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8人乗りの飛行機で [2007年04月09日(Mon)]




 石垣空港で搭乗機を背景に








 座席の前にはパイロットが

 






  わずか18分で波照間空港へ




  タクシーの運転席ではないのです。飛行機の操縦席なのです。







 人が住んでいる日本の最南端の島・波照間に行くには、羽田から石垣空港までの直行便に乗る。そこでたっぷり待たされてから、小型双発プロペラ機か12人乗りの高速船で渡るというのが通常だ。

 飛行機なら18分、船は1時間以上かかるようだ。

 私は8人の乗客が乗ることのできる小型機を選択した。

 搭乗手続きのとき、荷物を持ったままはかりの上に立たされる。それによって座席が指定され、いかに「妙齢の美女」と離れたくないといえども、そこは均衡を計算してあっさり分類されてしまう。もっとも、2Bという私の席の隣にはなかなかの「妙齢の美女」が座った。某医大の3年生。神様は意外な裁量を行なうようだ。

 最高高度は180メートル、サンゴ礁の浅瀬が青緑色に輝く。竹富島、黒島などが眼下に展開する。手に取るように見える。

 2Bは乗客の最前列、座ったまま左手でパイロットの肩を叩くことが出来る。

 距離の近さは親近感を呼ぶ。件の美女とパイロットと私、すっかり仲良しになって、降りてからは、まるで子どものように、ご覧のようなことまで経験することができた。

 だが、この路線、赤字続きで10月いっぱいで廃止になるのだとか。島内のあちこちに、延長を求める看板が立てられている。

 民宿・星空荘に旅装を解くと、さっそく、バイクを借りて日本最南端の地へと向かった。

 星空荘とはいい名前ではないか。この島はほとんど日本で唯一、南十字星が全部見える位置にある。これから6月にかけてだそうだ。
台湾を除外してはならない [2007年04月09日(Mon)]



 武見敬三厚生労働副大臣



 韓国の呼びかけにより、昨日、ソウルで、日中韓3国の保健担当閣僚会合が開かれ、鳥インフルエンザ対策で連携することで合意した。3国は対策推進のため、共同基金を創設することでも合意した。

 話し合ったのは、柳澤伯夫厚生労働大臣、中国の高強衛生部長(大臣)、韓国の柳時敏(ユ・シミン)保健福祉相。日本経済新聞の報じるところに拠れば、共同声明には「東アジアの特性に合った医薬品の開発促進のため3カ国が臨床データを共有すること、将来は自然災害やバイオテロなどの有事に際しても協力して臨むこと」などが盛り込まれた。

 NHKテレビのニュースで私が注目したのは、柳澤伯夫厚労相が「3国の協力で東アジアに各種新型ウィルス対策を講じるにあたり空白地域ができないようにしなくてはならない」と述べた点だ。日本国民の命を守るのに、台湾地域が公衆衛生上の空白地域になっては困る。そこのところが特に重要なのだ。

 大臣のこの発言はどこから見ても国際政治学者である武見敬三同副大臣の力と推測せざるをえない。

 今朝、別件でたまたま許世楷台北駐日経済文化代表処長(大使)をお訪ねしたので、「日本にもしっかりと日本の国益と公衆衛生問題の基本を理解している大臣と副大臣がいる」と申し上げた。

 同処長と私は、早稲田の大学院で同じ松本馨ゼミで学んだ先輩後輩の関係だ。このため平素から種々、ご指導をいただいているので、率直に意見交換が出来る間柄だ。

 大臣、副大臣のお二人は、7月の参院選挙を前に、後半の国会も大変であろうが、いっそうのご活躍を祈念したい。



<参考資料>
 武見敬三参議院議員の略歴: 

 昭和26年11月5日生まれ、昭和55年慶應義塾大学法学研究科政治学修士。米国ハーバード大学東アジア研究所客員研究員。平成7年東海大学平和戦略国際研究所教授となり、「人間の安全保障」の概念整理及び政策活動に従事。これまで特に医療・社会保険庁改革等社会保障と外交・安全保障の政策面で活躍。

 学会等の活動としては、健康とスポーツを中心に施策を推し進める。武見自身、学生時代体育会蹴球部の正選手として活躍。現在も国会ラグビークラブの副会長を務める。

 マスメディア関係の主な実績として「CNNデイウオッチ」「モーニングショー」等のキャスターを務める。

 現在はテレビ出演を始め、海外メディアを含む各新聞及び雑誌に評論等掲載、またその活躍を取り上げられる。参議院政策審議会副会長、厚生労働委員会理事、憲法調査会幹事、決算委員会理事を歴任○元外務政務次官、元参議院外交防衛委員長○現在厚生労働副大臣○東海大学教授(休職中)


奄美は沖縄か [2007年04月09日(Mon)]






 西郷隆盛肖像(キヨソネ画)鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵




 沖縄を地理的に見ると、北から、@沖縄本島とその周辺、A宮古島とその周辺、そしてB先島(さきしま)といわれる石垣島を中心とした南の島々に分けられる。

「おっと待った」と声がかかるのは、「奄美列島はどういうことになっているんだ」という話。こういうときには、いまどきありがたいことに、ウィキペディアがすぐ応えてくれる。

 ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆

 奄美の人々は自らの文化と沖縄文化を同一視してはおらず、南は徳之島まで、北は奄美大島・喜界島までを奄美文化圏として認識している。

 1185年の、壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家たちが奄美を平定し、平安文化と島独自の文化が融合して、島唄、諸鈍シバヤなどの独特な文化が生まれたとも言われている。1609年、薩摩藩による琉球王国への侵攻以降は、奄美諸島は琉球王国と分離され直接支配を受け、苦渋な生活を強いられた。

 薩摩藩は支配よって、奄美産の砂糖による莫大な利益を受け、また当初からの目的であった琉球王国を窓口とした中国との貿易による利益と相まって、明治維新まで藩財政を支え続けた。

☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆

 要するに、奄美は言語、文化、産業などの面では沖縄に近いものがあるが、政治的には江戸時代初期から、薩摩の支配下に入れられていたのだ。だから、西郷隆盛は僧・月昭とともに入水して蘇生した後、1859年1月、奄美の徳之島へ、ついでさらに南の沖永良部島に藩命によって「転勤」させられたりしたのであった。

 1868年の明治維新を経、奄美諸島は薩摩藩の支配する大隅国に編入され、廃藩置県により薩摩藩は鹿児島県となり、奄美諸島も同県の一部となった。

 大東亜戦争では、沖縄本島では米軍と激戦が行なわれたが、奄美では2万の将兵が駐留し、特攻機地もあったにもかかわらず、空爆が何度か行なわれた程度で終わった。

 そして戦後、ウィキペディアはさらに奄美についてこう記す。

☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 敗戦後、米民政府の統治下に置かれた。しかし、米軍が用意した降伏文書に、奄美諸島が「Northern Ryukyu(北部琉球)」と書かれていたため、奄美は鹿児島県であると主張、署名を拒否した。これを了解した米軍側が譲歩し、鹿児島県であることを確認した上での調印式となった。

 終戦から半年後の1946年(昭和21年)2月2日、正式に日本からの行政分離が連合軍総司令部から発表され、米国民政府の命令により本土出身者が公職から追放され本土に強制送還となった。

 空席となった役職には地元出身者が就任し、10月3日に臨時北部南西諸島政庁が成立した。

 1950年(昭和25年)11月25日に奄美群島民政府に改称。しかし民選で選出された知事は、日本復帰を公約に掲げた人物であったため(他の民政府も同様)、不快を感じた米国民政府は権限の縮小を決意し、1952年(昭和27年)4月1日には首班が米国民政府任命である琉球中央政府を設立し、民政府の権限を縮小して後に廃止した。

 それらの米国民政府の政治的動きや、沖縄戦で疲弊した沖縄本島への資金集中、本土との分離により換金作物や物産の販売経路の途絶などにより経済が疲弊し、飢餓の兆候さえ出てきていた奄美の住民は不満を増大させた。分離直後から始まっていた奄美群島祖国復帰運動は激しさを増し、日本復帰を願う署名が14歳以上の住民の99.8%に達し、マハトマ・ガンジーの運動を真似て集落単位又は自治体単位でハンガーストライキを行い、小中学生が血判状を提出する事態も発生した。

 1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約によって日本の主権が回復すると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美の統治を諦め、翌1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、残りの奄美諸島も1953年(昭和28年)12月25日に返還された。

 クリスマスであることから、米国政府は「日本へのプレゼント」と皮肉った。

    ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 次回は、いよいよ日本の最南端・波照間島について書く予定だ。
沖縄史の基礎 [2007年04月09日(Mon)]
  

琉球王家の紋章。左三巴紋で「ひだりごむん」。左三巴紋は琉球藩の旗印としても受け継がれ、1879年の「琉球処分」まで続いた。


   

『歌い継ぎたい日本の歌−愛唱歌とっておきの話』(海竜社)


  沖縄県にある日本の最西端・与那国島、同じく居住者がいる最南端・波照間島の話を進める上で、まずは、沖縄全体の歴史と地理をご理解いただかねばなるまい。

 さまざまな良書が出ており、かねて私もずいぶんお世話になっているが、小欄は学術論文ではないので、「きわめて安易」ではあるが、ウィキペディアに私の基礎知識を加えた程度で概略を紹介したい。

 ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

  琉球王国は、1429年に尚巴志王が南山を滅ぼし三山を統一して成立し、明治になって、琉球藩になり1879年の琉球処分まで存在した国家。当時の正式国名は琉球國。15世紀に明の冊封国となった。

 その後豊臣秀吉が明とその進路にあたる李氏朝鮮を征服しようとし、琉球に助勢を命じたが、琉球は明の冊封国であることから断られた。

 しかし、その後、1609年、江戸幕府の許可を受けた薩摩藩に侵攻されその属国となった。琉球王国は、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。最大版図は奄美諸島と沖縄諸島及び先島諸島全体に及んだ(大東諸島と尖閣諸島は含まない)。

 だが、琉球は、その後も明を滅ぼした清にも朝貢を続け、琉球王国廃止まで薩摩藩と清の両属という体制となりながらも、独自の国と文化を維持した。また、琉球が支配していた奄美諸島は、薩摩藩直轄地となり分離された。しかし、表面上は琉球の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人が派遣されていた。

 このように薩摩藩に侵攻されたが、琉球王国はとにかく約450年間続いた。

 1879(明治12)年の琉球処分で、かの『蛍の光』に4番の歌詞ができた。

「千島の奥も沖縄も八洲(やしま=日本)のうちの守りなり」というものである。このあたりのことについては、拙著『歌い継ぎたい日本の歌−愛唱歌とっておきの話』(海竜社)をご参照いただきたい。


■資料リンク
愛唱歌とっておきの話―歌い継ぎたい日本の心
愛唱歌とっておきの話―歌い継ぎたい日本の心
石原氏、3選なる [2007年04月09日(Mon)]




 統一地方選、予想外の驚くような結果はほとんどなかった。目立ったのは「政党力」の衰えと有権者のいささか安易ともいえそうな現状是認だった。




 石原慎太郎氏の3選は選挙という仕組みと今回の経過から言って当然であろう。

 自民党も民主党もきちんと独自の候補者を立てられなかったとを熟考すべきであるし、この選挙で圧勝して新任されたとはいえ、石原知事には独善に陥らないことを切望したい。

 浅野候補は「石原都政」に反対を唱えるだけで、時間の短さもあっただろうが、独自の新鮮な政策をアピールして都民を説得することまではできなかった。官僚から宮城県知事になったとはいえ、都民にとってはそれだけでは大きなブームを起すまでには共感できるものがなかったというほかあるまい。

 黒川候補は知名度がありながら、票が全く伸びなかったのはいささか予想外であった。都民はこういう専門家を忌避するのであろうか。また、黒川氏は今回、知事選に立候補するというのなら、もっと若いときから、政治や日本の進路について明快な発言をしているべきであったのではないか。

 そのほかの各知事や政令指定都市の選挙結果も現職圧勝という予想通りであった。したがって、今回の統一地方選挙の結果で、直ちに7月の参議院選挙の行方を占うにはムリがあるように思われる。

 また、全体としての論争や関心の低調さは投票率の低さにも出ているようだ。

 県議選では全国各地でわが仲間の当選が伝えられ、さらなる敬意と祝意をお伝えしたい。

 以上、とりあえずの感想。

 
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