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同志二人は県会議長 [2006年05月01日(Mon)]





 宮城県議会の伊藤康志議長が退任して、昨日の大崎市長選挙に出、初代の市長になったことを今朝、書いた。

わが同志である。ロシア語でいうなら、言うも懐かしい「タワーリシチ」。労働者・農民・知識人が「タワーリシチ・スターリン!」と叫び、迎合し、それでいながら強制収容所に送られ、惨殺された。その数は無数である。

20世紀の大きな悲劇の一つであることを忘れてはならない。

 とはいえ、伊藤くん同様、わが同志には最近県会議長をやった(やっている)人が他に二人いる。愛媛県議会議長の森高康行くんと鳥取県議会議長前田宏先輩である。

 以上3人、いずれもわが師・末次一郎門下生なのだ。

 森高くんは1980年、大学を出てすぐ、書生になった。自らいたらないことの多い私はめったに他人をどなることはないが、当時、森高くんを何度叱り、幾たび叱りつけたことか。その彼が、20代で町会議員となり、わずか1年で県会議員となった。そして昨年1月、全国最年少で県議会議長となり、全国都道府県議会議長会副会長を務め、410日でこのほど議長を降板した。記録によると、この間、「公用議長名詞4,700枚、公用車走行距離1万5千`b、公務県外出張25回、公務県内会合165回、政務県内視察15回」という活発な動きを展開した。

 多年、北方領土返還要求運動、韓国との質の高い交流、青年海外協力隊事業の推進に功績があった。この6月、私は創立以来30年間努めた、社団法人協力隊を育てる会の役員ポストを森高くんに譲ろうと思っている。

 前田さんは、故・福田赳夫元首相にもかわいがられた人である。2003年5月に議長に就任、既に3年間その任にある。

 地方自治法では、議長の任期は「議員の任期による」と定めている。しかし、鳥取県議会では一九七一年以降、正副議長は二年で交代することが慣例となっている。 このため、自民党はたびたび正副議長の改選を確認したが、前田議長が、議長を辞任しない意思を貫徹、「3年前に慣例にとらわれない方式で選出されており、その段階で任期二年の慣習もなくなった」と強調、「議長職をたらい回しにするのは悪習。派閥争いを生み、政策論争に結びつかない」と、続投の意思を曲げていない。

 自民党会派の藤井省三会長は「向こうは正論、こちらは現実論」とし、「現実的な折り合いを付けたい」と話すが、結論を得るには至っていない。

 私には成り行きを注目するほかないが、地方議会もさまざまな改革が必要な時期であることは確かだ。
歴史問題と政治問題は違う [2006年05月01日(Mon)]




  時事通信が、韓国の与党党首が竹島を訪問したと、以下のニュースを配信している。

   ☆―――・・・   ☆―――・・・

  韓国の与党・開かれたウリ党の鄭東泳議長(党首)は1日、日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)にヘリコプターで上陸し、駐留する警備隊などを視察した。2月の就任後、同議長が島を訪れたのは初めて。

   鄭議長は到着後、「独島問題は単純な領土の問題ではなく歴史問題」などとするメッセージを発表。竹島問題をめぐり日韓両国が対立する中での与党党首による同島訪問は、盧武鉉大統領の対日強硬姿勢を後押しし、日本をけん制する意図がある。5月末の統一地方選をにらみ、有権者にアピールする狙いもありそうだ。

   ☆―――・・・   ☆―――・・・

  韓国といい、中国といい、どうしてもっと冷静になれないのか。この党首が自ら「独島問題は単純な領土の問題ではなく歴史問題」というなら、なぜ、歴史問題をイコール政治問題にしてしまうのか。歴史と政治は違うのだ。韓国がすべきは、当該の島が韓国の領土であることを、歴史的、国際法的に証明することである。

  冷静に話し合おうというなら、わが東京財団の領土問題研究プロジェクト・メンバーがいつでも貴国に伺って、学術シンポジウムでも何でもしましょう。東京でそれができにくい環境なら、これまたいつでも引き受けましょう。

  韓国政府もそんなに自身がおありなら、国際司法裁判所(ICJ)で受けて立ってはどうか。

  北方領土問題を日本がICJに提訴しないのは、日露間で十分話し合いができているからだ。昨年は、私も小池百合子北方担当大臣と一緒に、国後・択捉両島を訪問したが、これまた、両国の相互理解と友好促進に役立つとはいえ、感情的に興奮しに行くという話ではない。

  繰り返すが、歴史問題と政治問題は別なのだ。歴史学者と政治学者が同じというのは、ソ連時代の科学アカデミーによる、唯物史観である。政治学を認めず、政治学はcontemporary history といっていた。

   もしかして、韓国の次期大統領候補の一人にもあげられている鄭東泳さん、あなたは、唯物史観にお立ちなのではないでしょうね。



   写真は、信玄棒道にたつ観音様。嘉永年間の建立。36体が現存する。
日露戦争と日本人捕虜 [2006年05月01日(Mon)]




   2004年9月2日、私はメドヴェージ村(サンクトペテルブルクから直線距離で南西に180キロ)に向かった。日露戦争当時、この村には村上正路歩兵大佐(歩兵第28連隊長)以下約1、800人もの日本人捕虜が収容されていた。

 成田を昼前に発ち、10時間近い飛行を経て、夕方(時差5時間)、モスクワ入りした。

21時21分発のノヴゴロド行き直行列車に乗った。若いロシア人アシスタント同行してくれた。17両編成の9号車、2人用コンパートメントは快適で、茶菓のサービスもなかなかいい。いつもはそこでゆっくりするところだが、体調を考え、早々に「スパコイノイノーチ(おやすみなさい)」と言って、床に就いた。折からの北オセチアでの小学校占拠事件を心配する若者の真摯なまなざしが、まぶたに残った。

8時間後、ノヴゴロドに到着、涼風を頬に受け、気分は爽快。早朝だというのに、赤十字のナタリア・ニコラエワ支部長が出迎えてくれた。金髪でいかにも“ロシア的風格”をそなえた中年女性だ。

ノヴゴロドは853年に建設されたロシアきっての古都。モスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ直線からサンクトペテルブルク寄りのやや西に位置する。東海道線でいうなら東京と大阪を結ぶ線上の岐阜といった距離感か。かつてはフィンランド湾とロシアの諸河川とを結ぶ交通の要衝として栄えた。

今は人口24万人、市の中央に、壮麗ともいうべき城砦(クレムリン)の赤茶けた石壁が厳然と聳え立つ。大小無数というほどの教会が市内に散在している。

 メドヴェージ(原意は、熊)村はここから車で南西へ約70`b。イリメニ湖の北端にある。途中の道は高速道路とでも言いたくなるほど広くかつ通行車両が少ない。道の途中に「サンクトペテルブルクまで236`b、モスクワまで236`b」という標識があった。

付近は農業地帯で、村はシャガ川に沿った低い丘陵地帯にある。

日露戦争でこの村の収容所にいた日本人捕虜たちは、ノヴゴロドまで天長節(11月3日)や亡くなった捕虜の葬儀のための買い物などに出かけている。おそらくは徒歩か荷馬車(冬は橇)で村から西へ約16`bほどのウートルゴシ駅まで行き、そこからローカル線の鉄道を利用して行き来したのであろう。今は廃線となり、駅も鉄路も撤去されている。
                
村上正路歩兵大佐、東郷辰二郎歩兵少佐、櫻井久我治歩兵大尉、栗田宗次歩兵中尉、桧垣正和(まさとも)歩兵少尉、石橋勘治歩兵伍長、木部治三郎歩兵上等兵、鈴木弥助歩兵一等卒、矢野亮一法学士、伊藤久吉郎写真班員…日露戦争で、やむなくロシア軍に捕われの身となり、遠く、メドヴェージ村(セロ)に送られ、ユーラシア大陸を一周して帰還した陸軍の将校・下士卒、そして軍属である。

ほかにも海軍からは運用船佐渡丸に乗船していてロシアの軍艦に交渉に向かったまま捕虜となった小椋(おぐら)元吉、同じく海軍御用船金州丸に乗っていた溝口武五郎の両少佐などもいる。2人は軍用船を監督中、哨海中の敵艦と遭遇し、ロシアの軍艦に赴いている間に本船が攻撃され、敵手に陥ちた。これらの人々は日本人捕虜のキーパーソンともいうべき人々である。

このときの日本人捕虜が受けた待遇は、第2次世界大戦後のシベリア抑留とは比較にならない、国際法に準拠した処遇を受けた。

1905年9月5日、米国のポーツマスで日露講和条約が調印された。その第13条により日本側が受け取った捕虜は陸海軍の軍人、軍属、野戦鉄道員、船員、その他を含めちょうど2,000名だった

この内、1,777名はメドヴェージ村のロシア第199連隊本部構内に収容された人たちで、12月15日、露独国境の駅で日本側に引き渡された。
  
他の223名は、そのほとんどが遠くへの移送が難しい戦傷病捕虜であった。これらの捕虜はロシア側の手厚い医療を受けながら哈爾浜(ハルビン)など満州で捕虜生活を送り、同年末から翌年3月にかけて順次、帰国の途についた。

日露戦争で捕虜になった日本人は合計2、088名に達していた。これには開戦直後に捕らわれて釈放された衛生部員、船員、商人など民間人(非戦闘員)、メドヴェージ村の収容所や満州で亡くなった者を含んでいる。

ほかにも、旅順開城で奪還された95名(うち将校2名)と奉天大会戦で帰還した2名などがいる。さらに、幾たびかの会戦直後、未だ捕虜として登録されないうちに日本軍に奪還された数を含めばおそらくあと1,2割は増えるのでないかとみられる。鈴得巌歩兵中尉のように、万策尽きて自決を図るも奇跡的に一命を取り留め、ロシア軍に救護されて帰還させられたという例もある。

 日露戦争では、サハリンで130人のロシア人捕虜が殺害されたこと意外には、相互に捕虜を概ねきちんと処遇した。この処遇が、以後の少なくとも10年、日露が鉾を交えることがなかったのみならず、日露の150年の歴史の中で、ほとんど唯一の最良の関係であった。詳細は、拙著『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版)に拠られたい。

日露関係は、今なお、北方領土問題という「のどに刺さったトゲ」を抱えたまま、正常な国家関係ではない。あの時代の雰囲気が再来する日を望む。



    挿画は、捕虜となった中村仲次郎歩兵卒の「地獄のおとづ連」より。コサック騎兵により日本人捕虜が馬車で輸送されてゆくところ。
石田画伯のご案内で [2006年05月01日(Mon)]





 挿画でお世話になっている石田良介画伯のご案内で、八ヶ岳山麓をいろいろ回った。石田画伯は4年越しの剪画を完成したところで、忙中閑あり、多少ほっとした気分でご案内くださったのかもしれない。

 ことのほかあたたかく気温は22度C。ソメイヨシノが終わり、山桜、紅白の梅、チューリップ、水仙、ムスカリ、シバザクラが満開、八重桜が咲き始めである。

 テレビで弘前が開花宣言といっていたので、八ヶ岳山麓の海抜1,000〜1,100メートルは、わが故郷の秋田と同じくらいの気温ではないか。

 谷戸城跡もご案内いただいた。新羅三郎義光の孫・黒源太清水の居城であったというから平安末期から鎌倉初期にかけての山城だったということか。小山のようなところだが、容易には攻め込まれないよう、土盛りや坂を工夫しているところが面白い。松や桜の老木があり、何となく『荒城の月』の歌詞(土井晩翠作詞)が出てきそうな風景だ。

城跡いっぱいに桜が植わっているが、きょうはちょうど「花境期」で、1週間前の一重のソメイヨシノか4、5日後に満開になる何種類かの八重桜が最高だろう。

 石田画伯はNPO法人日本剪画協会を率いて、来たる6月13日からは東京の大崎駅前で、また、来年2月にはニューヨークの国連本部で展覧会を開く。

ご厚意でいつも掲載させていただいているのは水彩画がほとんど。剪画は、あまりに盗作が多く、残念ながら、めったにご紹介させていただけない。本物の剪画を、来月、大崎にお越しになってご覧いただきたい。



  挿画「実相寺の桜」は、石田良介画伯作。特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。
同性愛も結構だが [2006年05月01日(Mon)]





以下は、読売新聞(4月29日付)の報ずるところである。

  ☆―――・・・  ☆―――・・・

 昨年1年間にエイズウイルス(HIV)に感染した人と、エイズを発症した人の国内での報告数は、過去最高の1199人で、2年連続1000人を突破したことが、厚生労働省エイズ動向委員会の調査でわかった。

 先月末までの感染者数と患者数の累計は1万1326人になった。

 同委員会によると、昨年、日本人の新たな感染者・患者の合計は1043人で、男性が1000人と大半を占めた。99年以降、日本人の男性間の性的接触による感染が急増しているが、昨年も日本人の643人が男性間の感染だった。

 委員長の岩本愛吉・東大医科学研究所付属病院長は「特に10代後半から30歳代にかけての若い男性の性感染が増えており、学校現場などでの教育や啓発が大事だ」と話している。

 ☆―――・・・  ☆―――・・・

  他方、産経新聞(4月29日付)では同性愛で悩む22歳の女性からの相談に、大阪産業大学の中川晶教授が「こっそり同性愛者であってもいいんじゃないかな。え?そしたら将来結婚してバレたらヤバイってですか? それも含めてあなたなんだから、そんな過去にこだわるアホな男なら結婚してはいけません」と回答している。
 前後を何度読み返しても、私には賛同できない。
 
 私も大学に在勤していたので、この種の「少数派」を見たことがないわけではない。むしろ、あれこれと思い出せる程度にはいた。それはそれで、「どうぞ、自由にお楽しみください」という程度の理解はあるつもりだ。

 しかし、それが感染症のもとになったり、他人をだまして裏切るようなことには繋がらないようにしてもらいたい。紙上相談員になる人はそのくらいの責任を持ってもらいたいし、新聞社もまた、しっかりしてもらいたい。
友人の当選 [2006年05月01日(Mon)]




  友人というか同志というか、伊藤康志(やすし)くんが、宮城県大崎市長に当選した。古川市、鳴子町、岩出山町など1市6町の合併で初の市長選をかろうじて制した。結果は以下の通り。

  当選 伊藤 康志  39,546票
  次点 本間俊太郎  37,139票
      渋谷 貞雄   2,941票

   伊藤くんは、県議会議長を辞任しての選挙、「政治は決断」を地でゆく英断だった。

  大接戦だった本間さんは元知事で、在任中トラブルを起こしたとはいえ、知名度抜群。私は「立太子礼」の宮中晩餐会のおり、正面どおしとなり、親しくお話したことがある程度にしか知らない。なんでもそれ以前の町長時代「バッハホール」という日本有数の音楽ホールを建築し、一度に全国的に名を知られた知事でもあった。

   宮城県といえば、昨年11月末、私は「北方領土返還要求宮城県民会議」の招聘により、仙台に講演に行った。そのときの同会議の議長も伊藤くん。ところが、来賓として挨拶した、村井嘉浩知事には参った。

「本日の講師には、10年前、私は怒鳴られたことがあります」
というのだ。怒鳴ったかどうかは覚えていないが、
「永田町の事務所にお尋ねしたとき、松下政経塾で何を勉強しているのか、と聞かれ正直に答えたところ、そんなのは古いぞ、とやられたのです。おかげでテーマを換え、先般の知事選挙でとうせんしたのです」。

   なにやら風が吹けば桶屋が儲かるような話だが、私はこの知事をすっかり気に入ってしまった。1960年8月20日生まれというから、今がようやく45歳。

  防衛大学校、陸上自衛隊幹部候補生学校を卒業し、陸上自衛隊東北方面航空隊(ヘリコプターパイロット)に勤務したという、知事としては変り種。1999年、宮城県議会議員に初当選、私の講演の1週間前に知事に就任したばかりである。

   伊藤大崎市長、村井宮城県知事で、東北の中心に大きなパワーが生まれそうだ。期待している。
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子供の日には思い出す [2006年05月01日(Mon)]



  風薫る5月、といえば思い出すのがこの歌『背くらべ』(作詞・海野厚、作曲・中山晋平)。1925(対象14)年の索だ。小学校5年生のとき学校で教わったその日から、私はこの歌詞は変だと感じてきた。

 たった2年間余で、いくら子供とはいえ、こんなにも身長が伸びるはずはないというのが私の言い分だ。

柱(はしら)のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
計(はか)ってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
やっと羽織(はおり)の 紐(ひも)のたけ

柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背伸(せのび) していても
雪の帽子(ぼうし)を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山

 平成15(2007)年学校保健統計によれば、小中学生の平均身長の変化は以下の通り。11~3歳の男子で14.8センチオ伸びるのが、2年間での最も大きな変化だ。

年齢  男子       女子
15歳 168.6cm      157.2cm
14歳 165.4cm      156.7cm
13歳 160.0cm      155.1cm
12歳 152.6cm      152.1cm
11歳 145.2cm      147.1cm
10歳 139.0cm      140.2cm
9 歳 133.7cm      133.5cm
8 歳 128.2cm      127.4cm
7 歳 122.5cm      121.6cm
6 歳 116.7cm      115.8cm

 2番の歌詞も少々おかしくないか。

雪の帽子(ぼうし)を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山

 あったりまえではないか。

 でも、私の感性はそんな程度だから、到底、詩心がわからないんだろうな、と慨嘆するきょうこのごろの私でもある。
続 『戦陣訓の呪縛』 [2006年05月01日(Mon)]


   山本冨雄さんという、親しい先輩がいた。この方については、4月22日に書いたので、概況のみ採録する。

山本さんは敬虔なクリスチャンであられ、東芝の幹部をなさり、引退後もさまざまな社会活動に奉仕されていた。

  私とは、社団法人協力隊を育てる会を通じての知り合いであるが、初めてお目にかかったのは、もう20年近く前のことである。残念なことに昨年8月、山本さんは神に召された。

 実は私はアメリカで捕虜生活をしていたんですよ」。
  あるとき、そんな話になり、捕虜問題に関心の深い私とは、以後、何度もその話になった。

  3年ほど前、山本さんの紹介でリック・ストラウスさんとお目にかかった。1980年代に米国の那覇総領事だったという外交官である。ユダヤ人であるため、一家でドイツを離れ、少年期を日本で過ごし、戦前、米国に渡った人だ。

  ストラウスさんとも「捕虜談義」に花が咲き、とうとう我が家に泊まって、私が所蔵しているさまざまな本や資料を渉猟する仕儀となった。

かくして、一昨年秋、ストラウスさんは『The Anguish of Surrender: Japanese POWs of the World War U』を米国で上梓した。直訳すれば『第2次世界大戦における日本人捕虜降伏の苦悩』。

  山本さんは、こえれを何とか翻訳して出版するように、とわをプッシュする。

仕方ないので、東洋英和女学院大学大学院でご縁のある岡崎淳也、吉澤聖代両さんと埼玉県立大学時代の教え子である安藤昌子さんに「助っ人」を頼んだ。さらに、同大学院の院生(当時)であり、3人より年長の、翻訳家・朝倉恵里子さんにチームリーダーをお願いした。

 吹浦忠正監訳『戦陣訓の呪縛−捕虜たちの太平洋戦争』が、昨年11月、中央公論新社から刊行された。山本さんはそのわずか2,3ヶ月前に、昇天されたのだった。

 自画自賛めいているが、日米関係、局限での人間、戦争と平和を考える人には必読の書と思う。

読売新聞、日本経済新聞の書評欄で大きく取り上げてくれ、朝日新聞では夕刊の「窓」欄で紹介してくれた。産経新聞、週刊新潮などなど、さまざまなところにも記事が出た。

 以下に、『戦陣訓の呪縛』の山本さんに関する部分を転載して、追悼したい。
 
山本冨雄
東京帝国大学を卒業した山本冨雄は、キリスト教徒でありグアム戦の通信将校でもあった。この2つの属性は、彼のなかに大変な葛藤を生んだ。

リベラルな教育を受けてきた山本の目には、軍国主義に突き進む日本の姿は不穏なものに映った。山本は、部下に対する将校としての責務と、家族に対するキリスト教徒としての責務を果たさなければならないという板ばさみに陥った。

山本は1942年2月に召集され陸軍所属となり、満州につづきグアムでの勤務を命じられた。

44年7月、彼の部隊は米軍の攻撃にさらされた。

3日間にわたる戦闘の末、司令官が玉砕を決断した。書類は全て焼却され、傘下の各部隊は必要な準備をするよう命じられた。

そ して東京に「決戦」の実施計画を伝達した。「決戦」とは、全てを失うのは明らかだが、なお希望が残っているという印象を残す場合によく用いられた表現である。いずれにせよ、決戦で負ければ全員死ぬ覚悟であるとも伝えた。

返ってきた言葉はまったく予想外であった。総攻撃が失敗したら「敵の戦闘能力をそぐことで」できる限り持久戦に持ち込めというのだ。

東京の軍指導部も分かっていたはずだが、現地の将校たちは下位部隊の配置を把握しておらず命令の実行は不可能だった。

実際にはその後3日間にわたり、数多くの兵士が玉砕に散った。「名誉ある道」であった。

軍事的な意味はないに等しくとも、捕虜にならないという道義的義務が果たされたのである。

司令官は自決にあたり東京に最後の通信文を送った。「日本国民が『名誉ある死』の知らせに落胆することがないよう希望する」そして「我々の魂は未来永劫この島を守り、大日本帝国の平安を祈る」と。

しかし全員がこの自決行為に参加したわけではない。現実的には最終判断はそれぞれの部隊長に任されざるをえなかったからである。

残った将兵は島の南北に散って、ジャングルに逃げ込み、かさばる武器を捨てていった。わずかに残っていた力も次第に尽きてきた。

深手を負った敗残兵らに自決のための手榴弾が手渡されているのを山本は目撃した。弱りきって自分で手が下せない兵士は戦友により銃殺された。

44年8月、グアムにおける組織的抵抗は全て終了した。

それからというもの、山本は身を潜め、追跡を恐れて逃げ回るという日々を送った。最後まで残っていた仲間が死んでしまうと、山本は完全に1人きりになった。

生きるためにコブラやミミズ、ナメクジ、カタツムリ、トカゲを乾燥させてて食べた。自生の果物がとれることもあった。常に寄り添う友は「極限の空腹」だけであった。喉の渇きは木の穴や地面のくぼみに溜まった水で癒した。至るところをヒルに喰われた。

栄養失調のあまり山本はついに意識を失った。

米軍パイロットが山本を発見し、捕えた。

ジャングルに潜伏してから1年近くが経っていた。その半分以上を1人きりで過ごしてきた。髪は抜け落ち、視力は減退し、腹は膨れ上がり、あばら骨は突き出ていた。化膿した傷が4つ、マラリアの症状もあった。

山本は自分自身を「幽霊のようだった」と語る。33キロにも満たない山本の写真は、「生きた骸骨」との見出しで米雑誌「ライフ」に掲載された。

山本は成り行きに身を任せることにした。ぴくりとも動かなくなった肉体に生を引き止めたのは精神力のみだった。米軍病院スタッフの手厚い治療と食事により、山本は健康を取り戻した。

 




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