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笹川会長のブログへの感想 [2007年04月12日(Thu)]






  1996年に選定された日本陸連の第1ロゴマーク。これでは「日の丸」に文字がかからないように工夫されている。陸連では、「陸連旗」として、依然、「日の丸」の下部に「N.R.R.」と大きく書いた旗を用いるとのことである。国際的なマナーに照らしてこれはよくない。外国の旗にこれをやったら、最悪は刑法の外国国旗国章損壊罪に該当しかねない。









    2003年に新しく制定された日本陸連の基本第2ロゴマーク。「日の丸」に直接文字を書いたものは、「陸連旗」とのこと。大正時代に陸連が創設されて以来ではないでしょうか。さらに調べて回答します」と陸連。





 日本財団の笹川陽平会長がご自身のブログ(4月9日付)で、以下のように書いておられた。

 一年の三分の一近くを海外で活動され、現地の日本大使館などの国旗を目にする機会の多い会長ならでの視点である。

   ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃

 空気汚染やスモッグで「白地に赤く」ではなく、黄色、灰色地に汚染された日章旗が多い。「毎日のことで、つい汚れて・・・」
これは理由にならない。

 日本を代表する公館として、日章旗には格別の配慮を願いたい。洗濯してアイロンを掛けた、すがすがしい日章旗を掲げてほしいものだ。

 アメリカ大使館には、いつも素晴らしい星条旗が掲げられている。聞くところによると、半月に1回、焼却して新しい国旗を掲揚するという。

 何十億円、時には何百億円のODAを供与しながらこの日章旗では、日本国の恥であり、税金を納めている国民は泣くであろう。

 2月18日、東京マラソンの開会式に出席した。

 3万人のランナーがスタートする地点に陸橋があり、大きな日章旗が二つあった。驚くことに右側の日の丸には「N.R.R.」の黒字の印刷があった。

 何処の国の国旗にこのようなことがあろうか、目を疑った。日本陸上競技連盟の略で、相当昔から使用されていて、その道の人はよく知っているとのことである。

 何か理由があるのかもしれないが、国旗に印刷とは、非常識なことである。

 国旗は何処の国でも神聖なものである。

☆   〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆

 私は国旗の専門家としていささかコメントしたい。

 まず、汚れている国旗をそのまま掲げるのは、おっしゃるとおり、自国への矜持や誇りからいって許さるべきことではない。まして、先端が破れているような国旗は速やかに取り替えるべきである。

 ただ、もともと国旗や信号旗は海上での使用が多かったため、船員や水兵がひがな一日、原反を縫い付けて補修して使用していた。これは国旗を大切にするということからきている。

 さらにポルトガルの国旗(赤と緑の縦二色旗で、色の境目に天球儀などを描いた紋章)は、赤と緑は幅が2対3になっており、少々、先端が風で傷んでも、紋章の部分がはっきりしているといったデザインのものもある。同じく世界に翻ったスペインの国旗は赤黄赤の横じま、赤白青のオランダをはじめ、こうしたデザインの国旗は「横の痛みには強い」とされる。

 北朝鮮の国旗の星が竿側にあり、バングラデシュの太陽を表す赤い円やパラオのツキを現す黄色の円が竿側に寄っているのも同様である。

 明治3年の太政官布告第57号で近代的な形で制定された「日の丸」は、円の中心が旗面の中心(対角線の交点)より竿側に100分の1ずれていたのも、そんな理由からと見られている。

 しかし、そもそも国旗たるもの、平時にあっては清潔、鮮明であるべきは当然である。

 ましてこれに文字を載せるのは、戦時中に大流行だった。「武運長久」「八紘一宇」式の文字を書き、「祝〇〇君出征」の文字の下にみんなが署名したりした。私にいわせればこうした書き込みは言語道断、国旗に対する侮辱である。

 実は、1963年、私はオリンピック東京大会組織委員会で国旗を担当していた。その時に、日本陸上競技連盟(陸連)の旗が「日の丸」の下部に「N.R.R.」と書いているのを知り、「これはまずいです」と抗議をしたことがある。陸連会長河野一郎の秘書に伝えたのだが、数日後、「陸連にケチをつけるのか」という返事しか返ってこなかった。まだ学生だったとはいえ、わが非力を恥じるほかない。

 笹川会長のブログを拝読し、日本陸連に問うなどし、若干調べてみたところ、同連盟は、「第2ロゴマークを制定し、ローマ字表記だった連盟の名前も、英語のJapan Association of Athletics Federationをもっぱら使用し、N.R.R.は使用しない」とのことである。それでも依然、連盟旗として残って現に笹川会長が東京国際マラソンの開会式で見ておられるように、存在し、使用していることは、遺憾といわざるを得ない。

 ところで、総じて日本ではシワシワの旗が用いられたり、破れたものまで掲げられるのは、「弊衣破帽」のバンカラ精神と貧しさ、戦場での物不足といったことによるのではないか。

 しかし、今日の日本、国旗「日の丸」はいうに及ばず、外国旗を掲げる場合でも、新しくて、清潔なものを使用する心がけを持ちたいもの。

 折から、きょう(4月12日)、中国の温家宝首相が国会で演説をした。その背面には「五星紅旗」と呼ばれる中国の国旗と「日の丸」と愛称で呼ばれる「日章旗」とが、大きなパネル状で掲示された。国会の事務局が昨近、こうした面でよく気を使っていることがわかる。

 1999年の国旗国歌法の審議のとき、参考人として公述した私は「学校に共用する前に国会議事堂内に掲げてもらいたい」と述べた。その後、三脚に立てられた「日の丸」が常用されていることを、今さらながら喜びたい。そしてそれが常に清潔に保たれていることが嬉しい。



東沙諸島知ってますか? [2007年04月12日(Thu)]





 東沙諸島(プラタス諸島)ってご存知ですか? 台湾が実効支配している南シナ海の小さな島である。この写真を見てください。台湾側から提供された写真です。

 台湾が実効支配している領土は、台湾本島のほか、澎湖諸島(台湾省)、金門島、馬祖島(福建省)、太平島(南沙諸島=スプラトリー諸島)。東沙諸島も太平島も高雄市の管轄となっている。台湾は、中国が実効支配している西沙諸島、中沙諸島、南沙諸島についても領有権を主張している。

 南沙諸島は新南群島として、1939年、日本が平和裏にフランスから譲渡された地域であるが、現在は周辺各国が領有権を主張している。すなわち、中国と台湾が南沙諸島のすべてを、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、マレーシアが一部の領有権を主張している。

 南シナ海では1974年と88年に中国とベトナムが武力衝突するということもあった。

 太平島(面積約0・43平方キロ)はその中の最大の島。既に日本時代に高雄市の管轄であったことが、台湾側の主張の大きな根拠だ。南沙諸島では中国が7カ所に約600人、ベトナムが27カ所に約2000人の兵力を配置しているといわれている。マレーシアは南沙諸島南部のラヤンラヤン島を実効支配している。

 話を東沙諸島に戻したい。面積は南シナ海の島では最大の1・74平方キロ。東沙諸島の西端にある中心となる島である東沙島は起伏のない平坦な環礁。とても美しいところなので、台湾が主権をアピールして、このほど東沙諸島を日本の国立公園に相当する「国家公園」に指定したのだ。

 昨4月11日の読売新聞の特ダネである。まず、記事をご覧いただきたい。

☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 【台北=石井利尚】台湾の陳水扁政権は、台湾当局が実効支配する南シナ海の東沙諸島を「国家公園」(国立公園)にすることを決めた。サンゴ礁などの環境保護が表向きの目的だが、「台湾の主権」を国際的にアピールする狙いもありそうで、やはり領有権を主張する中国の反発を呼ぶ可能性もある。
 東沙諸島は台湾南部の高雄市から約430キロ・メートル(正確には438キロ=吹浦)で、高雄市の管轄となっている。住民はいないが、海巡署(海上保安庁に相当)署員約200人以上が常駐している。台湾当局は、「世界的に珍しいほどの見事なサンゴ礁が広がっている」として、「東沙環礁」(約8万ヘクタール)と周辺海域一帯を、台湾で7番目の「国家公園」に指定、4月中に管理組織を発足させる。
 当局は、5年後をメドに、上陸人数を規制する「生態環境ツアー」観光地に開放する方針だ。また、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産の登録申請も検討している。内政部(内政省)国家公園課は「近年は、ダイナマイトを使う中国漁船の違法操業の影響でサンゴ礁破壊が急速に進んでいる」と指摘、サンゴ礁保護の必要性を訴えた。


☆ .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜


 台湾当局では、長らく軍が管轄し、ミサイルを配備するなどしていたが、2000年に日本の海上保安庁に当たる行政院(内閣)海岸巡防署に管轄権が委譲された。このため、戦闘機やミサイルなど攻撃型の装備はすでに撤去されたといわれている。周辺の海域では海底鉱物資源埋蔵の可能性のほか、豊かな漁業資源を狙って台湾・中国双方の漁船が入り込んで操業しているとのこと。

 東沙諸島には一般住民はいない。それでも、海岸巡防署の施設のほか、発電所、気象観測所、海水の淡水化設備、診療所などがある。

 いずれにもせよ、南シナ海はわが国にとって貿易と安全保障の上で極めて重要なシーレーンである。日本政府が常に十分な情報収集を行い、また、国民もこの地域にもっと関心を抱いて、見守ってゆく必要があろう。
ボランティア入門 B [2007年04月12日(Thu)]



 「腐っても鯛」などと悪口を言ってはならない。イギリスから学ぶべきことは政治、経済はもちろん、国民の生き方まで及ぶ気がする。






 92年のリオデジャネイロでの国連環境開発会議、94年、カイロでの国際人口開発会議、96年、イスタンブールでの国連人間居住会議(ハビタットU)など、国連はしばしば世界会議を開催してきた。以後枚挙に暇がないほど会議が続いている。

 こうした会議の昨今の大きな特徴は、政府代表とともに多数のNGOが参加するようになったことである。95年、北京での第4回世界女性会議にはなんと3万人もが参加し、NGOの意見を最終宣言や行動計画に反映させた。日本政府も94年の国際人口開発会議からNGOの代表を政府代表団に加えるようになった。

 98年6月、経済企画庁は民間の調査機関に委嘱して「NPOに関する経済分析調査」を行った。その結果、95年の日本のNPO(非営利組織)は、活動を通じて年間15億円の付加価値を生み、その経済規模は国民総生産(GDP)の約3.1%を占め、市民活動団体(NGOのことか)のボランティア活動を「有償」として試算した評価額は約6500億円になった。

 今では1兆円をを超えていると見られている。

 人類全体に関わる大きな課題が山積している中で、依然、国益の枠から出られない各国政府を尻目に、NGOによる地球規模のネットワークが活発に機能するようになって来た。

@挑戦すべき課題の深刻化にともなう参加する人びとの意識変化、A通信・交通手段の急速な発達、B冷戦終結によるイデオロギー的対立の崩壊などによるものと思われるが、加えて、C一つの実績が他の課題への挑戦の自信へとつながっている傾向もある。

 ICBL(地雷を禁止する国際キャンペーン)による対人地雷廃絶に向けての活動はよく知られるようになったが、ほかにも、世界の環境NGOの連合組織「気候行動ネットワーク(CAN)」の活躍は地球温暖化を防ぐための気候変動枠組み交渉に大きな影響を与えている。

 また、98年、ハーグで開かれた、大量虐殺や戦争犯罪に対する個人の罪を裁く国際刑事裁判所(ICC)設立条約の採択に際しても、NGOの活発なロビー活動が、アメリカの強硬な反対に対抗する側にとって大きな牽引力の役割を果たした。
 
 最近では、過剰に保有されている小型武器(小火器)の抑制が大きな課題になっている。世界には約5億のライフルや小銃が出回り、これによる90年代の死者は約300万人といわれている。

 1899(明治32)年に開かれた第1回万国平和会議(日本を含む26カ国が参加)100周年を記念して、1999年5月に同じハーグでNGOの協力で開かれた「ハーグ平和市民会議」には100カ国以上から約1万人(内、日本からは一国としては最大の約400人)が参加したが、その成果の1つは、小火器の規制に取り組む「小火器国際行動ネットワーク(IANSA)」の発足であった。

 難民を助ける会では2005年、上智大学との共催で「小型武器に関するNGO東京会議」を開催し、各国から多数の関係者をお招きし、当時、同大学の教授だった猪口邦子さんと難民を助ける会の柳瀬房子理事長が共同議長を務めた。

 こうした地球規模の課題に取り組む際のNGOの役割は、
@ 国連や各国政府による条約や政策立案に別の視点から注文を付け、
A 締結された条約や発表された政策の遵守や実施を監視し
B 条約については未加盟国の動向をモニターしつつ参加を促し、
C 専門性を活かして情報を提供することにより国民・市民を啓発し、行動への参加を促す、といったものであろう。

 NGOやNPOに過度の期待を寄せるのは禁物かも知れないが、21世紀の世界と日本にとって、そしてそこで暮らす1人ひとりにとっても、日本のNGOがより大きな役割を担って行けるような環境づくりと、1人ひとりの個人の関心と関わりを期待したい。

 相馬会長が説いた「日本人の善意」、もしかしたら、今、これは女性によって受け継がれ、拡充されているのではないかと思うことがある。

 そんなとき、ふと目にし、今日の世界の課題と個人との接点を示すものとして感動した短歌をこの項の最後に紹介したい。

    ホームなければホームシックもない
      という難民の子と千代紙を折る
             (イギリス)和田 美子
          (98年3月16日付「朝日歌壇」で
          近藤芳美、佐々木幸綱両選者の選になる入選歌)

 これが世界の現実であり、そのイギリスにOXFAMはベースをおいている。そして日本の半分以下のGDPであるに関わらず、このほど、ついに日本のODAの規模を超えて世界第2のODA大国になったのがイギリスなのである。


ボランティア入門 A [2007年04月12日(Thu)]
  

絵本『地雷ではなく花をください』(第1巻)  自由国民社 1600円


 私たちは1994年に、プノンペン市内に「キエンクリエン障害者支援センター」を開設、毎年、約60名の障害者を家族と共に受入れ、識字教育から始め、車椅子製作、オートバイの修理、ラジオやテレビの修理、皮革工芸、養鶏などの職業指導を行ってきた。

 2006年に、この運営はすべてカンボジア側に委託できるようになり、難民を助ける会のスタッフがメールで報告を受けつつ、時折、巡回すればいいという程度になった。

 しかし、カンボジアにいる万を超える対人地雷による被害者、さらには世界の25万人もの地雷被害者(対人地雷の被害者の2人に1人は亡くなっているので、被害者の総数は約50万人とみられている)のことを思うと、対人地雷被害の根本を断つ「地雷廃絶」しかないという声が、特に若い人たちから上がってきた。

   対人地雷問題については、正直なところ、私は「転向組」だ。

 恥を忍んでわが不明を申し上げるが、私は対人地雷は典型的な防御兵器であり、専守防衛に徹するわが国には絶対必要な装備であり、朝鮮半島のDMZ(非武装地帯)周辺から対人地雷がなくなったら戦争の発生を促す原因になるし、その場合の被害は計り知れないなどと考えていた。

 畏友であり、軍事アナリストの小川和久さんも当初はそうだった。防衛庁(当時)はもとより、政治家にも外務省にもそういう人のほうが多かったほどだ。

 私は今日でも地雷の軍事的有効性を否定はしないが、要は視点を換えてものを見ることができるかどうかだ。対人地雷問題は人道問題なのだと。軍事的効果と人道的マイナス、不等号がどっちに開いているかを理解できるかだ。

 対人地雷全面禁止に転向した後、中曽根元首相を説得するときにこの人はわずか3分で、この論理を理解し、以後、大きく支援してくれている。詳細はいずれ小欄で紹介する予定だ。

 また、今後の戦争、特に、わが国が侵略を受けるような事態になるような大規模な戦争に際し、わが国の防衛は地雷に依存しての戦略に立ってのことであろうか。

「海に囲まれていて長い海岸線を持つ日本は対人地雷で岸辺を護るほかない」というが、「陸続きの国境でなくてどんなによかったか」。それに、自衛隊は世界で最も進んだハイテク武装集団の1つであり、地対空、地対海、空対空、空対海・・・・・・などの防衛網を、ミサイルをはじめ高度な武器でほぼ完璧に整備している。

 さすがに、日本のオワタ条約調印と世界世論の趨勢(すうせい)に抗するあたはずと、98年度の『防衛白書』では、それまで上陸した敵の侵攻部隊には「地雷などの障害物で護る」としていたものが、単に「障害物で」となった。戦術上のささやかな転換といえよう。

 1996年9月、難民を助ける会では対人地雷撤去キャンペーン絵本『地雷ではなく花をください』(文・柳瀬房子、絵・葉祥明)を自由国民社から刊行した。日本語英語版だけでも56万部、純益はすべてカンボジアとアフガニスタンでの地雷掘削に充てられた。

 その後、各国語で翻訳出版され、世界の地雷廃絶運動にも大きな影響を与える結果となった。


■資料リンク
サニーのおねがい 地雷ではなく花をください
サニーのおねがい 地雷ではなく花をください
日露戦争と捕虜 (21) [2007年04月12日(Thu)]


松山だけが有名に


 ところで、29ヵ所も捕虜収容所があったにかかかわらず、なぜか、ロシア人捕虜収容所といえば、今日、松山だけが圧倒的に知られている。それにはいくつかの原因があろうと思われる。列挙してみよう。

@ 最初の捕虜収容所が松山に開設された、
A 松山は佐官や尉官など将校捕虜が多く収容されていた、
B 松山にいた将校捕虜やこれを訪ねてきた人々がいろいろな記録を  残している、
C 松山在住の作家・才神時雄氏がこの問題を熱心に研究し、『松山収容所』(中公新書)はじめすぐれた業績を遺している、
D 松山大学や松山市民が熱心にロシア人捕虜の研究や墓地の整備・清掃に当たってきた、
というのが原因であろうとされてきたし、それは正しいと思う。

 しかし、私はもう一つ、E明治戦争文学の双璧とされる大ベストセラー『肉弾』(1906)と『この此いっせん一戦』(1911)の影響を見逃せないと思う。この2冊は、当時の青少年のみならず、それ以降、多くの国民を興奮させ続けたといっていい反響があった。

 戦前の国民一般の戦意に与えた影響、戦争のヴァーチャル体験度は計り知れないものがある。

『肉弾』は桜井忠温(ただよし 1879〜1965)、『此一戦』は水野廣徳(ひろのり 1875〜1945)の作。ともに松山市の出身。

 桜井は陸士(13期、後に少将)卒後、松山の歩兵第22連隊の小隊長(中尉)として旅順の第1回総攻撃に臨み、機関銃に全身を撃たれ、軍医から「全身蜂巣銃創」なる傷名を付けられる瀕死の重傷を負った。火葬場の寸前で息を吹き返して奇跡的に生還した。その時の体験を1906年に「惨雨血風の惨酷に泣けり」の序文で始まるこの作品に描き、大好評。16ヶ国語に翻訳・出版され、テオドル・ルーズベルト米国大統領からは感激したという手紙が寄せられ、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は独文に翻訳し、全将兵にこれを読ませた。

  一方の水野は海軍兵学校を卒業、第41水雷艇長(大尉)として日本海海戦にも参加した軍人(後に大佐)。このベストセラー作者がそれぞれに捕虜について記述している。とりわけ、『此一戦』で水野は捕虜の実態を詳しく述べている。これで松山の俘虜収容所は一躍、全国的に知られるようになった。『此一戦』を通じて示された水野の捕虜観については第3部で述べる。

  松山が生んだ二人の戦記文学の“超大作家”の影響ははかりしれないほど大きい。


■資料リンク
捕虜たちの日露戦争
捕虜たちの日露戦争
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