米原万里さん逝く [2006年05月29日(Mon)]
米原万里さんの訃報が流れている。卵巣がんで25日に、まだ56歳の若さで亡くなった。葬儀は親族で済ませたのだそうだ。喪主をつとめたのは、妹の井上ユリさん。作家・井上ひさしさんの今の奥さんだ。 子供のころ、父親・米原昶(いたる。昔の東京1区で何度か当選した元日本共産党所属衆議院議員。現職中に海水浴をしていて溺死)についてチェコスロバキアにわたり、プラハのソビエト学校で学んだ。83年ごろからロシア語の通訳者として活躍。 その後、エッセイストに転じ、95年、同時通訳の舞台裏を描いた「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」で読売文学賞(随筆・紀行賞)を受賞。その後も、「魔女の1ダース」で講談社エッセイ賞、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」で大宅壮一ノンフィクション賞、「オリガ・モリソヴナの反語法」でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞するなどした。最近は、サンデー毎日でエッセー「発明マニア」を連載中だった。 私はとても親しくしていた。もともとは1973年から続いている「日ソ専門家会議」1980年代からの同時通訳者と、それを主催した安全保障問題研究会の事務局長という関係だったが、ほかにもいろいろ思い出がある。 一番印象に残っているのは、全国抑留者補償協議会(全抑協)が1991年に東京で開いた「シベリア抑留に関する日ソ会議」の時のことだ。 私はその8ヶ月ほど前、『捕虜の文明史』(新潮選書)を上梓した。たまたまそれを読んだ全抑協の斎藤六郎会長(それまでは面識なし)が、ソ連から専門家を数名招いてシベリア抑留問題についてシンポジウムを開くので、議長をせよ、と申し出てきた。 多少ソ連のことを知っていて、捕虜問題がわかる、声の大きい奴ということでの依頼だったのだろう。 当日の通訳は、米原さん―ここでは生前そう呼んでいたように「マリさん」にしよう―ほか1名。 会議は最初、いや始まる前から騒然たる雰囲気だった。参加者のほとんどは、苦難の抑留経験者。人生をめちゃめちゃにされた人たちだ。約40年ぶりで会うソ連人に、直截な憎しみを向けていた。 私にはいろんな師匠がいるが、こういう場面では、「ハシ先生ならどうするだろう?」と考える。橋本祐子(さちこ)先生は、日本赤十字社の青少年課長として、私たち(昔の)青年にどんなに大きな影響を与えたかわからない、偉大な指導者である。皇后さまの「心の師」の一人と、もれ承っている。 「議長が黙ることよ。それもニッコリ微笑んでね」。どこかからそんな声が聞こえる思いがした。 その通りにしていたら、「早く始めろ!」という罵声が飛んできた。ようやく立って両手で騒ぎを制した。 1日半、実に充実したシンポジウムであった。ソ連側から出席したのは、東洋学研究所でこの問題に取り組んできたキリチェンコ博士をはじめ、国際法学者、ソ連赤十字の幹部などであった。日本側からは、全抑協の幹部と下斗米伸夫法政大学教授、和田春樹東京大学教授ら。 なんとか終わって斎藤会長に挨拶に行くと、「ちょっと待っててくれ」。カバンを開けて大金を数えておられた。100万円ずつ4袋に入れ分けていた。 私とマリさんが、ほとんど同時だった。 「会長、それってキリチェンコさんたちへの謝金ですか?!」 「そうだよ。どうかしたかな?」 「止めてください。そんなことをしたら日ソ交流が今後難しくなります」。 シンポジウムへの出席謝金がそんなに多額であっては、他の団体が同じようなことをする場合も、そうしなくてはならなくなるのだ(実際、その後、その危惧は当たった)。 「あんたたちはね、ソ連のことや我々の心情を一番よく知っててくれると思って協力をお願いしたんだが、見損なったようだ。われわれはこれまでの思いのたけを思いっきりぶつけることができた。お金というのはこういう風に使うものだよ」。 マリさんと私は納得できなかった。色白のマリさんが真っ赤になって食い下がった。 「最初からソ連の連中をお金で釣ったんでしょう。そうじゃないと言ったって、きっとそう思われるわよ」。 あの元気だったマリさん、その後はロシア語の通訳の仕事を大幅に減らして、エリツィン元ロシア大統領来日時などに限定した。それでも、エッセイストに転じてからも、95〜97年には推されて、ロシア語通訳協会会長でもあった。 最後に会ったのは、もう発病してからだった。「私は勝手に通訳を引退してしまったけど、若い人があんまり育ってないわね。私たちの責任かしら」。 そうですよ、マリさん。 9月には8回目の「サハリン・フォーラム」、来年の1月には25回目の「日露専門家対話(旧・日ソ専門家会議)」があるんです。天国で休んでなんかいないで、ブースに入ってよ。 挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。 |