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弔問外交またも不発 [2007年04月26日(Thu)]






 エリツィン元大統領の葬儀が25日、モスクワの救世大聖堂で行われた。

 プーチン大統領をはじめ、ゴルバチョフ元大統領やロシアの要人が列席したのは当然であるが、外国からも、米国からはブッシュ元大統領、クリントン前大統領、英国からはメージャー前首相など、エリツィンが活躍した1990年代を主導した政治家たちが多数参列した。こうした世界の指導者だった著名人が、未亡人となったナイナ夫人を抱きしめて弔意を示す映像や写真が世界に流れると、ジーンと来るものがある。

 残念なのは日本。ロシアに赴任してまだ1年という斎藤泰雄大使のみで、特使の派遣もなかった。中国、インドも要人の出席が間に合わなかったとはいえ、またも「弔問外交」の機会を逃した。

 23日に亡くなってから葬儀までの期間がなんとも早かった。何事にもゆっくりのロシアがどうしてこんなに早いのかは、地下鉄のエスカレーターの速さ(日本の3倍)とともに不思議だ。

 しかし、普段からの構えや備えがあれば、その日のうちに決定して24日の飛行機でモスクワに向かうことは可能だったのだ。

 ただ、小欄では、1993年にエリツィンとの間で「東京宣言」をまとめた細川護煕元首相が一番適任だと言ったが、政界を離れている、野党だからまずいなどということなら、1990年代に大使だった枝村純郎、渡辺幸治といったエリツィンと何度も会っている人や、外相経験者くらいは参列してよかったのではないか。

 かつてソ連のアンドロポフ首相が亡くなったとき、就任からほどない中曽根首相は果敢にモスクワに飛んで「弔問外交」を行い、継承したゴルバチョフ氏らとの関係をよくした。

 しかし、4年前、サハリン州のファルフトジノフ知事が航空機事故で亡くなったときにも、7時間の時差をこらえてプーチン大統領が州都ユジノサハリンスク(戦前の豊原)までやってきたが、日本からは、交代期で総領事がいなかったこともあり、30代半ばの総領事代理が出席しただけだった。

 こういう場合は、せめて北海道知事とか、主要な閣僚経験者などが参列すべきではないか。

 せめてしかるべき人大使館に弔問にでかけるとは、数時間でもいいから半旗を掲げるとか、やりようはいくらでもあろう。日本人はこういう場合、本来、決して冷淡な国民性ではないはずなのに。

 外交問題では外務当局や官邸にこういう形であまり文句をいうのは私の趣味には合わないが、どうも残念なことが多すぎるように思われてならないので、きょはあえて書いた。
NGOによる政策提言 [2007年04月26日(Thu)]
 





 日本の対人地雷政策を変えるのに決定的な役割を果たした絵本『地雷ではなく花をください』(自由国民社)は56万部のベストセラーとなり、各国語版も出た。NGOの新しい活動手法を開拓した意義も大きい。




 NGOをもっと活性化させ、国家・社会で重要な役割を担うようにしてゆくための第2は、政策決定のための提言や決定への参画である。定期的に関係官庁と意見交換を始めているのもよいし、各種の審議会や懇談会へ参加したり、議会に議席を持つことも有効であろう。

 難民を助ける会では創立メンバーの一人である藤田幸久くんが衆議院議員に2度当選、今度は7月に茨城地方区から参議院議員選挙に立候補する。

 しかし、NGOは開発、環境、難民、地雷などテーマ別の専門家集団であり、その専門性を磨くことが肝要である。加えて、政府や地方公共団体、特殊法人などいわば「官」とは十分相互補完性を持っている。事実、98年8月には、難民を助ける会のメンバーは当時の国際協力事業団(JICA)の旧ユーゴ対人地雷調査団の一員として参加しているし、また、難民を助ける会では総理府PKO本部や外務省の選挙監視団の多くに協力してきた。

 政策提言も数多くしてきた。@日本はインドシナ難民を受け入れるべきだ、A日本は対人地雷全面禁止条約に加入すべきだ、BODAを日本のNGOを通じて活用すべきだ、C難民認定の再審には法務省以外の声も反映させるべきだ・・・といった提言は、ご承知のように、既に実施された。

 このように内外で、対話と協調が進みつつあるのが政府とNGOの関係と言ってよいのではないか。今後は、現地事情などの情報、軍事用語や特殊言語などの語学、内戦に巻き込まれたような場合や交通に関する安全研修、予防接種などで「官」の援助と協力がほしい。


■資料リンク
サニーのおねがい 地雷ではなく花をください

サニーのおねがい 地雷ではなく花をください
日露戦争と捕虜 (24) [2007年04月26日(Thu)]





●ロシア軍負傷者救護の絵馬
 
 以下の一文は既にその概略を小欄で紹介したが、今少し詳しく、お伝えしておきたい。

 伊予岡の日露の絵馬や若葉風―これは1987年、「百壺庵」こと島津豊幸愛光高校教諭(当時)の作。「伊豫岡八幡神社」(愛媛県伊予市上吾川、武智盛浄宮司)の絵馬を見ての句である。

 この絵馬(1.81×2.14b)は赤十字の腕章を付けた衛生兵たちが、戦場に程近い場所でロシア軍の負傷者(軍靴の様子からおそらくは将校)を救護している様子を描いたもの(写真)。日露戦争から凱旋した下吾川出身第22連隊(松山)の兵士たちが奉納した。額の木枠に沖多三郎以下の名前と奉納された時期を示す「明治三十九年五月」と記入され、京都の画家「其峰」のサインが絵の右下の部分に入っている。このときに島津教諭が「ロシア兵を救護している様子をえがいたものだ」と指摘してから大いに注目されるようになった。

 このため、ソ連時代の1989年に大阪からワレンチン・アレクセイエフ総領事が見に来たり、カラマツの苗木数本が贈られたこともある。

 さらに、ロシアになってからも96年にゲオルギー・コマロフスキー大阪総領事が訪問したりしている。同参事官は『円空』の著書もある日本通、退官後も天理大学教授などとして日露文化交流の推進に努めたが、2004年夏、まだ60代半ばで急逝した。

 日露戦争時に松山で収容されていたロシア人学生(志願兵)が書いた美麗な本を私に渡し、その翻訳出版を勧めた人でもある。この本は、私がプロデュースして、中央公論社から『松山捕虜収容所日記』の題で公刊された。

 伊予の絵馬は、1990年には伊予市の指定文化財になった。

 これには島津教諭の努力も大きい。島津教諭は「絵馬と薫風」なるエッセイを書き、「絵馬発見」の経緯を詳しく述べている。このエッセイのすばらしさは89年度の文藝春秋ベストエッセイに選出されたことでも明らかだ。(創風社『絵馬と薫風』所載)

 それによると、同教諭は「第22連隊が参加した旅順港最大の要塞・ひがしけいかんざん東鶏冠山攻撃の図ではないか」と推定する。同連隊はこの攻撃で千百人もの兵隊を喪った。

 そしてこの「従軍兵士たちの多くが看護兵であって、そうしたことからこのような画面構成になったのであろうか」と推測し、「私がたどり着いた一応の結論は」として「彼らはロシア兵を看護したことの方を画題の中心にすえたかったのではないであろうか。戦場にあって、負傷した敵軍将校を救護するという異常な体験こそ、郷党の人々に誇らかに伝えたかったのではないであろうか」と述べている。

 この絵馬と対面した私も同感であり、この誇りこそ、後世に伝えられてしかるべきものと考える。伊予の誉れというだけではなく、これは日本の誉れを絵馬に託したものと言えよう。
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