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剪画展まで1週間 [2007年07月05日(Thu)]









小欄でおなじみの石田良介画伯率いる日本剪画協会が主催する
23回目の剪画美術展があと一週間ほどに迫ってきました。

7月14日(土)〜18日(水)まで
毎日午前10時から夕方6時まで(最終日は4時まで)、
大崎駅前のO(オー)美術館で開催されます。

会場は、山手線大崎駅から空中回廊でつながっていますから、
雨にぬれずに行けます。徒歩3分というところでしょうか。

入場無料。

今年のテーマは「きらめく」。

黒と白を基調にしてどう「きらめかせる」か、注目したい。

 “見もの”は
もちろん石田会長の特別出展「焼望」。
ポスターや案内状に使われているこの写真はその一部。

 縦90センチ、横180センチもの大作です。
14日の午後一時からは、
これをカッターナイフ1本で剪り上げるのです。

 展覧会の初日には
石田会長による品評会があり、
15日には
初心者向けのワークショップも開かれます(材料費500円)。

 本日発売の週刊新潮ガイド欄でも、
写真つきの記事で詳しく紹介されています。
セミの羽化です [2007年07月05日(Thu)]











 小欄の挿画でおなじみの石田良介画伯から、
めずらしい写真が送られて来ました。

 一人で見るにはもったいないので、ご紹介します。

 メールには、「今日、家内が庭で
つつじの枝を剪定していましたら、
蝉の羽化を見つけました。

 飛び上がるまでには
今夜いっぱいかかるかも知れませんが、
夏が足許までやって来ました。

 急いで写真を撮りましたら、
すぐに葉の陰に隠れてしまいました。
恥ずかしかったのかも知れません。初初しいですね」。


 このセミは今頃、元気に飛び立っているんでしょうね。
北方領土Q & A @ [2007年07月05日(Thu)]






 現在の択捉島。
挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。






 北海道立根室高校地理研究部が
1991(平成3)年に刊行した
『北方領土―高校生が聞いた202話』を連載しています。

これについて、多くの方から次々と質問が来ています。

既に小欄で書いたものもあれば、
そうでないものもありますが、
大事な質問やあまり他には出ていないデータなどを中心に、
少しずつお答えしてゆきます。

 まずは、滋賀県の佐山恭司さんという方から。
Q:北方領土には日本人が何人住んでいたのですか?
A:終戦の日、1945(昭和20)年8月15日現在、
3,124世帯、17,291人が住んでいたとされています。
これは、昨年3月、
社団法人千島歯舞諸島居住者連盟の調査によるものです。


 次は、茨城県の藤倉日名子さんからです。
婦人会の関係の方のようです。

Q:北方領土に住んでいた人たちは
終戦になってから、どうやって本土に移住したのですか?
A:ソ連が参戦したのが、8月9日、そして終戦。
  8月28日には択捉島にソ連軍が上陸、
9月5日までに歯舞群島までの軍事占拠を達成しました。
それから1ヶ月ほどまでの間に、
約半数が自分たちの所有する船で、
根室や近隣の北海道沿岸にたどり着いたのです。
その中には脱出行のさなかに亡くなられた方もいる
といいます。

 他の方々は、日本からの迎えの船を待って、
1948(昭和23)年11月までに、
おそらく全員(ごく少数のソ連人と結婚して
帰国しなかった人もいる模様)、
本土に移住・引揚・帰還しました。


 3番目は、「元外交官」さんから。

Q:「北方領土」という言葉はいつ、
誰が使い始めたのだろうか?
A:こっちが教えてほしい質問です。
下田武三元外務事務次官(元駐米大使)だという説が
ありますが、外務省では「分かりません」という
返事しか返ってきませんでした。

 以前、
南方同胞援護会という組織があり(現在の財団法人沖縄協会)、
この団体は沖縄や小笠原の問題を中心にしてとりくんでいましたが、
ほかに指導者であった吉田嗣延先生(元外交官)は
北方領土返還運動の先駆者の一人として北方領土問題に
熱心に取り組んでおられました。

「南方同胞」という言葉に淵源があって、
「北方領土」という言葉が生まれたのかもしれません。
「特殊法人北方領土問題対策協会」(現在は、独立行政法人)が、
北方協会という名前で発足したのが1961年12月、
総理府に北方対策本部ができたのが1972年5月です。

 ただ、その前に1958年に総理府には特別地域連絡局ができ、
この問題を担当していました。

 今、その現在の組織である内閣府北方対策本部に、
その連絡局内に、北方領土担当官とか、係とか、
そういうものがあったはずなので、
調べてもらっています。返事があり次第お伝えします。

 4番目は、北海道の富永秀樹さんから。
Q:北方4島の先には日本人が住んでいたんですか?
A:住んでいました。幸田露伴の兄に当る郡司成忠大尉をリーダーとするグループが熱心に開拓したのが最北端の占守(しゅむしゅ)島。終戦時には、別所二郎蔵さんという方が民間人ではただ一人、この島に居住していました(1947年11月に引揚)。その南となりの幌筵(ぱらむしる)島には、戦前は「東洋1」といわれた水産工場があり、1947年10月に436人が、翌年11月に553人が引揚ました(厚生省の資料によるものを千島歯舞諸島居住者連盟から教えていただきました)。        (つづく)
帰らざる兵士 [2007年07月05日(Thu)]





















 日本の兵隊は、スコップやツルハシ1本でも
兵器同様に大切にしていました。

 ある冬の日、
流氷の張った海の上でスコップを洗っていた兵士が、
誤って海中にスコップを落としてしまったのです。

 仲間の兵士が掛け寄り、
1人の兵士が海中に飛び込みました。
一度顔を出して「見当たらない」と言ったあと
彼は再び潜っていきましたが、
その後、彼はついに氷の海から顔を出しませんでした。

 島民も協力して捜索しましたが、
その時は発見できませんでした。

 後日、兵士の死体は浜辺に上がり
丁重に弔われましたが、
さすがにスコップを拾いに行って死んだとは
言いづらかったのか、
このはかない事故も、
遺族には名誉の戦死として報告されたらしい
ということでした。
             (志発島)


 ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 吹浦注:志発島(しぼつとう)は歯舞群島で、最も多くの日本人が住んでいた島。374世帯、2,249人。

 北方領土返還要求運動連絡協議会創設以来30年近く事務局長をしている児玉泰子さんの一家、落語の三遊亭金八師匠の一家も含まれる。毎年2月7日に行なわれる、北方領土返還要求全国大会には、総理以下全島のトップクラス賀出席するが、事務方の責任者は児玉さん、司会は金八師匠である。

身長不足で「誠心報国隊」 [2007年07月05日(Thu)]













 昭和10(1935)年代は日本の国が徐々に軍事色を深め、
世界の情勢は急激に緊迫していった時代でした。

 忠君愛国滅私奉公の思想(国民が天皇陛下のため、
お国のために死ぬことは最高の栄誉であるという考え方)を
国民は信じて疑わず、軍人に憧れていました。

 多楽島の高橋章友さんもそのひとりで、
陸軍幼年学校などを志望しましたが、
身長が足りずに断念せざるを得ませんでした。

 それなら別の方法で国のために役立ちたいと考え、
同志を募って「誠心報国隊」を結成しました。
 
 隊長は高橋さんで、
 同級生の東狐猛さんと田中喜勝さんが副隊長となり、
積極果敢に軍や国防関係に協力したそうです。

 現在であれば右翼呼ばわりされかねないようなことも、
今となっては懐かしい思い出です。
                      (多楽島)

 ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

吹浦注:多楽島(たらくとう)は歯舞群島のひとつ。終戦時には231世帯、1457人が居住していました。
猪谷千春氏は国後生まれ [2007年07月05日(Thu)]







 前回、2014年の冬季五輪開催地が
ロシアの保養地ソチに決まったということを書いたが、
これに関連して、IOCの副会長であり、
開催地評価委員長である
猪谷千春(いがや ちはる)氏のことに触れておきたい。

 猪谷氏は1931(昭和6)年5月20日、
北海道国後郡泊村古丹消(こたんけし)で生まれた。

 私など、若いころから最も尊敬し、
大好きな偉大なスキー選手である。

 1956年、イタリアのコルティナダンペッツォで開催された
冬季五輪回転競技に参加、
後に俳優としても活躍したトニー・ザイラーについで、
銀メダルを獲得した。

 これは冬季五輪における日本人初のメダリストということになる。

 その後、IOC(国際オリンピック委員会)委員となり、
現在、その副会長の任にあることは先に述べた。

 また、実業界においても大いに実績をあげ、
現在AIU保険会社名誉会長である。

 国後南部のオホーツク海寄りの小さな集落で生まれたのは、
日本スキー界の草分けである
猪谷六合雄(くにお、1890~1986)の事情による。

 六合雄はスキーに適したすばらしい雪を求めて群馬県、
長野県、北海道、さらには樺太(サハリン)まで転地し、
各地にスキー場を開設した人。

 今でも、ユジノハサリンスク(旧豊原)を臨む山頂に、
六合雄が拓いたスキー場があり、
ロシア人にとってなかなかの人気スポットとなっているし、
最近は日本人スキー客も少ずつ見られるという。

 千春はその長男として、国後島で生まれた。
千島で春に生まれたから、千春と命名された。

 ちなみに、翌年夏生まれた次男は「千夏」。
残念なことに、幼くして亡くなっている。

 3歳にして父親からスキーの英才教育をうけた。
古丹消のスキー小屋はその後焼失し、
1935(昭和10)年9月2日、
一家は国後島を離れ、
翌春、父の出身地である群馬県勢多郡富士見村に転居し、
千春は同村立富士見小学校箕輪分校に入学した。

 この後、8歳の時には、乗鞍の番所に転居し、
鈴蘭競技大会で大人に混じって入賞、
その冬に長野県大町での大会に特別参加し、
最高の成績をのこした。

 しかし、14歳以上という参加資格に適せず、
記録上、優勝者にはなれなかった。

 11歳(小学校5年生)のときにも神宮大会に特別参加、
優勝者のタイムを6秒も上回った。

 1952年にオスロで開かれた冬季五輪に初出場、
成績は11位だった。

 その後、米国のダートマス大学に留学、
コルティナダンペッツォ五輪に出場したのであった。

 このあたりについては、自伝をもとに製作された
アニメーション映画「栄光へのシュプール」になって
若い人にもわりによく知られているようだ。

 昨年(2006年)のトリノオリンピックでは、
表彰式でのプレゼンターを務めた。
このとき、回転競技で皆川賢太郎選手が大健闘、
あわや猪谷副会長からのメダル授与が実現するかと思われたが、
最終走者に抜かれ、実現しなかった。

 数年前、私は赤坂プリンスホテルで開かれたある会合で
猪谷氏とご一緒し、
「北方領土返還運動は国民の悲願として
超党派で行われているものです。
生まれ故郷が不法に占拠されているのです。
何らかの形で力を貸していただけませんか」
と率直に申し上げた。

 答えは、いささか冷たかった。

「私はIOCという政治とは無関係な組織の役員をしている。
遺憾ながらあなたの申し出には関わるわけには行かない」。

 なおも、少しくいさがったが、剣もほろろという感じだった。

 おそらく心の中にはいろいろ思うところがあるのだろう。

 いつかしがらみがはずれたときでも協力していただきたいものだ。

ソチでの開催が決定 [2007年07月05日(Thu)]






 ロシアのソチが、
7年後、2014年の冬季オリンピック開催地に決まった。

 報道を総合すると、
当初は、7都市が立候補したが、
06年6月のIOCによる第1次選考でハカ(スペイン)、
ソフィア(ブルガリア)、アルマトイ(カザフスタン)、
ボルジョミ(グルジア)が落選。ソチ、平昌(韓国)、
ザルツブルク(墺)の3都市に絞られていた。 

 1回目の投票ではトップが平昌で36票、
ソチが34票で続き、
25票のザルツブルクが落選。

 決選投票ではザルツブルクへの票がソチに
より多く流れる形になり、ソチが51票を獲得し、
47票の平昌をわずか4票の小差だが、上回った。

 平昌は2010年の冬季五輪にも立候補し、
1回目の投票でトップだったが、
バンクーバーとの決選投票に3票差で敗れた。
気の毒というほかかない。

 多くのメダリストを送り出しているロシアだが、
冬季五輪が同国で開催されるのは初めて。

 旧共産圏で行われるのは
1984年サラエボ(旧ユーゴスラビア)冬季五輪以来となる。

 ソチは交通手段の大規模な整備などが必要なことから、
先月公表されたIOC評価委員会(委員長・猪谷千春IOC副会長)の
報告書でそのリスクが懸念されていた。

 しかし、プーチン大統領がIOC総会が開かれたグアテマラまで
出かけ、
政府によるインフラ整備を保証するなどして巻き返し、
2002年冬季五輪招致に次ぐ2度目の立候補で
念願をかなえることができた。

「前評判が高かった平昌(韓国)は、
14年に同じ韓国の仁川でアジア大会が開催されることが
マイナスに働いた可能性がある。
ザルツブルは知名度、
国際大会開催の経験などで優位だったが、
昨年のトリノ五輪でのオーストリア6選手による
ドーピング(禁止薬物使用)発覚の影響は
否めなかったとみられる」と時事通信は伝えている。

 ソチは、ヤルタと並ぶロシア屈指の保養地。
1991年8月の、クーデター未遂事件のときも、
ソ連のゴルバチョフ大統領(当時)は
ソチで休養中であった。

 モスクワに戻ってからの対応が悪く、
この事件で勇躍ロシア民族主義に乗ったエリツィンが
大人気となり、ソ連は同年末に崩壊した。

 平昌は「冬のナナタ」で日本ではよく知られているが、
世界的にはイマイチであった。
また、
韓国のやや強引な招致作戦に抵抗を感じたムキも
あるのではというジャーナリストもいる。

 さらにまた、冬季五輪の主要国であるヨーロッパ諸国に
なじみが薄いことがこの悲運をかこった一因jンはないか。

 ザルツブルクは「モーツアルトの生誕地」であり、
「マイ・フェア・レディ」でも有名になった。
知名度は抜群であった。

 日本は1972年に札幌で、
98年に長野で開催しているので、
しばらくはなさそうだ。
授業中のタコつぼ堀り [2007年07月05日(Thu)]










 根室高校地理研究会編『高校生が聞いた202話』(日本教育新聞社)を続けます。

   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜


 戦争も日増しに激しくなった昭和18(1943)年には、
日本軍に協力し島民総出で陣地の構築をしました。

 小学校の生徒も先生の指揮で学校裏の小高い丘に、
いくつもの「タコつぼ」堀りをしました。

「タコつぼ」とは、爆撃や砲撃から身を守り、
敵の上陸をも迎え撃つためのもので
深さ1.5メートル、幅1メートルくらいの
円筒形の穴のことです。

1.5メートルの穴を小学生2人で掘るのは大変だったと
島の人々は語っています。

 敵から攻撃された時には
この穴に1人が身をひそめて応戦することに
なっていましたが、
実際は使われずに戦争は終わりました。
(勇留島)

 ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 私(吹浦)は1941(昭和16)年生まれで、
いわば「戦争を知らない子供たち」第1号です。

 しかし、長じてからは、印パ戦争、ベトナム戦争を
現地で体験しました。

 そうした経験や知識からいって、この
「深さ1.5メートル、幅1メートルくらい」という大きさが
いささか気になるのです。大きすぎやしませんか?

 先輩諸兄姉、何か軍や町内会で「タコつぼ」のつくり方とか、
標準サイズとかが指示されなかったものでしょうか。

 この挿絵のように、丸くかがんでというのもあったのでしょうか。

 ご教示いただければ幸いです。


☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

吹浦注:勇留(ゆり)島は歯舞群島の1つ。
当時の人口は79世帯、501人。
     1945(昭和20)年7月14,15の両日にかけて
対岸の根室町(当時)が米軍の空襲を受け、
     町の3分の2が消失した。
     
     勇留島からもその状況はつぶさに見えたはずで、
     私はかなり数の島民が「タコつぼ」に身を寄せたのではないか
     と思います。
沖縄の美しさB [2007年07月05日(Thu)]












宮古島から来間(くりま)島を遠望す(6月30日撮影)。
沖縄の美しさA [2007年07月05日(Thu)]











   宮古島から来間(くりま)島方面を臨む(7月1日撮影)
沖縄の美しさ@ [2007年07月05日(Thu)]





   
   太平洋に沈む夕日(宮古島にて)




「美ら島(ちゅらしま)沖縄」として、
今、沖縄は年間500万人ほどの観光客を
1千万人にしようとやっきです。

 まずは、その美しさを、私の素人写真で恐縮ですが、
お土産代わりにご覧ください。


 そして魅せられたら、おでかけください。
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