日本語が公用語の州 [2007年02月21日(Wed)]
日本語が日本国の公用語であることはどこにも書いていない。しかし、フランス共和国憲法では、国旗、国歌、国標(自由、平等、博愛)などを定めた第2条で、「フランス共和国の国語はフランス語である」としている。
さて、その日本語、これを公用語としているところが、あるのだ。 パラオ共和国のアンガウル州。詳しくはさきほどの小欄を見てほしい。面積は8Ku。人口は1990年時点で206人という小さな島だが、同州ではアンガウル語、日本語、英語を公用語としている。
日本以外で日本語を公用語としている唯一の州ということになる。
残念ながら、日本語を日常的に使用している人は0(2000年センサス)。パラオ全体でも日本語を日常的に話している人は264人(うちコロール州が242人)である。
それでも、パラオ語には、総務、予算、簿記、帳面、黒板などなど600以上の日本語の単語が外来語として入っているという。
こんな親日国、親台湾国でもあり、正式に国交を持っている。両国間の対話にはしばしば日本語が用いられるという。
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吹浦 忠正
at 15:28 |
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あえて今一度掲載します [2007年02月21日(Wed)]
パラオの国旗。「月の丸」
これは昨年春に掲載したものですが、アンガウル島のことを書きたくて、今一度、掲載させていただきます。
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ダイバーたちのメッカとされるパラオですが、第2次世界大戦の時には、最大の激戦地の1つとなりました。そして、日本軍は全滅、国際連盟の委任統治領だったパラオは国連の信託統治領としてアメリカに移管され、日本人のほとんどが本土に引き揚げました。
戦後、パラオから引き揚げた34家族が宮城県蔵王町に北原野(キタパラオ)という開拓地を開きました。そんな縁から2001年には、パラオのトミー・レメンゲサウ現大統領が北原野を訪問しています
パラオ共和国を形成する島の中に、ペリリュー、アンガウルという2つの小さな島があります。
ペリリュー島には1万強の日本軍守備隊がいました。
1944年3月に北満から移駐した第14師団(水戸)第2歩兵連隊(守備隊長中川州男大佐)の主力1万強で、物量に遙に優る米軍を相手に73日間持ちこたえ、同年11月24日、玉砕を知らせる「サクラ、サクラ」の電報を最期に組織的な抵抗を終えました。
しかし、この島で生き残ったのはわずか34人、多くは重傷や重病でうごけないまま捕虜になったのですが、中には、戦後2年余りを経た47年4月末まで、米軍に抵抗した兵士もいました。
これより先、10月19日、アンガウル島の1800人の部隊(守備隊長後藤丑男少佐)が32日間の抵抗の後、玉砕しました。
復員して渋谷に日本初の大型書店ビルを開いた船坂弘(大盛堂書店社長)は少数の部下を率いて夜陰に乗じて米軍の陣地に迫り、気付かれたところで小銃と手りゅう弾で攻撃、負傷して人事不省のまま米軍に救出された一人です。
著書『英霊の絶叫』を読んだ若い頃の私は、滂沱の涙を禁じ得ませんでした。
船坂さんに面会を求め、さらに詳細を伺ったことが、私の捕虜研究にとって大きなインセンティブになり、『捕虜の文明史』(新潮選書)以下、『聞書き 日本人捕虜』(図書出版社)、そして昨年秋の『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版)や『戦陣訓の呪縛−捕虜たちの太平洋戦争』(中央公論新社)の計4冊となりました。
船坂さんは、三島由紀夫と深い交友関係にあり、1970年、三島が切腹した時に使った名刀関孫六の提供者としても話題になったことがあります。
両島の戦闘はほんとうに激しいものでした。
攻めた側の米軍にも7千人もの死者が出ました。総司令官であるニミッツ提督は次のように書いています(『History of the Pacific War』)。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の他のいかなる上陸戦史にもなかった40%という損害比率を出さなくてはならなかった。制海権も制空権も握っていながら、死傷者1万人を出してこの島の占領を企図したこと自体、疑問であったといわねばなるいまい」。
このように、ペリリューでの戦闘については、米国にも戦略上無用の戦いとの評価さえあります。
既に事実上制海権を握り、サイパン島に上陸していた米軍にとって、ペリリュー、アンガウル両島への上陸作戦はほとんど戦略上の意味をなさないものだと私も思います。そこに日本軍がいるからという、無用かつ不要な戦さだったと軍事史家も認めています。
日本軍は島民全てを、乏しい船舶を用い、あらかじめ夜陰に乗じてパラオ島に避難させておいたので、民間人の死者ゼロという結果を導いています。
1994年9月13日、パラオ共和国は日米両国を招いて記念式典を開催。ペリリュー神社の境内にニミッツの詩碑が建立された。
パラオには日本軍部隊や日本人のすばらしさへの敬意が今でも語り継がれ、再び神社が復活し、その境内には、ニミッツ提督の次の一文が彫られている碑もあります。
Tourists from every country who visit this island should be told how courage and patriotic were Japanese soldiers who all died defending this island. (世界各地からこの島を訪れる人々は、この島の防衛にあたって玉砕した日本軍の兵士たちが、いかに勇敢でかつ愛国的であったかを聞かされるであろう)
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Posted by
吹浦 忠正
at 15:16 |
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やたがらす考 B [2007年02月21日(Wed)]
「やたがらす」に関する平野浩氏の論をさらに続けさせていただきます。
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「八咫烏/ヤタガラス」の「咫」はヘンな字ですね。「尺」に「只」という字をつけます。1尺は「寸」の約10倍でセンチに直すと約30センチです。「1咫」は、手のひらの下端から先端までの長さで4寸――約18センチ、「8咫」ですからこれを8倍すると144センチ、ほぼ1.5メートルですから、ヤタガラスはかなり大きなカラスということになります。カラスは全身が黒、イメージは闇です。何となくうさんくさいイメージです。しかし、神話の世界では光、太陽のイメージなのです。ギリシャ神話でのカラスは太陽神アポロンの使いであり、英国のワタリガラスは王家の紋章です。
神武天皇の東征の神話の話は、これとそっくりの話があるのです。それは『ブルターク英雄伝』に書かれているアレキサンダー大王にまつわるカラスの伝説なのです。アレキサンダーは紀元前4世紀にマケドニアの王子として生まれ、25歳にして世界帝国の王として君臨した人です。アレキサンダー大王も東方遠征をしているのです。紀元前334年、イッソスの戦いに勝利したアレキサンダー大王は、そのまま地中沿いに南下し、エジプトに侵入し、プトレマイオス朝を征服して自らファラオになることを決意します。ファラオは太陽神アモンの子供であることを意味します。
しかし、ファラオになるには、シバのアモンの神殿で託宣を受けなければならないのです。そこで、アレキサンダーは、リビア砂漠のオアシスにあるシバに向けて出発します。 しかし、アレキサンダーの一行は、すさまじい砂嵐に巻き込まれて、道を見失ってしまうのです。このあたりの砂嵐は有名で、1965年にアレキサンダー大王の行程をたどろうとしたドイツの探検家5人が死亡しているのです。もはやだめかと思われたとき、天空から一羽のカラスが現れて先頭を飛び始めるのです。アレキサンダーは、藁をも掴む思いでカラスの飛んでいく方向に進んでいくと、目指すシバのオアシスにたどりつき、託宣を受けて、ファラオに即位したのです。
これは、神武天皇の神話とそっくりです。天照大神とアモンはともに太陽神ですし、神武天皇とアレキサンダーはともに大王であり、ともに東方遠征をして道に迷い、カラスに救われる――本当にそっくりです。これだけではないのです。神武天皇の神話とアレキサンダーの伝説は驚くほど酷似しているのです。神武天皇が宇陀にやってきたときのことです。敵地の土でお神酒を入れる瓶を作って神々を祀れば、敵が降伏するという夢を見たというのです。神武天皇はこれにしたがい、配下に敵地の土を持ってこさせ、その土で瓶を作ってお神酒を入れて神々を祀ったところ、敵が降伏してきたというのです。
これとそっくりな話がアルメニアの伝説にあります。アレキサンダー大王は、ペルシャとの戦いの前日、神武天皇と同様の夢を見るのです。アレキサンダー大王自身が敵地に侵入し、土を持ってきて酒杯を作ったところ、ペルシャ軍に勝ったというのです。これはもちろんアレキサンダーの話が先にあって、その話がペルシャからインド、東南アジア、中国、朝鮮を経由して日本に入ってきていると考えられます。
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Posted by
吹浦 忠正
at 08:04 |
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