早稲田のラグビー [2006年07月10日(Mon)]
「私の構想と指導法で挑戦すれば日本のラグビーは世界に伍して行ける」。清宮克幸早稲田大学前ラグビー部監督。 早稲田大学政経会という会合に出席した。私にとっての入学時からの級友・堀口健治副総長がOBに働きかけて昨年結成した、学部のほぼ同時期の卒業生が主体だ。集まったのは約70人。一流企業のトップが多い。 ] 折からの早稲田(理工学部)の補助金不正使用事件や総長選挙で、堀口君は「ベルトの穴1つ分痩せたよ」。しかし、白井・堀口体制はかろうじて全教職員による選挙を経て再任された。 きょうの記念講演は、宿沢広朗(しゅくざわひろあき)ラグビー元日本代表監督のはずだった。それが、6月17日、関西で単身登山中に心筋梗塞のため急死した。享年55歳。三井住友銀行の役員(取締役専務執行委員)としても立派に仕事していた。 1972年、日本選手権で連覇を達成、「努力は運を支配する」と色紙に書いた。それが、なぜ、かくも早く、とみなが惜しんだ。「君の人生が不規則バウンドして、ノーサイドを迎えたことが悔しい」。奥正之同銀行頭取の弔辞が参列者の涙を誘ったと各紙が伝えている。 代わりにきょう演壇に立ったのは、清宮克幸(1967年7月生まれ)早稲田大学ラグビー蹴球部の前監督。現在、プロの指導者としてサントリー・ラグビーフットボール部の監督の任にある。 「ウィキベディア」によれば、「中学・高校時代、素行が悪かった清宮を見かねた担任が、ラグビーで天下とれへんか、と勧誘したのがラグビーを始めたきっかけ。3年時に高校日本代表主将を務める。 早稲田大学教育学部に入学し、2年時に日本選手権優勝、4年時は主将として全国大学選手権優勝に輝いた。卒業後は、サントリーに入社し1995年度のサントリーの日本一に大きく貢献。2001年早大ラグビー蹴球部監督に就任。サントリーの選手として登録されていたが、事実上引退。2003年13年ぶりに全国大学選手権優勝。総合スポーツクラブ「ワセダクラブ」の建設や専務理事を務める。2005年、監督就任後2度目の全国大学選手権優勝に導く。2006年、連覇達成。早大監督を引退」。 清宮監督の話の概要は以下の通り。 ☆━━━━…‥・ ☆━━━━…‥・ 日本のラグビーはなぜ、世界に勝てないのか。私はまだ勝てる可能性はあると思う。 それは、手をつけていない工夫の余地があるからだ。ラグビーは、自己責任、自己犠牲、組織的プレイなどの特徴を持つスポーツだ。日本人は確かに、個々の体力では世界に勝てない。しかし、組織力の面では、他の国がしていないような努力を本当にしたのかとなると、まだまだというほかない。 たとえば、トップリーグのなかに、ナショナルチームを別につくれないか、と私は考える。 2015年に日本で世界選手権を行ないたいと、宿沢さんとも夢を語り合っていた。 (以下、選手や監督としての経験談は省略) 1987年、学生チームである早稲田が、東芝府中に勝ったのを最後に、社会人チームは外国人の招聘や専門的なコーチやスタッフの導入を図るなど「投資」を行い、以後、学生チームを大きく引き離した。私が早稲田に監督として戻ったとき、トヨタとの日本選手権準決勝で80点の差をつけられた。以後、社会人チームが学生と選手権を争うのは無意味とまで言われた。 2002年度は後半残り10分まで勝っていたが、フィジーの選手が出て来て、たちまち3トライされ、敗北した。今年2月の2005年度選手権、またもトヨタと対戦した。しかし、私は勝利を確信していた。2ヶ月間、トヨタのチーム力を分析、1ヶ月かけて選手に対応策を徹底した。 試合当日、秩父宮ラグビー場は早稲田の奮闘ぶりに異様な雰囲気だった。残り時間15分というところまで、早稲田がリード、またフィジーの選手が出てきた。しかし、勝った。 この勝利は多くの人にさまざまな感動を与える結果となった。勝利の意義を3つ挙げたい。第1に、不可能といわれ、無意味といわれたことに挑戦し、目標を達成したことにより、「夢、希望、感動を与えよう」という「チーム・ミッション」が達成された。感動を発信することが、ラグビーに限らず、早稲田スポーツの使命である。 第2に、人々に「勇気、力、やる気」を起こさせたことだ。国内での移動も適わなかったある障害者の方から、「みなさんから勇気と力とやる気をもらって、フランスへ一人旅をした。フランス人がみなあたたかく迎えてくれた」という手紙をいただいた。 第3に、リーダーを養成することが出来たことだ。勝利は次の人材を産む。英国で生まれたスポーツ、とりわけレグビーはリーダーを育てる。早稲田にいればどこよりも「本物」に出会える。リ−ダーは「本物」に出会うことで育つ。そして早稲田のスポーツには日本全体のスポーツを引っ張ってゆかねばならない使命がある。 ラグビーの未来はこの10年にかかっている。今なら社会の中枢にラグビーに対して愛着や理解を持つ人がいる。また、日本人のメンタリティに合うスポーツとしての評価もある。しかし、普及を怠ったら、またすばらしい成果をあげなくては、10万人のラガーも消えてしまうかもしれない。 私には、宿沢さんと奥克彦さん(イラクで銃弾に倒れた外交官)という身近な先輩がいた。二人ともラグビーをこよなく愛し、ラグビーとニホン、そして世界の未来を見つめていた。奥先輩が亡くなったとき、宿沢先輩と相談して「奥・井上イラク子供基金」を発足させた。バグダッドのローカルNGOと提携して、小学校に教材を送り始めた。みなさまのご協力をお願いする。 ☆━━━━…‥・ ☆━━━━…‥・ 質問が活発に出された。私もてを挙げた。「ラグビーがオリンピック種目になる可能性は?」。 「まずない。15人制では週1回の試合しか出来ない。7人制の採用でという話もあったが、英国での総会でも過半数に至らなかった」。 別の同窓生が訊いた。「日本のラグビーはどうしたら世界に伍して行けるのか?」。 答えが堂々としていた。「私の構想と指導法でやらなくてはできない。プロの指導者は私一人だ。ほかはみなさん、本業を持ちながら片手間でやっている人ばかりで、本気で日本のラグビーの発展を考えていない。私には本気でやろうとしている仲間がおり、その連中をリードできるのは私しかいない」。 |