
寛永通報続々々編 [2007年09月13日(Thu)]


   この寛永通宝についてさらに想像を拡大するなら、
  この本はお勧めです。講談社文庫 695円。

   なぞ多き探検家・間宮林蔵の波乱万丈の
  生涯を描いたものですが、冒頭の部分に、択捉島紗那の会所への
  ロシア艦2隻来襲の様子が詳しく描かれています。
   会所は焼き払われ、責任者の戸田又太夫は自害し、
  警備にあたっていた南部藩の砲術師・大村治五平は
  捕虜になったのです。文化4(1807)年4月のことです。

  





 寛永通宝についてウィキペディアを開いてみると、
こう書いてあった。

 ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられ、
表面には「寛永通寳」の文字が上下右左の順に
刻印されている。

 材質は、銅製の他、鉄、精鉄、真鍮製のものがあった。

 貨幣価値は、裏面に波形が刻まれているものが4文、
刻まれていないものが1文として通用した。

 当時96文を銭通しに通してまとめると100文として
通用(短陌)し、
通し100文と呼ばれていた。

 寛永3年 (1626年)に常陸水戸の富商・佐藤新助が、
江戸幕府と水戸藩の許可を得て鋳造したのが始まりだが、
この時はまだ、正式な官銭ではなかった。

 寛永13年(1636年)6月、幕府が
江戸橋場と近江坂本に銭座を設置。
公鋳銭として寛永通宝の製造を開始。

 幕藩体制の確立と共に全国に普及、
創鋳から30年ほど経った寛文年間頃には、
永楽通宝をはじめとする渡来銭をほぼ完全に駆逐し、
貨幣の純国産化を実現した。

 寛文8年 (1668年)、江戸亀戸で発行されたものは、
京都・方広寺の大仏を鋳潰して鋳造したという噂が
流布したこともあり、
俗に「大仏銭」と呼ばれていた。

 また、裏に「文」の字があることから、
「文銭」(ブンセン)とも呼ばれていた。
(表の「寛」の字とあわせて「寛文」となり、
寛文年間の鋳造であることを表している。)

 寛永通宝のうち、
万治2年 (1659年)までに鋳造されたものを古寛永と呼ぶ。

 その後しばらく鋳造されない期間があり、
寛文8年 (1668年)以降に鋳造されたものを新寛永と呼ぶ。

 この古寛永と新寛永は、製法が異なり、
銭文(貨幣に表された文字)の書体も顕かな違いがある。

  ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

 裏に「文」とあるのは、寛文年間に製造されたものというから、
択捉島で拾得した寛永通宝は、
西暦では1661〜73の間に製造されたものということになる。

 

協力隊帰国隊員へ [2007年09月13日(Thu)]




 撮影は、鷲田マリさん





 社団法人協力隊を育てる会は青年海外協力隊の応援団。昨年6月まで、創立以来30年間、その理事を務めさせていただき、今は参与という立場だが、機関紙「育てる会ニュース」編集部からショート・エッセイの依頼を受けたので、以下を送らせていただいた。

 9月15日号に掲載される。

  〃★〃☆〃☆〃☆〃★〃☆〃☆〃☆〃★〃


 協力隊での活動を終えた人にはさまざまな思いがあるに違いない。

「大満足」と言う人もいれば、「不完全燃焼」と言う人もいるだろう。

 これは何も協力隊に限ったことではない。

 学校生活でも、会社勤めでも、結婚でも、人生みな同じようなものであろう。

  しかし、協力隊経験者には社会のほうからも期待したいことがいろいろある。

 第1は、引き続き国際協力に関心を持ってほしいことだ。提言するもよし、学校や職場、地域などで経験を語り、周囲に働きかけるもよし。NGOに加わるもよし。

 第2は、任国に関心を持ち続けること。新聞の片隅にその国の名前が出ているだけで、目がすいつけられてゆくはずだ。それを継続し、変わる任国事情をフォローし続けたいもの。

 そして、その国で、地震、津波、洪水、戦乱などで、難民、疾病、困窮者などが出た時には、立ち上がってほしい。

 2年間の経験が直接、役立つときだ。そのためには、任国別同窓会を活性化してはどうか。

 単なる仲良しクラブではなく、できれば、日本政府や国際社会が間違えた外交や援助を行うような場合には、何百人もの「その国の事情通」が結束してこれを、正しい方向に向かわせるくらいのことを期待したい。

 第3は、現地の友人との交流を終生続けてほしいということ。

 私は国際赤十字の一員として、建国当時のバングラデシュに内戦中から滞在していたが、今でも数人の仲間との付き合いが続いている。
 
 帰国後厳しい現実に押し流されてははいつの時代もあまり違わない。

 要は、各自の心の持ちようだ。

(協力隊を育てる会参与、ユーラシア21研究所理事長 吹浦忠正)
| 次へ