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10億円貰った話 [2007年04月23日(Mon)]




「春爛漫」。剪画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




  

 拙著『NGO海外ボランティア入門』に加筆修正を加えて連載していますが、他に書くことが多く、7回までで少し間をおいてしまいました。ところが、読者から厳しい催促がありましたので、再開いたします。

      ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜


  1995年1月、阪神淡路大震災のときの話を続ける。

  さすがに日赤でも「これまで義捐金については、明確な法律や基準などが定められておらず、その概念や使途が理解されがたいところがありました」(日赤救護課・中川智子さんの社内報98年9月号への解説記事)などと認め、震災の翌96年に「義捐金問題懇親会」を組織、ようやく98年7月に「義捐金の取扱いのガイドライン」を作成し、公表した。

 思い出すのは、阪神大震災の2日後、CSK(今は湯川常務のCMで有名な会社)の大川功会長兼社長(当時)から「5億でも10億でも出すから、この人たちに1ヵ月、1人に1個ずつ弁当を配ってやってくれんか」という話がきたときのこと。同社長がフグ料理を食べながら、テレビの「ニュースステーション」を見ていたとき、親子3人で1つの弁当を分けて食べている情景が放映された。「これはかわいそう。何とかせにゃあかん」。さっそく、日赤本社に電話をさせた。

「あんた、今、何時だと思ってるの。ウチは5時ちょっとで終わりです」

 まだ、神戸全体が猛火に包まれているときのことだ。

 相談を受けた、私の友人・村上幹次氏から電話がきて、私たちは即、行動を数十倍化した。

  カネの心配をしなくて思いっきり活動をするということは、そうめったにあることではない。
@緊急食料品や缶入り飲料水の配布、
A被災外国人への生活相談と生活資金の援助(独身者20万円、家族のいる人40万円の「貸付」)、
B防水用青ビニールシートの大量給付、
C韓国にボランティアを派遣してジャンボ機2機分の男女下着を購入・配布、
D全国からのボランティア(毎日約70人)に宿舎、シャワー、飲食物の提供(約7ヵ月)、
E中村紘子、島田祐子、原田直之のみなさんによるさまざまな無料音楽公演、
Fランドセルをなくした子どもたち千数百人にランドセルを配布、
などはこのときに行った活動の一部だ。
 
「もし、赤十字が官僚主義に走るならば、たちまち切り花となり、やがて枯れて死んでしまうであろう」とJ・S・ピクテ元赤十字国際委員会(仏語略称=CICR、英語略称=ICRC。以下、英語の略称を用いる)副委員長が『赤十字の諸原則』で戒めているのはもちろん、およそ急を要する活動を旨とする組織に禁物だが、日本赤十字社が、先人の偉業と国民的信頼にあぐらをかいて、この主義に毒されているようなことは「決してない」(と信じたい)。

 ひるがえって、われわれ純粋に「民」に依拠するNGOも小なりとはいえ、同様の官僚主義に毒されてはいないだろうか。
「自分の担当ではない」
「誰かがやってくれればいいのに」
「規則通りにやっているんだからとやかく言うほうがおかしい」
「間違いがなければそれでいいじゃないか」「他の人の顔色を見よう」「きょうできることだが、ま、明日に延ばそう」
「自分が率先して手を挙げるのは骨折り損だ」・・・・・・といった思いが心のどこかにあれば、それはもう、「立派な小役人」だ。

 連合(日本労働組合総連合)の創立者で、初代事務局長だった山田精吾は「官僚主義を批判するのは易しい。しかし、同時に連合の専従職員たちは決して“民僚”になるな」と説いたという。けだし名言。拳々服膺(けんけんふくよう)したい名言だ。

日本の最西端 [2007年04月23日(Mon)]




 日本の最西端に建つ西崎灯台。南側洋上から4月2日に撮影。







 同じく北側洋上から撮影。4月2日。












  碑に示されているように、与那国からは台湾がどこよりも近い。



 沖縄県与那国町の西崎灯台付近は日本の最西端である。

 その場所をまずは写真で紹介しよう。 
台湾を見に与那国へ [2007年04月23日(Mon)]




 日本の最西端・与那国町西崎灯台付近から臨む台湾。



  許世楷台北駐日経済文化代表処長(大使)は生粋の台湾独立派。それゆえに、32年間、帰国を許されず、そのほとんどを津田塾大学教授として東京で過ごした。


 1972年、沖縄が日本に復帰し、本土からの渡航が容易になった、許「青年」は望郷の念に駆られ、いても立ってもおれず、船で与那国に向かった。

 故郷が見たい、その一念だった。一週間、日本の最西端、台湾まではわずか111キロ(渋谷から東名高速で御殿場までの距離)の与那国島西崎灯台の前にたたずみ、目を凝らした。

 何日目かに、ぼうっと見えた。少なくとも心には、心眼にははっきりと焼きついた。

「当時、そしてその後も、台湾の事務所(中華民国大使館や台北駐日経済文化代表処)に近づくのは危険だった。その私がいまこの席にいる。台湾の民主主義と自由の進展を象徴しているようなものだ」

「その台湾に日本は冷たいですね」

「改善すべき点は多々あります。協力してください」。

  許処長はにっこり微笑んでそう言われた。

市町村初の在外事務所 [2007年04月23日(Mon)]




 許世楷台北駐日経済文化代表処長(右)と会談する田里千代基与那国町特命事項担当職員。(4月12日、東京・白金の台北駐日経済文化代表処で)





  日本の最西端が沖縄県与那国町(外間守吉町長)であることは既に記した。

  2007年の速報値によれば人口1,796(男940、女856)人、わずか806世帯と小さな町だ。1970年の人口が2,913人であるからこの30年近くで人口が3分の2以下に激減した。平成になってからの人口は常に2000人以下である。

  その町に、外間町長の右腕ともいうべき 田里千代基という「勇士」がいる。志があるという意味では「有志」、姿かたちが私よりはるかに凛々しい「勇姿」で仕事に取り組んでいることは間違いない。

  田里氏、今月27日に台湾に赴き、東海岸の花蓮市に与那国町の事務所を開く。

  その田里氏の要請により、このほど許世楷台北駐日経済文化代表処長(大使)にお引き合わせした。

  断っておくが、私にはそれ以上の政治的意図はない。私は反中国でも反台湾でもない。許世楷処長は私にとって、早稲田の大学院で同じ松本馨ゼミの7年先輩、「キミたちの7年先輩には実に優秀な留学生がいた。それに比べ・・・」としかられ続けてきた「幼児?体験」がトラウマ?となって、この先輩を尊敬し、鏡としている次第である。

  それはともかく、全国市長会や全国町村会に問い合わせても、「海外に事務所? およそ聞いたことがない」という返事だったから、与那国町の息込みはすごいものがある。

  田里氏から、さきほどメールが来た。

   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

  与那国町の田里です。その後、如何お過ごしでしょうか。
  上京の際は、大変お世話になりました。
   その後、想定外の日程となり15日の帰庁となりました。
  早速、町長への報告や事務所開設への調整会議、渡台前の雑務などなどに追われて、お礼が遅れていますことご容赦ください。
  さて、先生におかれては、大変お忙しい中、特段のご配慮を賜り許大使閣下への拝謁する機会を与えて頂いたことに対し、衷心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
与那国台湾事務所開設を前にして、許大使閣下へ与那国の台湾への取り組みなどについてご報告できましたことは、大変意義深くこの上もない喜びであります。改めて、深謝申し上げます。
  今般、許閣下から貴重なご意見やお話をお伺いできましたことは、小生、渡台を前にして大きな元気を頂戴しました。
   特に「与那国は日本の辺境になってはならない。中国の辺境になってもならない」とのお言葉には、日中・中台・日台間関係の難しさが凝縮されており、小職への餞の御言葉と受け止めております。
  ついては、閣下から頂いたお言葉を教訓とし、台湾との民間交流の増進に向けて、姉妹都市花蓮市との防災協定をはじめ、できることから一つ一つ取り組んで参りたいとの意を高めております。
 
 どうぞ引き続き大所高所からの御指導と御支援、御力添え等を賜りたく存ずる次第です。

 願わくば、与那国の台湾への熱い思いを、吹浦先生より本国・亜東関係協会 羅福全会長へご紹介頂ければ、この上もない喜びとするものであります。

 吹浦先生におかれましては、どうぞ、今後ともお身体には十分ご留意頂き、益々ご活躍されますことを祈念して申し上げます。

 追伸:ご報告します。
  小職が、渡台する日程が決まりましたので付記しました。ご確認下さい。

■4月25日:「与那國」出国→那覇着 
■4月26日:ビザ申請等出国への諸準備(那覇)
■4月27日:那覇発11:45→台北桃園国際空港到着12:10
        →15:30:松山空港発→花蓮空港着16:05 
   
  先生との記念写真を、昨日郵送しましたのでご査収下さいませ。

  また、貴重な「日台間の災害情報等連絡設置に関する研究報告書」、ありがとうございました。精読し勉強させて頂きたいと思います。

     沖縄県与那国町
        田里千代基拝

   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 簡潔明瞭、要を得た文章である。羅福全会長は、許世楷処長の前任者。もう古いお付き合いだが、昨年、私は台北でご馳走になってもいる。暖かく迎えてくれるだろう。

 それにしても、みなさん、彼の赴任ルート、「与那國」とあたかも「与那」という国があって、そこから「出国」するかのようだが、要するに、花蓮まで111キロの与那国から、127キロ東にある石垣空港へ、、さらに那覇、台北国際、台北国内の各空港を経て、ようやく花蓮に到着できるのである。その距離は約1100キロ。

 与那国町が、花蓮との間で特別な交流関係を作りたいというのは当然の希望であり、要求なのである。これは応援したい。

 田里氏の一路平安とご健闘を祈る。
若手実力者による研究会も [2007年04月23日(Mon)]
 

若手安保研究会の菅原リーダーが今月出版した大評判の本。


 4月になって、ユーラシア21研究所の活動がようやく本格的に始動した。1月に実施して以来の「日ロ関係徹底討論」は18日に、また、「若手安保研究会」は10日に行われた。

 前者は、学者・専門家である理事や複数の元大使などで7時間も議論した。最後の2時間は、外務省幹部にも出席していただいた。

 後者もまた、「実力者集団」ともいうべき次世代のすばらしいメンバーであり、毎回の研究会の中身の充実もすごい。

 メンバーーは有力なシンクタンク(複数)、内閣府・外務省・金融庁・防衛省などの現役中堅幹部、3自衛隊中堅幹部、在日外国公館スタッフ、少壮国際政治学者、関係団体スタッフなど約10人がメンバー。いずれも45歳以下。坂本正弘日本戦略研究フォーラム副理事長(元中央大学教授)と吉崎達彦双日研究所副所長、そして私が年齢オーバーで顧問となっている。

 この3月まで東京財団で4年続いていた同じような名前の研究グループがあったが、リーダーの吉崎さんが年齢オーバーで顧問となり、菅原出氏(国際政治学者、草思社『外注される戦争』の著者)が引き継いで、ユーラシア21研究所が実施することになったもの。

  ただ、いかんせん当方は貧乏団体なので、出席手当ても交通費も支払うことはできない。それでも、菅原リーダーから、「出席手当ての件はお気になさらないでください。会場さえあれば会議はできます。それで嫌な人はそもそも集まる資格はないと思っています」との力強いメールをいただき、意を強くしているところです。

 4月の研究会のテーマは「戦略環境の構造変化について」。 現役官僚のA氏が、国際情勢を見る視点、とりわけ戦略的視点として、縦の時間軸である「歴史」と、「地理」的要因という2つの要素から国際事象を分析する「地政学」の基礎に関してお話してくださった。

 すなわち、地政学というフレームワークを用いて戦略環境の構造変化を第一次世界大戦前の世界から911以降の対テロ戦争が行われている現在まで概観した。主に海洋国家群から成り立つ海洋勢力と大陸勢力による地政的対立構図という大きな世界の構造に着眼しながら、世界情勢の構造変化の変遷について解説していただき、それを受けて議論を行った。

@ こうした地政学的視点が、通信が発達し、大陸間弾道ミサイルや核兵器が存在する現在にどの程度有効なのか、

A インドや中国などの将来の潜在的大国の存在は、従来の海洋勢力対大陸勢力の枠組みではどのように分析したらよいのか、

B 現在のロシアの対外政策は、明確にこうした地政学的戦略構図を意識して練られていること、

C こうした地政学的分析が有効な地域、それ以外の要素が強い地域があるはずで、さまざまな分析枠組みを重ね合わせて複合的に国際情勢を分析すべきだが、そのベースとして地政学という分析枠組みは現在でも非常に有効であること、 などと議論が続いた。

 オフレコの研究なので、メンバーの氏名や議論の内容をこれ以上詳細をお伝えできないことをご寛恕ください。


■資料リンク
外注される戦争―民間軍事会社の正体
菅原 出
草思社 (2007/03/24)
売り上げランキング: 7767

外注される戦争―民間軍事会社の正体
突然、嫌いが好きに [2007年04月23日(Mon)]




「国後島」。挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。






 お笑いの一席。週末に、京都在住の「妙齢の美女」から来たメールから始まったやりとりです。


☆ 〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆


  今、私は筋トレにハマっています。大嫌いだった体育です。正直、小学生の頃に一度通知表で2が付きました。運動なんて大嫌いだった私が○○年も過ぎれば趣味はスポーツ観戦、筋トレ。不思議なものです。

  様々な変化と出逢いの結果と思います。

  人生のプロデューサーは自分自身ではないと言う事に最近気づきました。

  好き勝手、自由奔放に生きて来た私にとって予期せぬ『どんでん返し』は楽しいです。

  大嫌いだった人物がいつの間にか大好きになっていた〜ドラマチックって言うのかな?人生って楽しいものですね (*^-^)b


 ☆☆☆☆☆☆★☆☆☆☆☆☆☆


  マジメな私はすぐ返事をしました。少々意味不明ですが。

 ☆━━━━…‥・ ☆〃☆

  自己表現は、手段は別としてご自分でしか出来ないわけですし、ご健闘を祈ります。
  
  私も大嫌いだったダイエットに取り組んでいます。
              
                       吹浦忠正 
 
 
 ★ ★ ☆〃☆〃☆〃☆☆〃☆ ★ ★


  あ、私の例え話で誤解が生じたかも? 予期せぬ時期に北方領土が返還されたりして〜と言った意味でした。


   O(^ヮ^)o o(^ヮ^)o  O(^ヮ^)o o(^ヮ^)o


 それはきわめて正鵠を射ていることだと思います。

 先週、北方領土に関する専門家の会議(第2回徹底討論会)があって、グラデュエーション式での返還はない、東ドイツの崩壊、ソ連邦の消滅のように一夜にしてくる、という見方で一致しました。こざかしい妥協を排し、努力と工夫と忍耐を続けつつ、初志貫徹ということです。

         吹浦忠正

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