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ボランティア入門 @ [2007年04月11日(Wed)]




『NGO海外ボランティア入門』は、私自身の海外協力の経験をもとに、日ごろ考えてきたことをまとめたものだ。もう8年ほど前に私が副会長をしていた難民を助ける会の創立20周年を記念しての出版である。今では容易に手にはいらないとの苦情も多い。

  そこで、たまたまそのデータ化を依頼された機会に、一部手直しをしながら主要な部分を小欄でご紹介したい。

 まずは、「21世紀はNGOの時代」という冒頭の章から。「新しい市民社会と世界を築く力」の表題で。

    ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

  難民を助ける会は2009(平成21年)11月に創立30周年となる。

  タイ国境に大勢のカンボジア人が逃れてきたとき、 「難民キャンプには日本の救援物資と日本製の自動車が走り回っているのに日本人は誰もいない」 「日本はベトナム人が“ボート・ピープル”として危険を冒してやって来ても受け入れない」 「日本人は冷たい。国際的な責務を果たそうとしない」・・・・・・ 外国人の友人からそうした手紙を受けとった相馬雪香(そうま・ゆきか)先生は、当時67歳。30周年の目前に私は同じ歳になるが、はたしてあのときの相馬先生のような情熱と気迫と体力を持っていることができるか、2年後が不安でさえある。

「日本の社会に脈々と流れている善意を世界に示そう」「今、立ち上がらなくては日本は再び孤立する」と、“無手勝流”で立ち上がった。

  これを形にしたのは平塚益徳・国立教育研究所長(当時)であり、柳瀬真・国際積善協会会長(当時)であった。平塚所長は設立総会の議長を務められ、柳瀬会長は初代事務局長として、今日に至る活動のレールを敷き、資金を遺してくれた。

  それ以来、難民を助ける会の支援対象の基本は子どもと障害者と高齢者、要するに難民キャンプにあって一番困っている人に重点を置くことだった。ほどなく、私たちは「難民キャンプには地雷で障害を持つに至った人が実に多い」ということを知った。

  91年10月、「パリ和平協定」で、カンボジアには21年ぶりに平和がやってきた。

  北西山岳部を中心に、クメール・ルージュと呼ばれるポル・ポト派(カンボジア共産党)の抵抗はまだまだ続いていた。しかし、それでも多くのカンボジア難民が故郷をめざして戻って行った。

  だが、長年の苦労を経て、ようやく帰郷しようとした道すがら、家の前で、裏の田んぼで・・・・対人地雷が多くの人々を不幸のどん底に陥れ、農耕もままならずという現実に直面させた。

  カンボジア全土に400万個とも600万個ともいわれる膨大な数の対人地雷が埋設されたままになっていたのだ。

  「平和だけではダメ!PEACE IS NOT ENOUGH!」、平和は人々の幸せ、人間が人間らしく生きるための必要条件であっても十分条件ではないのだ。平和は手段であっても目的ではないという厳しい現実がやってきた。


■資料リンク
NGO・海外ボランティア入門―難民を助ける会20年の軌跡から
NGO・海外ボランティア入門―難民を助ける会20年の軌跡から
日露戦争と捕虜 S [2007年04月11日(Wed)]




日露戦争時にロシアの将兵を救う日本軍(絵馬。伊予八幡神社所蔵)





●通訳の赤面
  こうした各地の捕虜の様子は、当時のさまざまな記録が残されており、近年、郷土史の研究家や地方大学の学者が大いに調査・研究している。そうした記録の中で今回、当時の様子を描いてあまりあると、思わず眉を顰めたのが『山形俘虜収容所日誌』である。通弁(通訳)だった藤塚熊太郎が書き残したものだ。

「半紙二つ折りの朱罫紙を用い、八十二枚綴り、墨書の冊子本」と工藤定雄氏は同日誌の解説で書いているが、私が直接見たものではない。工藤氏はその中から次のような、通訳ならではの恥ずかしくなったエピソードを紹介している。大意を紹介する。

  ロシア人が市中通行の際、群集してくる小児らが「ゼニケロー」と言うはいかなる意味かと、藤塚通弁に質問した。通弁は大いに困惑して、何の意味か皆目わからぬ。恐らくは小児らの語で、無意味の呼びかけであろう、と苦しい答弁をしている。

  また、多数の中学生が捕虜に対し、大声で笑い出し、何やら罵(ののし)るのである。これに対してロシア人が「馬鹿者なら兎も角、いやしくも中学生ともあろうものが、外国人なりとて、俘虜なりとて無礼であろう。貴下幸いに、貴下の長官にこのことを伝えてほしい」と藤塚通弁に語りかけた。これまた、いや、この方が誠に恥かしい収容所のこぼれ話である。(11月9日)

  黒海に臨むオデッサの軍港での「戦艦ポチョムキン号事件」(6月14日〜7月8日)を知った兵たちが、俘虜収容所内でも士官の月給が100円で兵は40銭というのは納得が行かない。このなかから靴代や煙草の購入費を負担するので、「どうして過ごすことが出来るというのか、暴挙の起るのは止むを得ないではないか」と悲憤慷慨している。これは「心打たれるところである」(10月30日)という記述もある。

 ちなみに、藤塚の記録によれば、11月だけで、
         俘虜を見んとて群集せしを制止 636件
         同上 接近追随せしものを制止 106件
         同上に悪口せしもの制止      10件
         小児俘虜より金銭を貰はんとし
                 て追尾せしを制止   3件
あったとのことだ。  (つづく)




波照間の産業 [2007年04月11日(Wed)]







 めったに人通りはない。豊かな木々と花に恵まれた波照間島。花はいずれ特集したい。
 島内は、外来者にはバイクでまわるのが一番と思う。この勇姿?、とくとご覧あれ。
 バイクで1周しても30分とはかからない。その間、サトウキビ畑とヤギが目立つ。










 波照間島ではどこに行ってもサトウキビ畑がある。森山良子の歌を聴きなれた私は「またザワワ畑だ」といってしまう。

 波照間の経済は3つの段階があった。以前は米と粟などの生産とカツオ中心の魚業に依存していた。戦時中、島民は全員、隣の西表島に強制疎開させられ、その上、猖獗をきわめたマラリアで3分の1もの人々が亡くなるという悲劇に襲われた。

 戦争直後はリン鉱石の採掘でにぎわった。1960年代早々からは サトウキビ栽培に転換する農家が多く、今日も島の主力産業となっており、製糖工場もある。2001年には、22年間の歳月と75億円の事業費を費やした農水省による圃場整備事業が完了し、島一面がさとうきび畑で覆われるようになった。同事業は今なお継続している。また、スイカ、メロン、パッションフルーツなどの栽培も試みられているという。

 バイクで島内を周っていると目に付くのがヤギ。350頭ほどが登録されているようだが、実際には野生のものも含めるともっといるのだそうだ。

 観光客の増加傾向に合わせて、民宿が増え、私がお世話になった星空荘をはじめ12軒、ペンションは今シーズンに出来たばかりで、美しい西が浜の海に面している「ペンション最南端」が人気だ。
人口595人の島 [2007年04月11日(Wed)]
 




   波照間島。上が東。空港の滑走路が見える。






   「海が穢れる?!」。何たることを!!




 波照間島は行政上、沖縄県竹富町に所属する。波照間島だけの人口は595人、世帯数261(2006年4月末現在)。1972年の沖縄の祖国復帰は住民の喜びではあったが、その後、若年層を中心に人口が激減し、昨今は観光ブームもあり、ようやく、横ばいに落ち着いた感じだ。

  それでも、65歳以上の人口構成比が34.3%(2005年調査)。3人にひとりを占めている。これは沖縄県全体の17%と比べても倍という多さだ。

  但し、南の島に憧れたり、ダイビングを趣味として、2,3年はいるという若い男女が全国から集まってくる。その数は正確にはわからないが結構多く、一見した島の印象は、老若男女が仲良く暮らしているというように見える。

「しかし、これでは島の伝統文化が大丈夫だろうか」。そう心配する島人は少なくない


日本の最南端に立つ [2007年04月11日(Wed)]

















  波照間島は東西に横長の卵形をした、小さな平坦な島。島全体が隆起珊瑚礁で、お皿を伏せたような形で起伏は少ない。一番高い島のやや東寄りが60mほどの海抜で、そこには日本最南端の灯台が建っている。東西6km、南北3kmの楕円形をしている。周囲14.8km、面積12.75平方km。

  台湾の中央部の東、北緯24度だから北回帰線のすぐ北に位置する。日本でただ一カ所、南十字星がきちんと見える場所でもある。6月から9月が見ごろだとか。

  夕方の5時半頃に民宿星空荘に着いた。陽が暮れるのは東京とは一時間以上の時間差がある。だからまだ午後の盛りといった感じで、「空が元気」だ。

  島での主な交通手段は、住民は自動車であり、外来者はレンタルのバイクだ。主要な道は舗装されているので、私は50ccや100ccのバイクを借りた。

  免許証の番号を書けといわれたが、自動2輪の免許はない。前の人の番号の3番違いを書いておいた。確認するでもない。おおらかなものだ。

  バイクに乗ったのは35年ぶり。当時、独立したばかりのバングラデシュで国際赤十字の仕事をしていたとき、ハチアという島で縦横に乗り回していた。今はずいぶん簡単になったし、こういうゆるやかな起伏のある島にはぴったしだ。

  バイクで10分、「日本の最南端」に立つことが出来た。眼前には東シナ海が続く。

  その地点には日本の最南端をあらわす碑が建っており、神道関係団体が「日の丸」鮮やかに埋め込んだ記念碑もある。

「日本最南端之碑」に至る小道には全国の都道府県から寄せられた石が敷き詰められている。この碑の周辺で古式にのっとって採火された「北方領土返還祈念の火」が根室の納沙布岬までリレーされ、巨大な「四島のかけ橋」の下で燃え続けていることは、先日、小欄で書いた。

  東京からは直線で2千ロを超える。それだけ離れているのは、沖縄では与那国(日本の最西端)と波照間(居住者のいる最南端の島)など八重山群島の一部のみ。小笠原では南鳥島(最東端)も沖の鳥島(居住者のいない最南端の島)も都心から2千キロ内にある。2千キロの距離を「北」にとるなら、サハリンの北端、千島列島のほぼ北端にあたる。

  波照間や与那国はそのくらい遠い場所にあるが、ともに戦略上、枢要な位置にあるということを十分考える必要がある。
沖縄の観光客 [2007年04月11日(Wed)]




  波照間の美しい海岸。しかし、これだけでは観光での街づくりは難しい。たった1つのテレビ番組「Dr.コトー診療所」で、3千人の観光客が3千7百人になった。写真は、そのテレビセット(与那国島で)。






  沖縄県全体を訪れる観光客は年間560万人(2005年)。昨年9月に稲嶺知事を継いだ仲井眞弘多知事は1000万人を目標にすると発表した。

  そうした数に比べて、今回私が訪れた日本の最南端である波照間島観光客数は1、4万人。急速な右上がりなのだが、すぐ近くの竹富島の41万人、西表(いりおもて)島の35万人には遠く及ばない。交通・宿泊施設の貧弱さ、珊瑚礁の美しさ、ダイビング・スポットの人気で波照間が劣るからだとされる。

  他方、与那国島はというと、2006年に3、7万人になった。全年に比べ一挙に7千人も増えた。それはテレビの「Dr.コトー診療所」の人気によるものである。
  
ただ、「平均滞在日数が3.1泊。これをなんとかもう1泊でも増やしてほしいものです」と町役場の田里千代基特命担当官はいう。「この3月15日に滑走路が500m長くなって2000mになった。これで、飛行機も大型化します」。

「日本の最西端与那国」「台湾が肉眼で見える島」、それだけではなかなかやってゆけないところから、この人は外間守吉町長の右腕として、大胆な構想の推進に取り組んでいる。

 今朝、私はこの田里氏を、許世楷駐日台北経済文化代表処長(大使)に紹介する。同氏は今下う20日、僅か111キロしか離れていない、台湾の花蓮市に向かう。
難民を助ける会の沿革C [2007年04月11日(Wed)]




 難民を助ける会ではラオスの首都ヴィエンチャンにある国立リハビリテーション・センター内に車椅子製作工房を設け、同国随一の車椅子生産拠点となっている。また、そこの従業員からはじめた車椅子バスケットボールは、地雷や不発弾、そして交通事故や小児マヒなどで苦しむ多くの障害者に希望を与えるよう、普及に努力している。








 車椅子製作工房を視察する筆者。2007年3月。





 1984年には「アフリカの飢餓」が叫ばれ、緊急支援として毛布や医薬品をおくったが、難民を助ける会ではザンビアとジンバブエの難民キャンプで、救援プロジェクトを開始することになった。

 ジンバブエについては、藤田幸久くんが自ら所属するMRA運動の人脈ですんなり活動の許可や拠点づくりに成功したが、ザンビアが遅れた。

 そのときたまたま、安倍晋太郎外相が、現職の外務大臣としては国際会議以外に初めてアフリカを歴訪することになり、私はその随員に加わるということがあった。確か、1975年のはじめころであった。

 ザンビアの首都ルサカのインターコンチネンタルホテルに宿泊した大臣には20人以上の随員がいたが、皆さん部屋に閉じこもり、結局、私がなんと4時間半、お相手をさせられるという「光栄」に恵まれた。

 談論風発、このときは抱腹絶倒するような面白い話もいっぱい聞かせていただいた。部屋にはほかに田村大使がいるだけ。お気の毒に、私ごときにまでせっせと「麦焼酎のお湯割り梅干入り」を作ってくださった。爾来、私はそれにはまって今日に至っている。


■新たな使命「地雷廃絶」

 閑話休題。90年10月のカンボジア和平協定締結により、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構、明石康代表=現・難民を助ける会理事)が設置され、92年3月、難民の祖国帰還が国連によって行われるようになった。

 当時、7つの難民キャンプに372,740人残っていた難民が順次帰国し、難民キャンプは次々に閉鎖されていった。そしてカオイダンも3月に閉鎖され、最後に残った「サイト2」も閉鎖された。

 帰還に当たって、新たな悲劇が起こった。カンボジアでは何百万個ともいわれる対人地雷が至る所に埋設されており、帰還の途中や、懐かしの故郷を前に亡くなったり、大怪我をする人々が続出したのだ。難民を助ける会では、折からユーゴスラビアの崩壊に伴う活動に着手(アジア人が欧州人を救援するという史上稀な活動)していたが、この悲劇を座視するわけには行かないとし、新たな使命として、対人地雷の廃絶に取組むことになった。

 長有紀枝(おさ・ゆきえ、現ジャパンプラットフォーム代表理事)が中心になって理論面を固め、柳瀬房子が絵本『地雷ではなく花をください』を書いて世論を喚起した。

 絵本は人気絵本作家葉祥明会員に絵を描いていただき、相馬会長が英訳した。今日まで5部56万部というベストセラーとなり、国会論議の中で「絵本が日本政府を動かした」とまで言われた。もちろん、印税のすべてが難民を助ける会に投入され、カンボジアとアフガニスタンで英国のNGOと組んで地雷の撤去をするなどにあてられた。

 折から、難民を助ける会創立以来のボランティアであり、相馬会長の愛弟子である藤田幸久が衆議院議員に当選し、小坂憲次同議員を会長に、超党派の「対人地雷全面禁止推進議員連盟」を設立した。

 NGOと政治家が組んで、日本の外交と防衛の政策を変更させたのである。

 97年、日本は「対人地雷全面禁止条約」に加盟した。長はICBL(地雷禁止国際キャンペーン)の運営委員となり、97年末にICBLがノーベル平和賞を受賞したときには式に招かれた。

 また、柳瀬は、同年夏、地雷廃絶に尽力したダイアナ妃の葬儀に招かれて参列した。ともに、日本からただ一人の民間人としてであった。

■さらなるご支援とご協力を

 2003年11月、難民を助ける会は創立25周年を迎え、世界の10数ヵ所に事務所を設け、果敢に活動を展開している。この間にあって、会を支えてくださった全国の大勢のみなさんに心から感謝し、悪条件の中で内外で頑張った若者たちに深甚なる敬意を表したい。

 長期低迷・低金利の続いてきた日本経済ではあるが、相馬会長が難民を助ける会を創設されたときに述べられた「日本人の善意を結集して」所期の目的の達成に力を合わせて行きたいものである。諸兄姉の一層のご支援・ご協力をお願いする次第である。

 なお、本稿は、難民を助ける会の創立期に重点を置いたものであり、その後の活動についてはその概略を記したにすぎなく、他の執筆者に期待したい。


(難民を助ける会特別顧問、ユーラシア21研究所理事長、元・埼玉県立大学教授)
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