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「春のうらら…」は盗作か? [2006年04月07日(Fri)]




●「本歌取り」は古来、交響の創作技法

ところで、最近の若い人たちの中には「本(ほん)歌取(かど)り」という言葉を知らない人も多いようなので少し解説したい。

「本歌取り」は和歌、連歌などを作る際に、既に作られたすぐれた和歌や詩の語句、発想、趣向などを意識的に取り入れる創作・表現の技巧であり、古くは紀貫之(?〜945)の

   三輪山をしかも隠すか春霞人に知られぬ花や咲くらむ(『古今和歌集』)

が、ぬかたのおおきみ額田王(万葉前期の歌人、生没年未詳)の歌とされる

   三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなもかくさふべきや(『万葉集』)

を「本歌取り」している例がある。とりわけ、『新古今集』の時代に『万葉集』や『古今和歌集』などから「本歌取り」をし、本歌の詩情と調和させながら象徴美と余情を重ずるといったことが盛んに行われた。「古歌の語句や歌の趣旨を取りいれ、古歌のイメージと交響させ創作する表現手法」という人もいる。

  たとえば、源実朝(さねとも)の

春やあらぬ 月は見し夜の空ながら なれし昔のかげぞ恋しき(『金槐(きんかい)和歌集』)

や、藤原定家(1162〜1241)の

   梅の花匂ひをうつす袖の上に軒洩る月のかげぞあらそふ(『新古今和歌集』)

は、『古今和歌集』にある在原(ありはらの)業平(なりひら)(825〜880)の

月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして(『古今集』)

から「本歌取り」をして、鎌倉初期の教養人から高い評価を得たものとされている。

  平安末期の藤原清輔(1104〜77)ののように、本歌取りを「盗古歌」として戒める考えの人もいた(『奥儀抄』)。

  他方、続く時代を代表する藤原としなり俊成(1114〜1204)は『古来風体抄』で意識的な修辞技法として「本歌取り」を薦め、息子の定家は『毎月抄』で、この技法を十分認めた上、本歌がはっきり判るようにすべきであり、しかも「本歌の詞をあまりおほくとる事はあるまじき事にて候」としている。

  また、『八雲御抄』では「一には詞をとりて心をかへ、一には心ながらとりて問題のを変」える作歌法で、「詞をとりて風情を変へたるはよし、風情をとることはもっとも見苦し」とし、本歌を取ることに夢中になって「わが心も詞もなき」は「返す返す此道の魔なり。最もこのむべからず」としている。定家自身のこの歌が「本歌取り」のお手本なのだといいたいのかもしれない。


●深い教養と感性があってこそ  
 
 今日ではもちろん「本歌取り」は「盗作」や「剽窃(ひょうせつ)」とは違うとされている。このごろの若い人がいう「パクリ(丸写し)」とは全然違う。長年伝わり評価されてきた古歌を信頼し、尊重しつつ、その歌を連想させ、それとのハーモニーを生かして新しく詠んだ歌の屈折した余情がいいのだ。

 あえていうなら、「翻案」「アレンジ」「リミックス」だろうか。深い教養、新鮮な創作力そして洗練された芸術感覚が兼ね備わっていなくては、単なる「真似」や「焼き直し」に堕してしまう。そしてその歌を味わう人もまた、同じような教養と感度がなくては意味がないわけである。

 もう一つ例を挙げると、『百人一首』の「ながからん」の歌で有名なしょくし式子内親王(1151?〜1201)が切なくはかない恋心を詠んだ

  しるべせよ 跡なき浪に 漕ぐ舟の 行方も知らぬ 八重の潮風 (『新古今集』)

は、藤原かつおむ勝臣の
                            
   白浪の 跡なき方に 行く舟も 風ぞたよりの しるべなりける (『古今集』)

から「本歌取り」したものだ。ほかにも、
   みよし野の山の秋風さよ更けて故郷寒く衣打つなり     (参議雅経)
   みよし野の山の白雪つもるらし古里寒くなりまさるなり   (坂上是則)

   きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかもねん(後京極摂政太政大臣)
   あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねん(柿本人麿)
 
のように『百人一首』(上記2首では上の歌)には「本歌取り」と思われる和歌がいろいろあるが、これ以上この技法を追求していては肝腎の『花』から話題がずれてしまいそうなので、話を戻したい。

  なお、九州大学の竹田正幸助教授(計算機科学)と純真女子短大の福田智子非常勤講師(平安文学)が、コンピューターを活用して類似した歌を比較・分析し、デジタル国文学の新展開を図っている。こうした新しい研究手法で、「本歌取り」の深奥が極められることを期待する。


●ご令息もご存知なかった

  かくして、今一度『花』の歌詞を読み直してみると、定家からも賞賛されるに違いないすばらしい歌詞であることが愚鈍なる私にもよく解った。時、場所、花を替え、なお基盤に『源氏物語』を置いているあたり、見事というほかない。

 しかし、今回、唱歌・童謡など「日本の歌」に関するさまざまな研究書を調べてみたが、『花』が『源氏物語』に由来することに触れたものはなかった。そこで、作詞した武島羽衣(1872〜1967)のご次男・達夫千葉大学名誉教授に伺った。長年、同大学理学部で研究と指導に当たられた、化学を専門とする理学博士でいらっしゃる方だ。突然の私からの話に、80代半ばの先生はやや驚いたご様子だった。あらためて失礼をお詫びしたい。

「えっ、するとま、簡単に言えばうちの親父は『源氏物語』から盗んだということになるんですか?」
「いえいえ、そういうわけではありません。短歌や俳句の世界ではよく行われる技法でして、本歌取りと申します。古歌を連想させつつ、あらたな情感を歌い上げて共鳴させる手法とでもいうのでしょうか、さすがご尊父という感じがします。現に、田辺聖子先生も、“『花』と『源氏物語』が美しいハーモニーを奏でているところも、われわれ日本人を誇らしく、力づけてくれます”と激賞され、ご自分の最も好きな歌と言っておられるんですから」
「いやぁ、親父も何にも言わなかったし、初めて聞く内容ですね。私は専門がまったく違うんでよくわかりませんが、そういうことなんですか・・・」。

  読売新聞文化部の『唱歌・童謡ものがたり』は、「羽衣はあっさりしたものだ。古典派、美文の詩人として、廉太郎に劣らず、活発に、創作を続けていたにもかかわらず、自作についてはほとんど発言していない」とし、武島達夫の「父は、日本橋の木綿問屋の息子。腹に何もなくて、金や名誉がきらいで、終わった仕事にはあれこれ言わない。だから『花』のことも我関せずでした」との言葉を伝えている。


●「さすが田辺聖子さん」

  もうひとかた一方にも訊いてみた。「ミスター隅田川」と言われるくらい、墨田区と隅田川の流域の文化振興に尽くしておられる石井貞光さんだ。

『花』に惚れ、隅田川のすばらしさに魅入られて40余年、浄化運動、流域の地元史の研究、関連の出版物の刊行などに尽くしたが、何と言ってもこの人を有名にしたのは、「国技館すみだ第九を歌う会」の主宰者として、毎年1回、全国40都道府県の歌手からサラリーマン、学生、芸者、医者、学者…あらゆる愛好家5千人を集めてベートーベンの第九交響曲を一緒に歌う。そして、最後がすごい。観客も全員総立ちで、『花』。

「知らなかったな。『源氏物語』ですって? 胡蝶の巻ねぇ。う〜ん、さすが田辺聖子さん」。
 
  どうやら、『花』と『源氏物語』の関係は大方の人が気付いていなかったと言ってよさそうだ。

『花』は組歌『四季』の第一曲、女声2部合唱曲(ピアノ伴奏付)として1900(明治33)年に発表された。田辺も指摘しているように、日本最初の芸術歌曲と呼ばれたものである。

組歌『四季』は、ほかにソプラノ独唱による『納涼』(東くめ作詞)、無伴奏混声合唱曲『月』(瀧廉太郎作詞)、ピアノ(またはオルガン)の伴奏による混声合唱曲『雪』(中村秋香作詞)から構成されており、今でも各地で合唱団が定期演奏会などで歌っている。

1901(明治34)年4月、瀧廉太郎の留学を前に、東京音楽学校奏楽堂で送別音楽会が開かれた。今では死語になった「洋行」。既に、女子では幸田(こうだ)延・幸姉妹(露伴の妹)がいたとはいえ、男子の音楽留学生第1号である。盛大な演奏会だった。自身は、柴田環(たまき)(後の国際的プリマドンナ三浦環)と『トルコ行進曲』(ベートーベン)を連弾し、自作の『花』の二重唱で送られた。

  それにしても『花』は武島羽衣28歳、瀧廉太郎21歳の時の作品。ああ、昔の人は偉かったと長嘆息するほかない。



挿画「石田邸の桜」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無
断転載。
田辺聖子さんが教えてくれた [2006年04月07日(Fri)]



  日本人はほんとうに桜が好きだ。10日あまり前、上海と南京に行った。ちょうど桜が満開だったが、誰も話題にもしないし、わざわざ見にも行かない。とここまで書いたら、福島から県議のYさんが訪ねてきた。最初の挨拶が「この週末、満開なんですよ」。主語はいらない。
「朝日新聞」が「日本人と桜」について、夕刊の「新・人脈記」で連載している。これを読むと、うかつに花見で酔うわけには行かないくらい、多くの先人が、桜に尽くしてきているということがわかる。感謝したい。

埼玉県立大学で教鞭をとっていたころ、この季節、高速道路で隅田川の脇を通るのが楽しみだった。花見をしながら運転していたものだ。時には、長命寺で、かの二枚の葉を組み合わせた桜餅を買って行ったりして・・・。

歌は、もちろん「花」(武島羽衣作詞、瀧廉太郎作曲)である。

 一、春のうららの隅田川
    のぼりくだりの船人が
    櫂(かい)のしずくも花と散る
    眺めを何に喩(たと)うべき

二、見ずやあけぼの露浴びて
     われにもの言う桜木を
     見ずや夕ぐれ手をのべて
     われさし招く青柳(あおやぎ)を

三、錦織りなす長堤(ちょうてい)に
     暮るればのぼる朧(おぼろ)月(づき)
     げに一刻も千金の
     眺めを何に喩うべき


● 田辺聖子さんからのご教示

3年ほど前、拙著『歌い継ぎたい日本の心―愛唱歌とっておきの話』(海竜社)の執筆中に、作家の田辺聖子(せいこ)(1928〜)さんから貴重なご教示をいただいた。
この歌詞の一番が『源氏物語』からの「本(ほん)歌取(かど)り」であるということだ。『文藝春秋』(2002年9月特別号)での永六輔(1933〜)との対談によれば、長年介護に努めたご主人・川野純夫(通称・カモカのおっちゃん)を1月に亡くされたばかりの時に、ご指導をいただいたことになる。感謝に耐えない。

 田辺さんはご自身の「歌い継ぎたい日本の愛唱歌」の筆頭に『花』を挙げられた上でのことである。まずは、田辺さんからいただいたお手紙の全文を紹介しよう。

   「花」は日本の誇る天才の一人、瀧廉太郎が明治三十三年に作曲したものですが、日本の歌曲第一号であり、誠に美しい曲で、世界に発表して誇るにたるもの。子どものうちから歌わせ、日本人ならすぐハーモニーよろしく合唱できるようにしたいものです。
なお、作詞の武島羽衣さんが、一番の歌詞を『源氏物語』から採っているのをご存知でしょうか。『源氏物語』の【胡蝶】の巻、六条院の宴のところ、女官の一人が歌います。歌は横書きでは書けませんので下に書きます。(ちなみに、私は日本語の横書き反対派の一人です)。
 「花」と『源氏物語』が美しいハーモニーを奏でているところも、われわれ日本人を誇らしく、力づけてくれます。

   春の日のうららにさしてゆく舟は 棹(さお)のしづくも花ぞ散りける  
                            
  田辺さんの『新源氏物語』(3巻。新潮文庫)を私は以前、読んだことがある。タイの難民キャンプに向かう機上でだったので、よく憶えている。タイムスリップしたような気分だった。しかし、これまた古典文学の素養に乏しく、加えて感度の悪い私は、その「中巻・春の夜の夢に胡蝶は舞う」の章に、この歌が取り上げられていたことにまったく気づいていなかった。六条院の宴での出来事が見事に描かれているところだ。

 そこで、今回あらためて、日本古典文学大系15『源氏物語』(山岸徳平校注。岩波書店)にあたってみた。


●2、3番にも源氏の連想が

「三月の二十日あまりの頃ほひ、春の御前の有様、つねより殊につくしてにほふ花の色・鳥の声、ほかのさとには「まだ古りぬにや」と珍しう、見え聞ゆ」と原典は書き出している。
田辺の『新源氏物語』ではこれが、「三月の二十日すぎ―もう春もたけようという頃なのに、ここ六条院の春の御殿の庭は、いまなお、盛りの美しさだ。ほかの御殿の人々は、庭の木立や、池の中島や花園の匂やかさなど、遠くからかいま見てあこがれていた」となる。

  高校の国語乙・古文を履修しただけの私には、遺憾ながらこのあと、原典に細かくあたるうえでの十分な古典読解力と根気がない。そこで、原典も参考にしながら『新源氏物語』で、この短歌の詠まれた情景を見てみよう。

  源氏36歳、秋好中宮27歳のこと。源氏はちょうどお里帰りをしている中宮に春景色をお目にかけてお慰めしたいと、中宮方や紫上(28歳)方の女房たちを集め、唐風に舟を飾り立て、舵取りの童も、掉さす童も髪はみな、みずらに結わせ、唐風の装束をさせた。

「こなたかなた、霞みあひたる梢ども、錦をひきわたせるに、お前のかたは、はるばると見やられて、色をましたる柳、枝を垂れたる、花もえも言はぬ匂ひを散らしたり。ほかには盛りを過ぎたる桜も、今さかりにほほゑみ・・・」。

  まさに『花』の2番以下を連想させるではないか。『新源氏物語』でさらに、この情景を紹介すると、

  あちこちの梢は霞に煙っている。ここからは春の御殿の庭がはるばると見わたせた。青々と緑の糸を垂れた柳、紅い霞のような花々。よそでは散った桜も、ここでは今が盛りだった。

『新源氏物語』では女房たちがあまりの美しい光景に「時を忘れますわね、こんな所にいますと」「はら、不老不死の仙境という蓬莱山(ほうらいさん)とやらは、こんな景色ではないでしょうか」などと会話している。「眺めを何にたとうべし」を連想していいのではないか。

  この後、評判の玉蔓(たまかずら)(22歳)が、にわかに貴人たちからけそうぶみ懸想文を寄せられる。そんな章「胡蝶(こてう)」の始めの部分だ。そしてこの後すぐ、六条院における春の御方、すなわち紫上の、舟遊びと音楽のにぎわいを女房たちが楽しむ中で紹介される4首の歌の最後の1首が、「春の日の・・・」である。他の3首も女房たちのものとなっているが、特に紹介するほどのことはなさそうだ。

まだまだ続くが、ながくなったので、ここで一区切りとする。



挿画「春爛漫」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。

絵門ゆう子さん逝く [2006年04月07日(Fri)]





 絵門ゆう子さんが、消えるようにこの世を去った。毎週木曜日、朝日新聞に連載している、「がんとゆっくり日記」が3月30日付で最後になってしまった。

 その遺稿とも言うべきコラムを今、再読している。涙ながらに。

 数年前、家族づきあいをしているあるお寺の奥様に紹介されたのが最初だった。NHKアナの池田裕子時代のイメージが強くて、新しい名前に多少戸惑ったが、もっと面食らったのは「私、ガンなのよ。それも全身に広がっているの」と初対面の時に言われたことだった。

その後、何度もお目にかかったし、「朗読コンサート」も聴かせていただいた。『がんと一緒にゆっくりと』(新潮社)も読ませていただいた。その素直で、明るく、率直な生き方には、出会った多くの人が圧倒され、自らの生を大切にしようと、いまさらながら思い直したに違いない。

4月6日付の朝日新聞で、自らも2度ガンの再発を経験した上野創記者が、「発信続け 最後まで希望」「がん患者の心 歯切れ良く ユーモアとともに」「完治信じ自らを鼓舞」「今生きることに目をむけようよ」との見出しで大きな追悼記事を書いている。

「自らを鼓舞」しておられたのはその通りだが、私たちも鼓舞されたし、励まされた。

 全身に及んだガンを抱えながらきわめて精力的に全国を回って、講演や「朗読コンサート」に取り組んでいた。それでいながら、早朝深夜にかかわらず、車で駅までご主人(三門健一郎さん)を送迎していた。

 92回も続いていた朝日新聞のコラムは、ガン体験の総括と言った内容である。主治医の中村清吾先生(聖路加国際病院医師)との共同作業のようにして、さまざまな抗がん剤治療に立ち向かい、良くなったときは「竜宮城の浦島太郎みたい」とはしゃぎ、悪くなると「玉手箱を開いちゃったんじゃないかしら」「でも、きっとまた中村先生が亀さんになって、竜宮城に連れてってくれるわよね」。

 コラムの最後を引用したい。

 先生は前向きに前向きに、私が治療に向かえるように励ましてくれた。しかし、私の心の中には素朴な叫び声があった。
「『1年後には別かれることになるけど結婚しようよ』というプロポーズに乗れるだろうか?」。
 経過報告は、次回も続きます。

 「薬に耐性・・・玉手箱が開いた」という怖ろしい見出しのコラムはこうして終わっている。ゆう子さん、次回はいつ経過報告をしてくれるんだい?   合掌



   挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。
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