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日露戦争と捕虜<42> [2007年06月16日(Sat)]





  日露戦争当時の、サハリンにおける“囚人”たち。2006年8月、ユジノハサリンスクの郷土博物館にて撮影。



●なぜ、日本軍が捕虜を虐殺したか

 ところで、19世紀の初め、
ナポレオンがスペインの攻略にあたって、
不正規兵に手を焼いたことから
guerrillaというスペイン語が世界語になった。

 すなわち、国際法では戦闘員とは、
@公然と武器を携行していること、
A指揮官がいること、
B統一的な制服か徽章をつけていること、
C戦時国際法を遵守している

 以上の4条件にかなう場合のみであるというのが、
古典的な定義である。

 それ以外はたとえ武器を使って戦闘行為を行っても、
ゲリラは不正規兵であり、
戦闘員とはみなされず、
捕虜となっても庇護を受ける権利はないとする。

 サハリンにおけるこの時のロシア人部隊は
包括的な指揮系統を失った敗残兵に近く、
これは正規軍としての戦闘部隊とはいえないかもしれない。

しかし、これだけの数がいたとなれば、
当然、誰かがそれなりの指揮を執り、
その命令のもとに北上し、
できれば、日本軍に抵抗しつつ、
大陸に潰走したいという共通の戦略に立って
行動していたはずである。

 それでも日本軍の目には、
もはや単なる逃亡者か
夜盗のように映ったのかもしれない。

 原因の第4は、
戦場が日本やロシアの中心部はもとより、
主力部隊からも遠く、
孤立ないし隔離された島であり、
もちろん、
周辺には観戦武官や外国人記者どころか、
目撃する非戦闘員もいない場所であったことだ。

 前述のように、
宣教師ニコライはこの虐殺をいち早く知り、
「当時外国人記者がいなかったため、
誰の前でもヒューマニストぶる必要はなかったので、
日本人は自分の本性を現した
のである」(『宣教師ニコライの日記抄』)と断じている。

「罪を恐れず罰を恐れる」と指摘される日本人の法感覚を
見抜いたような指摘だ。

 第5は、
外国人や捕虜を軽視するという深層心理が
働いてはいなかったかという点である。

 当時の日本人の中に、西洋人の中でロシア人、
まして囚人や元囚人が多いといわれる捕虜に対して
特別の差別感がなかったと言えるだろうか。

 戦勝から来る安直な優越感が
国際法の無視を生じせしめたのかもしれない。

 第6は、130名もの捕虜を獲得して
適切にこれを庇護できる自信がなかったのではないか
という点だ。

 初めて身近に見る外国人であったろうし、
大柄で言葉が通じないというのは、
かなりの威圧感を与えるものであったはずだ。

 第2次世界大戦時の一部の日本軍による捕虜虐待には、
こうした困惑が原因の一部をなしていた。

 このほか、上官や戦友の遺体を検分し、
ロシア兵がダムダム弾を使用したらしいということも
日本軍の将兵の怒りを買っていた。

 ダムダム弾は酷い苦痛を与えることから、
当時既に国際法で禁じられていた。


白楽天が命名した紫陽花 [2007年06月16日(Sat)]



















 一昨日、関東地方に梅雨入り宣言が出た。

しかし、この晴れ渡った青空と30度Cを超す暑さは
なんなんだ。

 6月は、紫陽花(あじさい)の季節。

 いつも思うのだが、この紫陽花にせよ、
杜若(かきつばた)、山茶花(さざんか)、槿(むくげ)、
芍薬(しゃくやく)、枳殻(からたち)・・・といった難しい命名は、
いつ、誰がしたのだろう。

いずれ詳しく調べてみるつもりだが、
とりあえず、この季節、
紫陽花について、少し探ってみたい。

まずは、『万葉集』。
この花を詠んだ歌は、
『万葉集』に2首だけ登場する。

 最初に、大伴家持の
「久邇の京より坂上大嬢に贈る歌五首」のうちの1首。

    言とはぬ 木すらあぢさゐ 諸弟(もろと)らが
         練りのむらとに あざむかえけり

 「口のきけない木にさえも紫陽花のように
色の変わる信用できないやつがある。
まして口八丁の諸弟めと知りながら、
そいつのうまいご託の数々に乗せられてしまった」と嘆く歌。

「練りのむらと」は、練りに練った巧みな一群の予言の意か。

 今ひとつは、(5月)11日に、左大臣橘卿、
すなわち橘諸兄(もろえ)が
右大弁丹比国人(たぢひのくにひと)
「真人(まひと)が宅(いへ)にして宴する歌」。
「左大臣、味狭藍(あいさゐ)の花に寄せて詠む」
との説明がある。

     あぢさゐの 八重咲くごとく八つ代にを
       いませ我が背子 見つつ偲はむ

「アジサイが色どりをかえて
次々と新たに咲くように、
万世の後までもお元気でいらしてください。
アジサイを見るたび、あなたを偲びましょう」
といった歌意か。

どちらも、そんなに興趣のわく歌とは思えない。
だから、この際、
歌による紫陽花の探求はこのあたりでやめてみよう。

専門書には、
古くから「ヤマアジサイ」と「アジサイ」があり、
前者は、繊細な感じの紫陽花で、葉は細く、
あまり光沢がない。山の沢を好み、
サワアジサイの名もある。

「大伴家持が詠じた味狭藍は分布から
この種類であろう」とあり、
「花の色変わりと心変わりを掛けている。
それが嫌われたのか、王朝文学では姿を消す。
関東は白花が、西日本には青花が多い」とある。
 
 また、後者は、「雨が似合う花。
日陰に耐えて咲くが以外にも原種の生育地は、
南関東、伊豆半島などの海辺の低木林。
紫陽花の字をあてたのは
平安時代の学者・源順(したごう)で、
『倭名類聚鈔』に載る。
漢名は綉球(しゅうきゅう)」というのだそうだ。

 本来の紫陽花は唐の詩人・白楽天(白居易)が命名、
「陽を好み気香ばし」と詠じているが、
どうやら、植物学的に「アジサイ」とは別の花だとか。

 ではどんな花なのか。

 もし、本当に誤用だとすれば、
「千年の誤用」というべきか。

 以上、一部は朝日新聞「花おりおり」(湯浅浩史)を参照した。生
来、整理能力に欠ける私ゆえ、
掲載年月日不明なことについてはご寛恕を。

 どなたか、紫陽花の区分や植物の命名について
さらに詳しいことがおわかりなら
ご教示いただきたい。
石田画伯の「焼望」考 [2007年06月16日(Sat)]




昨日、私はこう書きました。

 ☆━━━━…‥・ ☆━━━━…‥・

小欄でおなじみの石田良介画伯率いる日本剪画協会が
23回目の剪画美術展を、
7月14日(土)〜18日(水)まで毎日
午前10時から夕方6時まで(最終日は4時まで)、
大崎駅前のO(オー)美術館(大崎駅から
空中回廊でつながっているので、雨にぬれずに行けます。
徒歩3分)で開催する。入場無料。

今年のテーマは「きらめく」。

黒と白を基調にしてどう「きらめかせる」か、注目したい。

 “見もの”は
もちろん石田会長の特別出展「焼望」。
ポスターや案内状に使われているこの写真はその一部。

 ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆

 早速、3人の友人から
「冬の焼望」は「冬の暁望」の間違いではないか、
とご指摘や問合せをいただき、
存じ上げない茨城県在住の方からは、ご親切に
「今のうちお知らせして訂正していただいたほうが」
とご助言いただきました。

今は便利な時代、そこで早速、石田画伯にメールをしたところ、
以下のお返事がきました。

 〃★〃☆〃☆〃☆〃★〃☆〃☆〃☆〃★〃

早速、ブログでご紹介下さいまして有難うございました。
また、大きな反響を呼んで沢山の鑑賞者に
ご来館していたでけることでしょう。
感謝です。

「焼望」ですが、
「ショウボウ」と読ませて私の拙い造語です。

「暁望」が本来の熟語ですが、
「暁」は朝日の時に使って、
夕日にやけるのは「焼ける」文字を使うのだそうです。

そこで、夕日の残光をもじってとさせて戴きました。

 O(^ヮ^)o   ☆〃☆〃☆〃 O(^ヮ^)o

 浅学非才にして、センスなきこと比類なく、
芸術を理解すること無能力に近い私には、
なるほどそういうものかとは知りえても
このお返事がどこまで正しく理解できるかわかりません。

 とにかく、石田画伯じきじきの回答ですので、
「焼望」が“確信犯”であったことをお伝えするのみです。

 何はともあれ、会場にお越しください。目の覚めるような
素晴らしい作品が並んでいて圧倒される思いです。

 また、特に興味のある方は、7月14日午後1時からの
「石田会長による講評」をお聞きください。全出品作品に
忌憚ない助言と指導が与えられます。

 指導者が情熱をもって続くものを教えてこそ、
芸術は育つ、文化が熟成するということを、私は毎年、
その場で少しだけ体感できます。


金環食観測と礼文島 [2007年06月16日(Sat)]





















道北、稚内からフェリーで2時間という礼文島は、終戦直後、
金環食の観測で世界的に注目されたことがある。

すなわち、1948(昭和23)年5月9日に、
金環日食の観測がこの島で行なわれたことで知られている。

これは、当時、ようやく復興の緒についた
新しい日本の国際的大事業として、
広く世界に報道された出来事であった。

観測のため、日米両国の科学者1500名もが来島した。

これによって、礼文島の名は今でも天文学者や気象関係者に
知れ渡っている。

今、礼文島の利尻富士を遠望できる国道沿いに
その記念碑が建立されている。
太陽の満ち欠けを4本の柱の上部にたくみに表している。



礼文島と銭屋五平衛 [2007年06月16日(Sat)]



  
石川県銭屋五平衛記念館のHPより。



礼文島は利尻島の北にある細長い島。

仰げば利尻富士、下を見れば高山植物の美しさに、
先週は、生き返る思いの週末だった。
もちろん、ほかにもさまざまな見どころがあるし、
史跡にも恵まれている。

礼文島には、
江戸の豪商・銭屋五兵衛(銭五、1774〜1852)の記念碑がある。

銭屋五兵衛の名は、今の若い人にはなじみがないかもしれない。

銭五は江戸時代末期の加賀商人で海運業者。
六代前の吉右衛門から両替商を営み、屋号を銭屋と称した。

銭五の祖父から五兵衛を名乗り、
父・弥吉郎(六代目・五兵衛)の時には
金融業、醤油醸造業の傍ら一時海運業にも手を出した。

五兵衛は17歳で家督を継ぎ、
新たに呉服、古着商、木材商、海産物、米穀の問屋などを営み、
財を積み上げていった。

50歳代後半になって、
北前船を使って本格的に海運業に乗り出した。

宮腰と呼ばれた今の金沢港は北前船の重要な中継港。
銭五の船は利尻、礼文はもちろん蝦夷地や東北と
経済の中心であった京阪神の運送業で活躍した。

最盛期には千石積みの船を20艘以上をはじめ、
所有する船舶200艘、全国に34店舗を構える豪商となったという。

加賀藩御用商人となり、藩の財政にも貢献した。

かくして、江戸末期を代表する大海運業者となり、
北前船全盛期といえば、銭五の名が想起されるほど、
今日でも知られている。

また銭五は、鎖国体制下にあって
外国との密貿易をしたことでも特異な存在である。

今の北方領土の択捉島では
ロシアと取引を行なった人物でもある。

樺太ではアイヌ人を活用して大陸との通商を行い、
礼文島はその中継地であったと伝えられている。

そのあたりまでは、まだ信じられるのであるが、
自ら香港やアモイまで赴いた、
アメリカの商人とも交易した、
タスマニア島には土地を持っていたといった伝説?
までもある。

こうなると、その信憑性を疑わざるをえない。しかし、
洋上や離島で、中国商人や欧米の船と
若干の取引をした程度のことはあったかもしれない。

通商だけではなく、銭五は開拓事業でも活躍した。

ところが、加賀藩内・河北潟の干拓工事のさなかに
伝染病が発生し、
多くの村人に被害が及ぶや、
反対派から、
その原因が銭五が流した毒薬によるものであると中傷された。

このため銭五は息子らとともに投獄され、
事実否認のまま、享年80歳で獄死するという
悲惨な末路となった。

ペリーの来日は翌年、開国間近の出来事であった。

開国後は、
鎖国体制下で海外交易に挑戦した加賀商人との見方も出、
維新後は、
身体を張った貿易の先駆者として
ある種の憧憬を交えた評価が高まった。

私は、軟弱な自分には到底出来ないことゆえ、
銭五の生き方に早くから魅力を感じ、最近の本を含めて
関係の小説を読み漁っている。

若林喜三郎『銭屋五兵衛 幕末藩政改革と海の豪商』、
木越隆三『銭屋五兵衛と北前船の時代』は
ともに金沢の北国新聞社が刊行した好著。
時代を反映した、冒険的な商人の姿を十分描いている。

また、時代小説の童門冬二は
『海の街道 銭屋五兵衛と冒険者たち(上)(下)』(学陽書房人物文庫)、
さらにそれを元にした『銭屋五兵衛と冒険者たち』(集英社文庫)などで
銭五の活躍を描き、
南原幹雄は『銭五の海(上)(下)』(学陽書房人物文庫)で、
銭五の躍動する人生を巧みな筆致で活写している。

金沢市には、石川県銭屋五平衛記念館や、
銭五の本宅の一部を移築した「銭五の館」があり、顕彰している。
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