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シベリア出兵B [2007年08月07日(Tue)]




 挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。





  尼港事件解決のため、日本軍は1925年の日ソ国交回復(基本条約締結)まで北緯50度以北の北樺太を保障占領した。

 今日でも、われわれがソ連の非として、
@ 日ソ中立条約侵犯による対日参戦、
A 終戦後のシベリア長期抑留と劣悪な待遇による1割もの死亡、
B 北方領土の不法占拠

を挙げれることが多い。

 Aについては、1993年に、エリツィン大統領が来日したとき、皇居で天皇陛下に直接、お詫びを言上したほか、国会での演説や、首相官邸での晩餐会など、少なくとも6回にわたり、この抑留について遺憾の意を表明して謝った。

 ロシアの政治家、外交官、そして学者の中には、この「シベリア出兵」と「関特演(関東軍特種演習、独ソ開戦後の41年、70万の精鋭を誇る関東軍が満州で対ソ戦を想定した大規模な軍事演習を行ったこと)」を挙げて、日本側の非を述べる人が少なくない。

 但し、「関特演」はあくまで、演習であり、中立条約を結んでいる国への不法侵略とはまるで違うと、私は反論して来た。
シベリア出兵A [2007年08月07日(Tue)]





 挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。


  この後に起こったのが「チェコ将兵送還事件」。オーストリアの支配下にあったチェコの軍人たちが積極的にロシア軍に寝返って、ドイツやオーストリアと戦おうとしたのだ。そして、ロシアが戦線を離脱すると、極東を経由してフランスに渡り、西部戦線に加わろうとした。

  アメリカのウィルソン大統領はこれを支持し、日本とともにこれらの将兵を武装解除し、ウラジオストクに集めようとした。そしてこれを口実に、日米両軍は各7,000の軍隊を同市に上陸させ、チェコの将兵たちは目的を果たして帰還した。

  これを契機に日本は積極策に転じ、1918年10月には73,000人を派遣、この数は米英仏伊華の各国の派遣軍の総数を凌駕した。

 しかし、この軍事干渉は思うようには行かなかった。19年2月、イルクーツクの南、中ロ国境付近のアムール州で第12師団72連隊の田中少佐率いる第3大隊が全滅した。敗因の1つは厳寒でのシベリアでの戦闘に十分な準備をしていなかったこととされる。

  さらに、20年3月、樺太(サハリン)の対岸にあるニコライエフスク(尼港)で、日本軍の陸海軍の守備兵350人を含む在留邦人380人がトルアピツィン以下の4,000を超える赤軍(パルチザン)に包囲された。

 日本軍大被害のまま一時停戦協定を結んだが、武器引渡し時に無謀にも日本軍が奇襲し、結局、将兵と民間人の区別なく日本人は殲滅され、石田虎松副領事一家は自決した(尼港=ニコライエフ事件)。

 その後も革命軍の勢いは止まず、国際情勢の変化から、列強は約2年で撤兵した。

 が、日本軍は22年10月まで駐留、3,500の将兵を失いながらも目的を果たせず、逆に後々までソ連の不信をかう結果となった。
シベリア出兵@ [2007年08月07日(Tue)]






 ロシア革命は1917年3月にペテログラード(現サンクトペテルブルク)で起こったが、やがてその影響がロシアの極東地区にも及んできた。

 このころのウラル山脈から東のシベリアの人口は約200万(今は約700万人)、イルクーツク、チタ、ブラゴベヒチェンスク、ハバロフスク、ウラジオストクなどが都市の形をなしているに過ぎなかった。

 白衛軍といわれる帝政支持の軍隊は、このシベリア地区を中心とする白系ロシア人と呼ばれる人々の支持を受けて、かなり抵抗した。

 当時の様子は、極東ロシアで情報収集にあたった石光真清の一連の『手記』(中公文庫)や、祖父が同地域で医業に務めた佐賀純一医師の『氷雪のバイカル―革命家のシベリアを見た少年』(筑摩書房)に詳しい。(つづく)

 私は1990年代半ばにこの2つの本を読んで、「今のロシアに共通する混乱の気配を感じるのが怖い」と、90年代末に拙著『NGO海外ボランティア入門』(自由国民社)に書いた。

 2007年の今、シベリアは人口減少傾向に歯止めがかからない。サハリンなど石油・天然ガスの産出でいかにも潤っているようだが、それでも最盛時、84万だったものが今は52万程度に落ちている。

 ドイツに対し第1次世界大戦をロシアとともに戦っていた英仏両国は、ロシアが東部戦線から離脱するのを阻止しようと列強に呼び掛けて軍事干渉を企図した。

 当初、日本は消極的だったが、1918年1月、居留民保護のためウラジオストクに軍艦を派遣したところ、4月に、同市内に進出していた石田商店が襲撃され、邦人3人が殺害されるという事件が起こった。そこで、500余人の陸戦隊が50人の英軍将兵とともに上陸した。

300勝投手だった難民 [2007年08月07日(Tue)]













   スタルヒン一家とスタルヒン。最期は、飲酒運転での死亡事故であったが、自殺説も根強い。






 スタルヒン(1916〜57)について触れながら、そうか、もう若い人には知られていないかもしれないと気づいた。

 私は小学校時代、秋田手形球場でスタルヒンの投げる試合を見た。なんと対戦相手の投手は確か、後にプロレスラーになったジャイアント馬場だったような気がする。センターに別当薫がいたから、記憶が正しいか、いささか怪しいが。

 スタルヒンは戦時中も、「須田」と姓をかえ、なんとか日本国籍を取得しようと尽力したが果たせなかった。当時の日本政府の「冷たさ」を痛感する。

 これについては拙著『難民―世界と日本』(日本教育新聞社)に詳しく書いたので、いずれ紹介するが、とりあえずは、ウィキペディアを転載しておきたい。


写真は、www.htb.co.jp/vision/kokoro/story.htmlより。


 ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

ヴィクトル・コンスタンティノヴィッチ・スタルヒン(Victor Starffin;ロシア語:Виктор Константинович/Фëдорович Старухинヴィークタル・カンスターンチナヴィチュ・フョーダラヴィチュ・スタルーヒン;Viktor
Konstantinovič/Fëdorovič Staruchin、1916年5月1日 - 1957年1月12日)は昭和初期から中期(1930年代後半-1950年代前半)のプロ野球選手(投手)。ロシア帝国ペルミ県ニジニタギル生まれ、北海道旭川市出身。沢村栄治と並ぶ、プロ野球黎明期の名投手で、右投げ右打ち。日本プロ野球界初の外国人選手であった。

1916年、帝政時代のロシアに生まれた。

ロシア革命の際、一族の中に皇帝側についた者がいたため革命政府から迫害され、1925年、一家で日本に亡命。旧制旭川中学校に入学し当時から剛速球投手として鳴らした。3年生の1934年11月25日、当時日米野球のため来日していたアメリカ・大リーグ選抜チームと対戦する全日本チーム(この全日本メンバーを元に、後に大日本東京野球倶楽部が結成される)に半ば強引に引き抜かれ、旭川中を中退し上京。11月29日、埼玉県営大宮公園野球場で開催された同第17戦の8回から敗戦処理で2イニングを投げ、これがプロ野球選手としてのデビューとなった。

1936年、そのまま東京巨人軍に入団。1937年秋より沢村栄治に替わってエースに台頭。1938年秋から1943年まで続く6連覇に大きく貢献した。1937年7月3日にノーヒットノーラン達成。1939年に日本記録となるシーズン42勝(戦後の一時期スコアブックの見直しにより40勝とされていた。後述)をあげ最多勝を獲得、最高殊勲選手(MVP)に輝いた。同年、プロ野球初の通算100勝を達成している。165試合目での到達は2007年現在も破られていない史上最速記録である。

反欧米思想の激化に伴い1940年に「須田 博(すた ひろし)」に改名。戦況が激化した1944年、白系ロシア人であるため「敵性人種」として連行され、多くの在留外交官等と同様に軽井沢に抑留された。ちなみにこの年のプロ野球公式記録によると、「病気のため隔離」されたことになっている。

戦後の1946年、元巨人監督で当時パシフィック監督の藤本定義と再会しパシフィックに復帰。同年10月に史上初の通算200勝を達成。1948年金星スターズ、1954年に高橋ユニオンズに移籍した。1955年9月4日対大映戦(西京極)で史上初の通算300勝を達成。その後、1939年の記録を当初の公式記録通りに戻したため、公式には同年7月30日に開かれた川崎球場での近鉄パールス戦での勝利が300勝となる。同年現役引退。

1957年1月12日、自動車を運転中、東急玉川線の電車と衝突し即死。墓所は秋田県横手市。

1960年には、その前年に創設された野球殿堂の史上最初の競技者表彰に選出された。功績を称え、1984年に改修工事が完成した旭川市営球場(現旭川市花咲スポーツ公園硬式野球場)には愛称「スタルヒン球場」が命名された。

長女・ナターシャ・スタルヒンはJAL国際線のスチュワーデスを経て、日本初の日焼けサロンを創業。現在は栄養士として、各地での講演会や、健康をテーマにしたテレビ番組の出演等の活動をしている。
革命を逃れて [2007年08月07日(Tue)]





 ロシア革命を逃れて朝鮮、満州、そして日本へやってきた人々がかなりの数いた。

 日本最初の300勝投手である元巨人軍のスタルヒンもその一人だ。

 1冊の本をお勧めしたい。

 関榮次著『遙かなる祖国―ロシア難民と2人の提督』(PHP研究所)。著者は、ザンビアやハンガリー大使を務められ退官された方。

 1991(平成3)年12月、ユーゴスラビアで内戦が始まってすぐ、難民を助ける会は西田昭子、長有紀枝の2人をハンガリーに派遣し、暖房器具多数とともに、クロアチアから国境にたどりついた難民を収容する四駆車2台をハンガリーの所管の機関におくったとき、お世話いただいた大使だったが、その後は当方で失礼したままだった。

 96年8月、関大使が突然、難民を助ける会の事務所を訪問され、「今度こういう本を書いたんで、読んでくれたまえ」と数冊をご恵贈くださった。

 外務省には、駐ロ公使からウズベキスタン大使となり早く退官した河東哲夫(かわとう・あきお)さんのような“職業選択を誤ったかのような文士”もいるが、関大使の筆は、河東公使に優るとも劣らぬすばらしいもの。

 革命期ロシアからの難民を救わんとする森電三、スタルク両提督の文字通り命がけの奮闘を描いて、深い感動を与える歴史物語となっている。

 ただ、1つ気になることがある。

 明石康氏が関大使の本の推薦文の中で、「この実際に起こった物語は、日本政府の対応の仕方がいかに消極的だったか、またその中にあって人間性あふれる対応をし・・・英雄的行動をとった1人の日本人がいたことをいきいきと描写してくれる」と書いているように、また後述する兵藤長雄・元ポーランド大使(現・ベルギー大使)の、読むだに心が暖かくなる『善意の架け橋―ポーランド魂とやまと心』(文藝春秋社)との対比において、当時の日本政府の“人道外交”が、ポーランドの孤児の受入れとは大きく違う点である。

 孤児たちはやがてポーランドに送り還すいわば、“一時滞在難民(トランジット)”であり、ロシア難民は日本へ(少なくとも長期)滞在ないし、定住しようとする人々だったこともあろうが、後の1970年代後半のインドシナ難民の受入れとあまりに符合していて、「官」の発想は背筋が寒くなるほどだ。

 しかし、諦めてはなるまい。

「官」はやがてしぶしぶながらもインドシナ難民の定住(約1万人)を認めたし、昨今はわが国の難民認定は2004年に参与員制度を導入するなど、改善が見られるようになった。

 それに、第一、関大使も兵藤大使も「官」の人なのだから。
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