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公開レッスン初体験 [2007年04月07日(Sat)]









  きょう(4月7日)午後、北区王子の駿台学園プライマス・メモリアル・ホールで、同学園創立80周年記念事業の1つとして行なわれた「ジゼッペ・ジャコミーニ教授によるマスタークラス声楽演奏会・公開レッスン」に、4人の受講生の一人として参加した。

 同教授は、マリオ・デル・モナコの直弟子であり、ベルカント唱法の重鎮として知られる。1940年9月7日生まれだから私とほぼ同じ歳だ。今回は新国立劇場での「蝶々夫人」にピンカートン役で出演するために来日した機会を、瀬尾秀彰同学園理事長が捉えての「公開レッスン」の開催となった。

 きょうの受講生は4人。まず、宇都宮大学大学院在学中の岡本有理さん(ソプラノ)が「トスカ」(プッチーニ)の「歌に生き恋に生き」を、大阪芸大大学院を修了し、同大学院の非常勤助手をしている八木徹雄さん(テノール)が同じく「トスカ」から「妙なる調和」、3番として、私(バリトン)が、なんと日本の歌曲である「落葉松」(野上彰作詞、小林秀雄作曲)を、そして「真打」は合唱歴20年という歯科医・山口晶行さん(テノール)。プッチーニの「トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」を歌った。

 最初の二人はいわばプロの声楽家を目指す若者、私は音楽的な「過去」も「未来」もない「老・新人」。そして山口さんは58歳とはいえ、上のBまでは楽に出せるという美声をお持ちという方。Fさえ怪しい私には信じられない声域をお持ちである。

 会場には日本を代表するソプラノ歌手松本美和子さんが多数のお弟子さんを連れて座っておられた。ほかはほとんどが音楽大学の指導者や声楽を専攻する学生や院生たちとお見受けした。

 戦後2年目の1947年にからオペラを聴いているという瀬尾先生がまた大変な音楽通でいらっしゃる。音楽関係のエッセイがすばらしい。

 そこで、昨日の朝、お電話で「せっかくいただいた機会ですが、将来ある若い人にゆずりたい」と弱音を吐いた。すると、さすがに教育者。「日本の歌をきかせてあげたい。日本にはこんな素人音楽愛好家もいるという見本を示したらいい」と励ましてくださった。こうなると引っ込みがつかない。

 とりあえず楽譜に赤ペンでローマ字の歌詞を書き込み、その場でジャコミーニ先生にお渡しした。もっと大きくコピーして大きな字で書けばよかったと思ったがそれはあとの祭り。

 終わってみれば、転調した楽譜は初めてみたというにもかかわらず、すばらしいピアノ伴奏をしてくれた亀澤奈央先生と、イタリア語の通訳を務めてくれた小泉由美子先生(ソプラノ。青山学院大学教授)の強力なご支援をいただいて、なんとか「引き立て役」程度の役割は果たせたような気がする。

 ジャコミーニ教授からご指摘いただいた点は、こんなことだったと思う。
@ Legatoの生かし方を考えよ。
A フォルテの続く部分で、強弱に不安定なところがある。
B もっと自然に歌ってほしい箇所がある。
C 最後の部分は、思いっきり悲しさ、寂しさを出してほしい。そのためには多少、言葉が不明瞭になっても、同じ歌詞が繰り返されるのだから聞き手には感情も内容も伝わる。
D 咽喉を開いて歌うともっといい音が出る。

 そんなところだったかと思う。これ以上、細かく書くと企業秘密?を公開してしまいそうなので、これまでに留めたい。

 終わってからジャコミーニ教授や瀬尾理事長を囲み、全員、池袋に移動して懇親会をした。

 なぜか、3月26日の紀尾井ホール出演とは違って、全然、疲れを感じなかった。

 すばらしい人柄に触れたからか。とてもいい気分で帰宅できた。

 あらためて瀬尾先生をはじめ、関係されたみなさまに心から感謝したい。
南端の島で北端を思う [2007年04月07日(Sat)]





 現在、日本人が居住している最東端であり、北方領土の歯舞群島や国後島が手の届くような距離に臨める納沙布岬には、「北方領土返還祈念シンボル像」が建てられ、同じく日本人が居住している最南端の波照間島で採火されて全国を経て運ばれた「祈りの火」が燃え続けている。














 最晩年の末次一郎。最後まで、「戦後」に挑戦し続けた人であった。





 このたび、なぜ私が沖縄県の波照間島まで出かけたかということを書かねばなるまい。

 最大の目的は、北方領土問題を研究するに当たり、35年前に返還された沖縄の先島(石垣島を中心とする諸島)から学ぶものはないかということであった。

 北方領土とこの「南方」領土、一見、関係がないと思われる方もいらっしゃるだろうが、まずは、この解説をご覧いただきたい。以下は、独立行政法人北方領土問題対策協会のHPをもとに私が少しアレンジしたものである。

  ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃

 北海道根室市の納沙布(ノサップ)岬にある「望郷の岬公園」内には、「四島(しま)のかけ橋」が立っています。この像は、北方領土返還祈念シンボル像であり、返還を求める国民の強い願いと祈りを結集し、北方領土が返還されるまでねばり強く返還要求運動を続ける決意を象徴するためのものです。4つのブロックは択捉、国後、色丹、歯舞の四島を表現し、それが連なって大きなかけ橋となっている。

 底辺の長さ35メートル、高さ13メートル、幅3〜5メートル、重さ171トン。

 1978(昭和53)年12月、シンボル像建設のために、財団法人北方領土返還祈念シンボル像建設協会が設立され、翌年3月には、全国で募金活動が開始された。また、全国からシンボル像のイメージデザインの一般公募が行われ、翌1980(昭和55)年9月には、像の名称について一般公募が行われた。

 応募作品について北方領土運動関係者、鋳金の日展審査員など専門家を交えた審査が行われ、春山文典さんの作品が、最優秀賞に決定した。また、シンボル像の名称については大和雪生さんの「四島のかけ橋」という案が最優秀賞に選ばれた。

 シンボル像は、翌1981(昭和56)年9月に竣工した。

 また、シンボル像の建設にあわせて、附帯施設の工事が行われ、北方領土の返還を求める国民の強い決意をこめて返還実現のその日まで燃やし続ける「祈りの火」灯火台と、北方領土返還の願いを込めて全国の都道府県から寄せられた石で北方領土へ再び帰る道を表現した「希望の道」が作られた。

「祈りの火」の採火は、日本の人が住んでいる最南端に位置する波照間(はてるま)島で行なわれた。その9年前、1972(昭和47)年5月15日に祖国復帰を実現した、沖縄のときの思いを呼び起こしてのことだった。火は古式に則って採られ、全国縦断キャラバン隊の手で根室の地まで運ばれ、1981(昭和56)年9月、納沙布岬が大嵐の中で式典が行なわれ、その中で点火された。

  爾来4半世紀を超え、根室市を中心とする関係者の努力で、返還実現のその日まで、北方領土返還の日を待ちながら灯し続けられている。

  ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆

 この「シンボル像」建設を実際に中心になって引っ張ったのは、わが師・末次一郎である。そして沖縄の祖国復帰に大きな足跡をのこした貢献者として、佐藤栄作首相(当時)や歴代の沖縄県知事をはじめとする関係者には高く評価されている。

 1960年代末当時から私は末次とはさまざまな関わりがあったが、このシンボル像建設、波照間からのキャラバン隊の派遣などについては、「番頭」さん的な役割を担った。

 波照間島まで行って全国を2コースに分かれて周ったのは、日本青年団協議会の山本信也(現在、日本青年館総務部長、協力隊を育てる会副会長ほか)、末次事務所書生の森高康行(現在、愛媛県議会議員、昨年3月まで都道府県議長会副会長、協力隊を育てる会監事)の両くんら。

 私はさまざまな手配にかかわり、当時、丸の内にあった都庁前で鈴木俊一知事(当時)らと「祈りの火」を迎えるなどした。

 火を沖縄から航空機で運ぶには、私の東京五輪組織委員会で働いた経験が役立った。ギリシャから各国を周って運ばれた小さな装置が、日本でのこの種の器具の濫觴だからだ。

 納沙布岬には全国から集まった北方領土返還要求運動のリーダーたちと地元関係者など約500人が集まった。末次を中心とする政策研究集団・新樹会の各県幹部も参集した。

 折からの台風で式典は中止かと思われたが、末次の決断は「断固決行。嵐を乗り越えてこそ北方領土の祖国復帰は実現する」。

 根室のママさんコーラスグループの北方領土の歌や「ふるさと」が今でも耳に残っている。

 私自身、波照間島を訪問したのは初めてであった。しかし、あの式典のときに波照間を思ったように、25年を超え、末次も既に鬼籍に入って6年の今回は、日本最南端の有人の島・波照間で北方領土を想起したのであった。
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