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日露戦争と捕虜 R [2007年04月10日(Tue)]





 現在のロシアの国旗。日露戦争(1904〜05)が行なわれた帝政時代の国旗と同じ。





 日露戦争のときのロシア人捕虜を、日本側がどう扱ったにつき、拙著『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版)から連続して紹介している。以下はその19回目。

 ☆━━━━…‥・ ☆━━━━…‥・

●軍刀領置問題で対立

 将校捕虜の多い松山俘虜収容所における最大のトラブルは「軍刀領置問題」である。

「日本側が旅順開城規約に反して将校の象徴である帯剣を取り上げようとする」と、ロシア側が抗議し、抵抗したのだ。すなわち、同規約に「日本軍ハ露軍ノ勇敢ナル防禦ヲ名誉トスルニ依リ露国陸海軍ノ将校及所属官吏ニ帯剣及直接生活ニ必要ナル私有品ノ携帯ヲ許ス」(第7条)とある。これをロシア側は「我将校及文官ニ対シ時日及場所の制限ナク其帯剣ヲ所持スル権利ヲ認メタ」(「ロシア側が列国に提出した文書」『取扱顛末』)ものと解釈した。このため俘虜収容所入所後も将校が軍刀を保持するのは当然の権利だとして譲らなった。

 これに対し、日本の陸軍当局は「俘虜トシテ我国ニ止ルコトヲ自ラ選択シ松山其他内地ノ俘虜収容所ニ入リタル以上は海牙条約第8条ニ基キ」日本ノ法規に基づく官憲の命令に従うべきだ、とした。これは「俘虜取扱規則」第10条に「携帯セシメタル兵器ハ俘虜収容所ニ於テハ領置スヘキモノトス」とあることに拠る。同規則第29条には「領置シタルモノハ解放ノ際之ヲ本人ニ還付ス」とあることも説明した。

 さらに日本側は、普仏戦争(1870〜71)においても、「メッツ開城規約」(1870年10月27日)にも、「刀剣ノ携帯ヲ許ス」という同様の規定があったにもかかわらず、フランスの将校が捕虜として抑留された時にそれを領置した先例があるとし、また、収容所内で帯剣を許せば捕虜相互間の紛争や、「地方人民トノ関係ニ於テ其取締ノ困難ヲ来」すなど問題が多いので、一旦刀剣を預って、釈放の時に返還する「領置」の形をとったのだと説明している。

 領置 任意提出した物、遺留した物の占有を取得する強制処分。占有取得の過程において強制力を用いないので令状は不要。(『広辞苑』)
 

 松山俘虜収容所での軍刀領置は1905年2月20日に行われた。警備員の派遣を求めながらとはいえ、丸腰の吉村大尉が通訳1名を伴って、決死の思いで実施した。

 まず、捕虜代表たる最高位の将校捕虜を呼び出して軍刀領置の開始を伝えた。しかし、「前日来ノ主張ヲ反覆シ徒ニ時間ヲ遅延スルノミ」だった。そこで、同大尉はやむなく「兵力ヲ以テスルモ之ヲ領置スヘキ旨ヲ告ケ」た。

 すると捕虜将校たちは「沈思黙考ノ後暫時ノ猶予ヲ求メ」、結局、「自ラ帯剣ヲ手渡シ能ハサルモ抵抗ヲ為ササルヲ以テ監督将校自ラ之ヲ取ラレタシト申出」たため、吉村大尉らが1人ずつをまわって、刀剣を取り上げた。

 しかし、同じ日の午後、同俘虜収容所の妙清寺分所で行われた領置では、かなりのトラブルとなった。すなわち、ニコルスキー、クル−ペンニコフの両少尉は「自ラ剣ヲ執リ暴言罵詈ヲ為シナカラ之ヲ折リ他ノ俘虜等モ之ニ倣ヒ剣ヲ抛ツ者増加シ」たため松山俘虜収容所長の河野春庵大佐は警備兵を構内に入れ、両少尉を営倉入りの処分にした。

 さらに翌日午前中、妙圓寺分所でも、ネゼンツェフ大尉等3名が「帯剣ヲ破棄シ我官憲ヲ罵詈シ命令ニ反抗ヲ為シタルガ故ニ」、同様の処分となった。

 トラブルはこのあと約3週間続き、河野大佐は捕虜全員に10日間の禁足を命じて沈静化を図った。

 険悪な空気を察して駐日フランス公使等が問題解決に動いたが、本件については双方が最後まで譲らず、理解しあえるには至らぬまま、終戦となった。

 営倉 兵営内にあって、反抗を行なった者を禁固に処した施設。飲食、居住環境などの差で重営倉と軽営倉の2つの処分がある。


難民を助ける会の沿革B [2007年04月10日(Tue)]






 カンボジアの国旗にはいつの時代にも、どの政権の時でも、世界遺産となったアンコールワットが描かれている。





■名称を変え世界にはばたく

 アフリカが大干ばつに見舞われた1984年、創立5周年を迎えた「インドシナ難民を助ける会」は5年前の設立総会と同じ日、同じ場所で5周年記念総会を開き、活動と支援対象を世界各地に拡大することとなり、名称を「難民を助ける会」とした。

 記念シンポジウムには、神谷不二慶応義塾大学教授、緒方貞子上智大学教授(後の国連難民高等弁務官)と相馬会長がパネリストとして壇上に並び、私がモデレーターを務めた。

 早速、外務省や立正佼成会などとともに「アフリカに毛布をおくる会(森繁久弥会長、吹浦実行委員長)」を立ち上げ、4カ月で176万枚の毛布と12億4千万円の資金が集まり、すべての国にモニターを派遣しながら、13カ国で配布した。

 インドシナ難民の窮状はその後も続いた。わが国でも78年の先進国首脳会議(東京サミット)を前に500人の定住難民受入れ枠が決定され、同年に3人、翌年に2人の定住が認められたが、80年代になってその数は急増した。

 しかし、日本語学習、就学、就職などさまざまな分野で困難が続き、難民を助ける会ではまず、(財)東京コミュニティカレッジの協力を得て、「相談室」を設置、奨学金制度を設けるなどして教育面での支援にあたった。93年、厚生省の認可により、この機能が分離して「社会福祉法人さぽうと21」となり、同じ場所での活動が現在に至っている。

 タイは75年から91年末までの間に、673,481人のカンボジア難民を受入れた。そして、92年の初頭までに、約8万6千人が自発的にカンボジアに帰還し、今日までに約20万人がアメリカ、フランスなどを中心に第三国に受入れられ、わが国にも約1,800人が定住難民として受け入れられた。
HP立ち上げました [2007年04月10日(Tue)]









 ある超有名なグラフィックデザイナーの助言により選定された、ユーラシア21研究所のロゴマークです。



 ユーラシア21研究所では、4月1日にHPを立ち上げました。日本語での内容は今のところ以下のものだけですが、ロシア語での発信は充実しています。

 みなさまからロシアや日ロ関係について秀逸な論文や作文、レポートをご寄稿いただければ編集委員会の議を経て、随時、掲載させていただきます。

 アドレス: http://www.eri-21.or.jp


  ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

ユーラシア21研究所

<I> 「ユーラシア21研究所」設立の目的
1.ロシアとの学術交流事業
2.ロシア及び日ロ関係に関する学術研究事業
3.世界の領土問題に関する学術研究事業
4.国際情勢に関する学術研究事業
5.研究成果の発表や政策提言
6.関連研究者の育成
7.その他関連する諸事業


<II> 新研究所の役割
1.知的結集による政官学連携の促進
2.対露外交に関する活発な政策提言


<III> 事業内容
a.世界情勢の研究、とりわけ、ロシアを中心とする旧ソ連圏に関する政治・経済・安全保障等に関する総合研究
b.わが国の対露外交戦略に関する研究と提言
c.ロシア語による、日本の政治経済文化などに関する発信(HPや出版等)
d.ロシア関連若手研究者の人材育成
e.関係省庁、駐日ロシア大使館を含むロシアの諸機関との恒常的な情報交流等
f.関連する国際会議の開催、出版、研究会・講演会などの開催


<VI> 新研究所の概要
名 称: 「ユーラシア21研究所」EURASIA 21 RESEARCH INSTITUTE
所在地: 〒 105-0001東京都港区虎ノ門1−15−16 海洋船舶ビル6階
(地下鉄虎ノ門駅4番出口から神谷町方向に1分。左側)
電 話: 03-3500-1215 Fax: 03-3500-0215
開設日: 2007(平成19)年1月  E-mail: info@eri-21.jp


<V> 役  員 
(理事等は50音順)
理 事 長:吹浦忠正 常勤(前東京財団研究推進担当常務理事、元埼玉県立大学教授)
常務理事:吉岡明子 常勤(前東京財団リサーチ・アソシエイト)
理 事 : 大貫康雄 東京財団理事、前NHK欧州総局長
理 事 : 木村 汎 拓殖大学海外事情研究所教授、北海道大学名誉教授
理 事 : 西原 正 平和安保研理事長、前防衛大学校校長
理 事 : 袴田茂樹 青山学院大学国際政経学部教授、ロシア東欧学会長
理 事 : 兵藤長雄 東京経済大学教授、東京財団評議員、元外務省欧亜局長、元駐ベルギー、ポーランド大使
監 事 : 児玉泰子 北方領土返還要求運動連絡協議会事務局長、歯舞群島志発島生まれ
監 事 : 高野国夫 高野興業株式会社会長

名誉研究員、客員研究員などを計約100名の方に依頼中
難民を助ける会の沿革A [2007年04月10日(Tue)]


 

難民を助ける会創立25周年にあたり、刊行した拙著。発行は自由国民社。




■相馬/柳瀬のタグマッチ

 6月、大学関係者、国際的な活動や福祉の専門家、インドシナ諸国と縁の深い人たちなどが加わって設立準備会が発足した。数次にわたる準備貝の会合では、 (1)政治と宗教に中立を護り、政治家は役員としない、 (2)事務局長に「人」を得ること、 (3)広く国民に参加と協力を呼びかける、 といったことが決められたが、問題は、立ち上がり資金もない団体にとって、事務局をどこに置くかということであった。

 その時、苦境を救ったのが、当時、国際積善協会の柳瀬真会長であった。「事務局として私の自宅を無償で提供しよう。スタッフも当面は協会の職員に協力させよう」というものであった。理想主義的な相馬会長と現実的に物事の処理を進める柳瀬初代事務局長との名コンビうによるタグマッチが始まった。

 升本美苗、春日屋蓉子、藤田幸久(7月の参議院選挙に茨城県地方区から立候補を予定している衆議院議員2期経験者)などのみなさんと私が設立準備にあたった。

 かくして、1979年11月24日、日本青年館で設立総会が開催され、平塚益徳国立教育研究所所長が議長となって、規約の決定、役員の選出が行われた。

 会の名称は「インドシナ難民を助ける会」とし、相馬雪香を会長に、村井資長早稲田大学総長を副会長に選出し、柳瀬真が事務局長に就任した。事務局は、「東京都目黒区平町」の柳瀬の自宅に設置された。

 難民救援・支援活動を目的とする市民団体としては、わが国初の設立であった。

 その後、会の業務の推進のため理事会の下に幹事会が設置され、難民問題とのかかわりが深いということで私が代表幹事となった。

 相馬雪香会長は難民を助ける会創立後わずか10日目に、開設直後のカオイダンの難民キャンプに立った。「日本人はだれもいない。日本製の救援物資が日本車で運ばれ、外国人ボランティアの手で配られている」という現実を見せられ、難民を助ける会の活動の急速な展開を図った。

 難民を助ける会は、ただちにボランティアの募集をした。何十人という希望者に、相馬会長はじめ役員が面接し、厳選した青年男女約40人を次々にタイに派遣した。

 面接に加わった私は、率直に言って、応募者の問題意識やそれまでのボランティア活動歴の不足、そして技術も語学力もない人の多さに、いささかがっかりした。「ボクは体力では誰にも負けません」「私は難民に限りない愛情を注ぎ、意欲的に救援活動に取り組みます」という青年に、「しかし、英語ができなくてはあなたのために誰かがボランティアしなくてはいけないでしょう」「愛情も意欲もいいですが、具体的にはどうするんですか」と、いささか意地悪な応対をしたこともあった。

■「青年は未来を買いたまえ」

 事務所に戻って柳瀬真事務局長に報告すると、「キミ、青年の過去にこだわってはいかん。未来を買いたまえ。その青年が伸びる可能性が高いかどうかを識別するキミの能力が問われているんだ」と指導された。

 当時の事務局には、マス・メディアを通じて難民を助ける会の設立を知った全国の人々からの現金書留が毎日、ダンボールで配達されるという状況だった。その全部に「礼状と領収書を一週間以内に出すべし」という事務局長の厳命に、ボランティアは日曜祝日なしに、連日、深夜まで、柳瀬家に間借りした事務局に詰めかけた。

 翌年2月、バンコクで日本国際ボランティアセンター(JVC)が設立されるや、初動資金の重要性を知る者として、2千万円の資金提供と、数十名のボランティアにそのプロジェクト費や滞在費を持たせて派遣し、協力した。同様に、その後設立されたいくつかの団体にも資金的な協力を行った。

 柳瀬事務局長は、「海外に行くボランティアにも事務局の仕事をさせて、全国からの支援を体感さすべし。事務局ボランティアも海外に行くボランティアと眤懇になるべし」と指導し、交わりを勧めた。

 柳瀬真事務局長は、もともと体の弱い人ではあったが、時には、座敷に上げて自らは呑めない酒を酌み交わすということもあったし、終電車まで姿勢を正して若者と真正面から議論するということもした。

 現在、WHOの医師としてインドで活躍している遠田耕作や外交官になった大塚雅也、JR東日本で中国への新幹線の技術協力に懸命な小松博史(現・常任理事)などがそうであり、まだ40歳に間のあった私もいた。

 ところが、無理がたたってしまった。会設立後7ヶ月余りの1980年7月7日、1億7千万という、当時としては十分な活動資金を残して、自宅で突然、逝去した。"一人娘"の柳瀬房子が事務局長(現・理事長)を継いだ。

 1979年11月、難民を助ける会の創立と時を同じくしてタイ/カンボジアの国境にカオイダン難民キャンプが開設された。これより先、75年4月のポル・ポト政権の樹立後もカンボジアからタイに逃れる人々はいたが、同政権下にあっては移動の自由はなく、実行困難であったため、脱出者は極めてわずかだった。

 しかし、ベトナム軍によるカンボジア侵攻で、この年だけでも30万人と言われるカンボジア人が国境を越え難民となった。カオイダンはそれらの人々を収容する難民キャンプ第1号としてUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によって設けられたものである。

 以後、国境周辺には最大時40万人ものカンボジア難民が滞在していた。                                (つづく)

■資料リンク
NGO・海外ボランティア入門―難民を助ける会20年の軌跡から
NGO・海外ボランティア入門―難民を助ける会20年の軌跡から
難民を助ける会の沿革 [2007年04月10日(Tue)]




 相馬雪香会長近影





 明日、4月11日午後7時から、大井町の「きゅりあん」で、難民を助ける会(相馬雪香会長)の高崎紀子スーダン派遣代表の報告会がある。スーダンについては国旗のこと以外、ほとんどまったく知識ないが、我が家の近くでもあることだし、久々に私も出てみようとは思っている。

 そうした中で東洋英和女学院大学大学院の新しい院生から、創立について話を聞かせてほしいといってきたので、とりあえず、3年ほど前に同会に送ったもの(現在、同会のHPに掲載)しているものの誤字脱字を直すなど若干の補筆をして、小欄に掲載したい。

 同会には創立以前から2001年まで、役員として深く関わってきたので、これは私の務めだと思う。なお、同会の最近5年間のことは、HPでご覧いただくか、直接、問い合わせるかしていただきたい。

   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*

■平和と戦争のインドシナ

 私が初めてカンボジアを訪ねたのは1968年のことだった。シアヌーク国家元首の最盛期だった。"東洋のパリ""プチ・パリ"と呼ばれた首都プノンペンはあくまで美しく、火炎樹が咲き誇っていた。

 爾来、この町を数回、訪れる機会があった。

 70年3月、シアヌークが外国滞在中に、アメリカの支援を受けたロン・ノル将軍らによるクーデターが発生、5万といわれたベトナム人達が殺されたり、拘束されたりということが頻発していた。「メコンが赤く染まった」と言われた。他方、ポル・ポト、イエン・サリを指導者とするクメール・ルージュ(カンボジア共産党)が各地で武力蜂起し、日本人など海外からのジャーナリストが逮捕、処刑されるという事件が連発した。私の親しい友人だった中島照男くんもその一人だった。

 6月、アジア孤児福祉教育財団(現・アジア福祉教育財団)の調査団員としてプノンペンを訪れたとき、「虐殺から保護するため」ということで公共施設に隔離されたベトナム人たちに、故国への帰還を訴えられた。

 この時、南ベトナム南部のミト周辺の戦略村でYMCAの宮崎幸雄氏が懸命に国内難民の世話に当っている姿を拝見し、多くを学んだ。それ以来、今もご厚誼をいただいている。

 1973年、私は国際赤十字のインドシナ駐在代表となり、インドシナ各地で捕虜や戦争犠牲者などの世話にあたった。来越した衞藤瀋吉、神谷不二、三浦朱門、曾根綾子、司馬遼太郎、開高健など多くの著名人の懇切なるご指導いただいた。

 中でも、当時『朝日新聞』の井川一久サイゴン支局長や『読売新聞』の山田寛同特派員とは眤懇にしていただき、交友は今に及び、井川氏には難民を助ける会の理事としてご尽力いただいている。嘉悦大学教授となられた山田寛氏には、東京財団の関連プロジェクトのリーダーになっていただき、今月は難民受け入れに関するすばらしい報告書をまとめていただいた(お問い合わせは、6229−5502 東京財団研究部)。

 ところが、在留邦人が「ベトナムの軽井沢」とよんだダラトで休暇を取っている時、私は肝炎を発病した。深夜の通行は未だ心配されていた時だったが、ベトナム共和国赤十字のラ・タン・トゥルン社長は自ら運転して、200キロ離れたサイゴンの病院に運んでくれた。この人への感謝の気持ちがその後、ベトナムと一層深く関わるようになった一因であるような気がする。

■「難民に冷たい日本人」

 1975年4月、カンボジアではポル・ポト軍(クメール・ルージュ)が首都プノンペンを制圧し、ロン・ノル政権が崩壊した。次いで、月末にはベトナムでサイゴンが陥落し、長らく続いたベトナム戦争は終結した。5月9日、最初の"ボートピープル"が日本に到着したが、その時から3年間、日本は一切の難民の定住を認めず、腫物にさわるようにして、アメリカなど第三国に送還していた。

 本社に戻った山田記者は日赤の近衞忠W現副社長や私などと組んで、人道的見地から難民の受入れをと論陣を張ったが、「外国人忌避症」的単一民族論の前に事態は改善されなかった。そうこうしている内に、国際世論の動きもあって、政府はカリタス、天理教、立正佼成会に依頼して、一時滞在難民を各地の関連施設で預かることにした。私も山中湖畔のカトリック教会に、ベトナムからの一時滞在難民を訪問し、実情を伺ったりした。

 このころ、カンボジアでは、ロン・ノル政権を倒したポル・ポト政権が都市住民を農村に追いやり強制労働を課し、通貨や学校を廃止するなど、社会は大混乱に陥った。しかも、栄養不足、医療の欠如等の悪条件に加えて、知識層の反発を極度に警戒した同政権の異常な弾圧と処断によって200万とも言われる人々が命を失った。

 78年後半になるとヘン・サムリンや若きフン・セン(現首相)らを傀儡にして押し立て、ベトナムが強大な軍事力でカンボジア領内に攻め入り、79年1月、ポル・ポト勢力をタイとの国境地帯であるパイリンの周辺に駆逐した。

 大勢のカンボジア人がタイとの国境への脱出を図り、世界の目がタイ/カンボジア国境に寄せられた。映画「キリング・フィールド」の描くところであるが、当時の体験者たちはこの映画はポル・ポト時代の過酷さを十分には描かれていないという。

 数十年にわたりさまざまな国際的活動に献身してこられた相馬雪香会長に、このころ、インドシナ情勢に精通している外国の友人から次々に手紙が寄せられた。曰く、「カンボジアの難民キャンプには日本人は全く見当たらない」「救援物資の多くが日本製であり、その運搬に当っているのは日本製の自動車である」「苦境にあるこうした難民を日本が受入れないのはなぜか」「ベトナムからの"ボートピープル"は数々の危険にさらされているのに日本の船は容易には救助しない」「日本人は難民に冷たいではないか」・・・。

 そこで相馬会長は「日本人の心には古来、脈々として善意が伝わっている。今こそこれを世界に示さなくては世界の信頼を失うことになる」と発奮、同年5月、友人や知人に難民救援活動・支援のための会の創立と参加を呼びかけられた。

 当時、ことの重大さと日本でのNGO活動の難しさをいささか知る私ではあったが、新しい組織を結成しようという勇気と実力に決定的に欠けていた。

 少なくとも、その点においてだけでも、私は生涯、相馬会長に頭が上がらない。爾来28年、一貫して会長の任にある相馬雪香は95歳となり、なお、毎年数回、海外を訪問し、続く者を指導してくださっている。ワシントンのポトマック河畔にご尊父・尾崎行雄(憲政の神様)が贈られたサクラの関係の仕事で、この4月にも同地を訪れている。  (つづく)


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