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ベンガル語で40年前の拙著が出版 [2012年05月14日(Mon)]


chitodoroto.jpg

   40年前の拙著


Rokta_O_Kada_Cover[1].jpg


[「Rokta O Kada](血と泥と)のベンガルゴ版表紙。








1991年から翌年まで、私は
国際赤十字東パキスタン駐在代表として、
今のバングラデシュに滞在し、
その記録を
『血と泥と―バングラデシュ独立の悲劇』の題で、
1973年に、読売新聞社から出版した。

国旗以外のテーマによる最初の拙著である。

それが去る4月25日にバングラデシュの
首都ダッカで、ベンガル語になって
出版された。

昨年、NHKの海外放送で数回に分けて
この本がオンエアされたのを知った
バングラデシュ側が刊行してくれたもので、
私はまだ出版社の名前すら知らない。

当時、中立な国際機関のスタッフとして
ありのままを書いたのだが、
勝者であるインドとバングラデシュ側の
思わしくない行為については
最終段階でカットされたところも多少あるらしい。

とりあえず10冊、おくってくれたようだが、
経由地のドバイであやしい出版物とみなされたのか、
8冊が没収され、いま、2冊だけが
東京に再送されているようだ。

40数点ある私の出版物では私が監修した
『地雷ではなく花をください』
(作・柳瀬房子、絵・葉祥明)は
8、9ヶ国語に翻訳出版されたが、
それは例外中の例外であり、
拙著となると国旗の本が一冊と、
国際協力に関するもの1冊が
中国語になっただけ。

40年もの月日を経たとはいえ、
思いもかけず、バングラデシュで
刊行されたのは嬉しい。

NHK国際局の渡辺一弘ディレクターをはじめ、
ご苦労いただいた人たちに感謝したい。

これでまた、当時の関係者と
いろいろコンタクトができるのではないかと
期待している。
日本の弱体化・劣化が進んでいます [2012年05月10日(Thu)]
DSC00185.JPG

社団法人協力隊を育てる会の理事会が開かれ、
私は参与として出席した。

創立以来理事・常任理事を30年やり、6年ほど前、
参与に退いたが、法人改革とやらで、これまでのように
参与が理事と一緒に公式に議論するという形の理事会は
これが最後であり、今後は
年2回程度の顧問・参与会が開催される程度のかかわりとなりそうだ。

それはともかく、
青年海外協力隊のみならず、日本政府の国際協力は
財政難と旧弊の山積で、問題だらけのように思う。

帰路、元NHK欧州総局長の大貫康雄理事や
元日本YMCA同盟総主事・宮崎幸雄顧問と
日本の原発対応について懇談した。

この問題でも、日本は世界を十分理解していないというのが
3人で一致した点である。

私が主宰するユーラシア21研究所でも
チェルノブイリを知るロシア側から、
震災後に予定されていた第29回日露専門家会議について、
「放射能が怖い」という名目で東京での会議が流会となっていました。

今回、共催する袴田茂樹安全保障問題研究会会長と
吉岡明子ユーラシア21研究所常務理事をモスクワに派遣し、
来春までにモスクワで開催することで合意しました。

私の知る他の機関や団体の国際会議も関西以西でなら
という希望が諸外国から寄せられているようだ。

「そうなると日本人参加者の国内旅費や宿泊費が
増えて実施不能だよね」というのが、責任者仲間での常套句になっている。

加えて、ガレキの処理もままならず、
被災地の再建計画も出来ていないという状況では
「私たちは普通に暮らしていますよ」といっても
「しかも、東京では4年以内に70%の確率で
大きな直下型地震があるとの予測も出ているじゃないですか」
と応じられ、あまり効き目はないようです。

国際会議を主催したり、アシストする翻訳・通訳会社は
日本での相次ぐ国際会議のキャンセルに苦闘し、
「会社を閉じねばならなくなるかも」と真顔で言う。

ここは、日本政府が情報を公開し、しっかりと方針を示すほかない。

そんなとき、大貫さんからこんなメールが来た。

熟読していただき、この問題の深刻さについて、
問題意識を共有しよう。

日本の国際的な地位がどんどん下がっているのです。
政府はどうしますか? そしてあなたはどう考えますか?

     ∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋

昨日の件ですが、
世界各国の日本政府の放射能汚染対策を見る目は
「厳しい」、
というか
「安全基準」自体が異なるのですから
当然
不信感と疑念で満ちています。

東京での国際会議や国際行事を
各国関係者が望まないのは
当然でしょう。

野田総理の「低温冷却状態」宣言を
世界は信じておらず、
東京電力福島第一原発事故の収束見通しが
全く立っていないことは
世界各国が判っています。

放射能汚染のため
現在もアメリカ、EU各国などが
福島をはじめ東日本11都県の農産物、食料品の輸入を禁止しています。

現在進行している「放射能除染」は
ゼネコンに金をばらまくだけの利権政治の典型。
瓦礫の全国自治体への受け入れ要請も
大手業者への利権提供にしかすぎず、
被災地の地元の業者の仕事を奪うだけです。

それどころか
いい加減な除染や被災地の全国への瓦礫拡散は
「放射能汚染が日本各地に広がる」という
各国の懸念を強めるだけです。

もし沖縄で放射能汚染が検出されたら、
日本中の農産物と食料品が世界で輸入禁止にされる事態に
なりかねません。

EUは日本の工業製品の放射能汚染の検査を常時実施しており
万が一、放射線が検出されたら
工業製品まで輸入禁止になり
食の安全保障だけでなく、
貿易立国・日本の存立基盤そのものを脅かすことになります。

私のような発想を
「杞憂」ととるか否かは
強制できませんが

少なくとも現政権は
もう少し世界観を持って
何が日本のために必要なのかを把握し、
それに沿った政策を進めるべきでしょう。
アジアからの難民の日本定住の希望者が少ない現実 [2012年03月30日(Fri)]

120329_090026.jpg


3月26日付朝日新聞朝刊はミャンマーからの難民受け入れについて、日本はこれでいいのか考えさせられる記事だ。

    ☆★∴∵★☆∵∴☆★∴∵★☆

 タイの難民キャンプに住むミャンマー人を受け入れる日本政府の「第三国定住制度」が2013年度以降の受け入れも継続されることになった。10年度から3年間としていた試行期間を延長するもので、来日希望者が年々減っていることから、募集対象のキャンプは三つに増える。

 同制度で日本が受け入れたのは過去2年間で、タイ北西部ターク県のメラ難民キャンプから9家族45人。12年度の来日希望者は2家族10人で、当初の目安だった年間30人を下回っている。

 対象はメラキャンプだけから、同県にあるウンピアムマイ(1万7千人)、ヌポ(1万5千人)のキャンプにも広げる。12年度の来日希望者の追加募集を両キャンプで実施する。

 総務省や警察庁など関係省庁から「すでに国内にいる外国人支援を優先すべきだ」などと慎重な意見もあり、本格実施ではなく、試行期間の延長という形をとる。政府関係者は「30人という受け入れ目安はほとんど変わらない」と話す。

  ☆★∴∵★☆∵∴☆★∴∵★☆

確かに、ミャンマー情勢は急速に民主化に向かっている。しかし、この記事の内容が示す結論は、日本がミャンマーの人たちに必ずしも信頼されていないということだ。

私たちがもう少し考えなくてはならないのは、実際に定住を認められた難民が決して、十分な支援を受けて新しい国・日本で幸せにしているとは言い難い面があるということである。

ほかにも、心を許して相談できる人がいない、同胞とはいえ互いに宗教が違うことからうまく行かない、あまりに都会から遠い場所に定住させられ楽しみがない、自らの教育に対する基本的な意識と高学歴社会である日本の教育事情と違いすぎる、ミャンマー人社会がない、母国語で話す相手がいない・・・

朝日新聞の藤崎記者のように、カレン族の鈴鹿市での定住をきちんとフォロ−しているジャーナリストはほかにほとんどいない。政府や受け入れ実施に当たっている難民事業本部のお役所的体質にも問題なしとしないが、むしろ、社会全体ないしは一人一人の日本人が個々の難民に対して心優しい人でありたいものだ。地方自治体、地域の人、雇用主、教員、民生委員、隣の奥さん、クラスメート・・・難民受け入れは日本人の基本的資質が問われていることなのだ。
バングラデシュのこと [2012年03月04日(Sun)]



P3021054.JPG

   在日バングラデシュ人たちのつどいでいただいた
   感謝状です。40年前の”貢献”への感謝と
   3月26日の独立記念日に拙著『血と泥と』の
   ベンガル語版が出版されることが記載されています。






 2月26日、都内・赤羽のBIVIOで
「国際言語の日記念在日
バングラデシュ人のつどい」が開かれ、
席上、思いがけず、
私は「感謝の楯」をいただきました。

まさに想定外。だってそうじゃありませんか。私が
かの国で何かしたというのは
1971年から翌年にかけてのことで、もう、
40年も前のことになるのですから。

当時は東パキスタンと呼ばれ、
まるで西パキスタンの植民地のような
状況でした。

そこで、私は国際赤十字の駐在代表として、
難民や、捕虜、戦争犠牲者への支援などを
していました。

帰国後、『血と泥とーバングラデシュ独立の悲劇』
という題で、読売新聞社から出版した拙著が、
NHK海外放送部の渡辺一博さんという
ベンガル語の専門家の目に留まり、
翻訳されて、昨年秋から、
NHKの海外放送で連続して紹介されたのでした。

それがバングラデシュでも評判になったらしく
今回の出版となりました。

当初は2月26日までに刊行の予定でしたが、
最終的に、3月26日(独立記念日)に
出ることになりました。

40年前の独立戦争の時、私は30歳で、
ヘリやスピードボート、4WDの自動車なども
装備していましたので、結果として、第3者的に
各地をまわり、それなりに状況を把握していました。

「バングラデシュにはそういう人がもう、
ほとんどいないんです」という出版社側の声を
聞くと、「多少でもお役に立てるならどうぞ
ご自由につかってください」と、感謝しつつ、
応諾したのでした。

その後も多少のかかわりがありましたが、
思いのほかの感謝状にすっかり恐縮しています。

席上、東京にベンガル人の子弟のための
学校をつくるという話が出ていましたので、
私もおもわず、貧者の一灯を献じてきました。

最近は、日本をはじめ各国から、
アパレル関係を中心に労働集約的な企業の
進出が急増し、経済が上昇傾向にあります。

バングラデシュのさらなる発展を祈ります。

ただ、日本は少々、この国を
軽視しているのではないのかな、
と思わざるを得ない出来事が
1月31日の参院予算委員会でありました。

山谷えり議員「日本のPKO部隊は南スーダンで
どこの舞台に守ってもらうのでしょうか?」

田中直紀防衛大臣「知りません」

そこで、渡辺周副大臣が助け船をだし、

防衛相「バングラデシュであります」

いまさら言うのも恥ずかしいほどですが、
なんとも頼りない大臣です。恥を知っているなら
なぜ、辞任しないのでしょうね。

自衛隊はイラクのサマワでは
イギリス、オーストラリア、オランダの軍に守られ、
今度の南スーダンではバングラデシュの陸軍に
守ってもらっているのです。

ところで、私は1970年代の終わりに、
バングラデシュの北部、
マイメンシン県の孤児院を応援しました。

募金600万円を集め、
いろいろ打ち合わせを重ね、
脱穀、籾摺り、精米機と
種付け牛をおくり、
それが孤児院の収入を大きく増やし、
財を産み、それまでの倍の
800人もの孤児を受け入れて
今日に至っています。

孤児の多くが集団生活を
きちんとしていることから、
軍に入って昇進する様子に、
何となく快哉を叫ぶわけにもいかない
複雑な思いがなかったわけでは
ないのですが、
無能な田中防衛相のことはともかく、
その軍に、日本の自衛隊が
守られているとなると
わが思いは
さらに複雑になってしまいます。
毎日新聞の言う日中友好を考える [2011年11月02日(Wed)]



   写真は、10月20日、上海蘭心大戯院で吹浦が撮影







先日、上海で行われた
チャリティ・コンサートにつき、
毎日新聞上海支局の隅 俊之支局長が
10月31日のコラム・上海交差点で
こんなふうに書いていました。

<「友好」って叫ぶもの?>との見出しです。


♪‥☆‥★‥♫♫‥★‥☆‥♫♫‥★‥☆‥♪
 

 外務省に勤める若い知人と
電話で話していた時、彼が
「個人的な意見だけど」と、
こんなふうに言った。

「日中関係ほど白々しく『友好』『友好』と
言わなきゃいけない国家関係はないと思う。

友好関係って本来は自然に生じてくるもので、
押しつけがましく
演出するものではないと思うんだが」。

 昨年の尖閣諸島沖の漁船衝突事件で、
日中関係は一気に冷え込んだ。

日本の非営利組織「言論NPO」と
中国英字紙「チャイナ・デーリー」が
今年実施した世論調査では、
互いの国の印象について
「良くない」と答えた日本人が
前年比6・3ポイント増の78・3%、
中国人も10ポイント増の65・9%。

ともに05年の調査開始以来
最悪の結果だった。

 「日中友好のために」と叫んでも、
8割近くの日本人と
6割強の中国人が
お互いを好きじゃないという現実を
前にすれば、なかなか難しい。

友人は
「自然に生まれてくるものを
大切にできるかどうかだ」と話す。

 上海市内で20日、
上海在住の音楽家が集まり、
東日本大震災の復興支援を
呼びかけるチャリティーコンサートが
開かれた。

97年から中国の子供の
教育支援をしている
日本人らのボランティア組織
「互人多(フレンド)」が
中国の政府系組織の協力を得て開いた。

 中国では、本格的な震災支援の
コンサートは初めてという。

上海交響楽団首席コンサートマスターで
バイオリニストの潘寅林(ばんいんりん)氏ら
8人が出演を快諾。

収益金の日本円にして約290万円が、
被災地で復興支援をする
国際NGO「難民を助ける会」を通じ、
子供の教材購入などに充てられる。

読売日本交響楽団などで
コンサートマスターを務めたこともある潘氏は
「半年が過ぎても、
中国が被災地のことを忘れないという
メッセージを伝えたいと思った」
と話す。

 東日本大震災では、
発生直後から上海の日本総領事館に
中国人が義援金を届けた。

多くの人は、08年の四川大地震で
日本の救助隊が遺体に黙とうをささげ、
支援物資を届けたことを覚えている。

義援金の中には、
中学生が自分たちのわずかなお小遣いを集め、
約1400元(約1万6800円)を
匿名で届けたものもあった。

こうして集まった義援金は
3億3000万円に上る。

 来年は国交正常化から40周年。

外交面で対立もある日中関係を、
ことさら「友好」「友好」と叫ぶ必要はない。

ただ、こうして芽生えている友好の絆を
大切にしていれば、
本当の「友好」はやってくるはずだ。

 ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

この記事には全く賛成だし、
公認してくれた中国の組織、
演奏してくれた方々、
当日会場にお越しくださった方、
主催した日本人を中心とする
ボランティアグループには
心から全面的に感謝していますが、
この記事の書き方に、
多少疑問を感じます。

というのは、この話とは別に、
台湾から200億円!もの
義援金が寄せられていることについて
毎日新聞アジア総局として
等閑視していていいのでしょうか。

中国からの3億円にも、
このコンサートの290万円にも
もちろん大感謝ですが、
もう少し公平に書いたほうが
毎日新聞への信頼にもなり、
ほんとうの日中友好に繋がる
と愚考するのですが、
いかがなものでしょう。

         
シンポ・大震災と国際協力 [2011年10月03日(Mon)]












「南の隣国」台湾が200億円近い義援金を
寄せてくれました。

同盟国・アメリカは「トモダチ作戦」で
大いに助けてくれました。

その全体像と評価のための
国際シンポ
『3・11 東日本大震災の国際協力と今後』 が
アジア調査会の主催で行われます。

あいにく当日は日本にいませんので、
私は参加できませんが、
顔ぶれから言って、
さぞ興味深いものになるかと思います。

いかがですか?

案内状を転載します。

  ❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀

 未曾有の大惨事となった3月11日の
東日本大震災からの復興や
チェルノブイリ事故に匹敵する
福島第一原発事故の収拾は半年以上が過ぎた
今もまだ道半ばです。

しかし、最大時で約2万人の兵力を動員した
米軍の「TOMODACHI(トモダチ)作戦」を
はじめとする各国の人的支援は
麻痺した東北の大動脈復元や
被災地復旧に大きな力を発揮し、
義援金約200億円を寄せてくださった
台湾の方々をはじめ
世界の人々から寄せられた
善意の寄付は
被災民の大きな力となり、
日本に元気を注入してくれました。

世界的に異常気象が続くうえ、
新興国の原発依存は増える一方で、
今後どこで大災害が起きても
不思議ではない情勢です。

「3・11」で国際的な協力は
どう生かされたのか、
この経験と反省をどう生かせばいいのか、
東アジアの災害防止ネットワークを
どう構築すればいいのか、
国際組織をいかに充実すべきか、
などについて日米の識者に
緊急討論していただきます。

【テーマ】
 『3・11 東日本大震災の国際協力と今後』

【日 時】
 2011年10月20 日(木)14:30〜17:00

【会 場】 日本記者クラブホール
 千代田区内幸町2−2−1
 日本プレスセンタービル10階)
  地下鉄都営三田線内幸町駅A7出口。
  東京メトロ千代田線・日比谷線
  霞ヶ関駅C4出口、
  東京メトロ丸ノ内線霞ヶ関駅B2出口、
  JR新橋駅日比谷口

【会合次第】
14:30
挨拶 馮寄台・台北駐日経済文化代表処代表
14:40〜15:50 
パネラー基調報告
15:50〜16:00 
コーヒーブレイク
16:00〜17:00 討論(含会場からの質問)

【パネリスト】
猪口邦子・参議院議員(国際政治学者)
ロバート・ドゥジャリック・
  米テンプル大学日本校現代アジア研究所長
坂東賢治・毎日新聞東京本社編集編成局次長

司会 長田達治(アジア調査会常務理事)。

言語は日米同時通訳

聴講は無料。

【主催】社団法人アジア調査会

【協力】台北駐日経済文化代表処

●お申し込み方法●
FAX、電話またはメールで
アジア調査会事務局にお申し込み下さい。

締め切りは10月18 日(火)。
事務局の電話は03・3211・1616、
FAXは03・3214・5975、
メールアドレスはajicho@aarc.or.j
バングラで放送・雑誌化される拙著 [2011年07月19日(Tue)]








今年は、
東パキスタンからバングラデシュに変わって、
つまり、
バングラデシュ建国40周年に当たります。

当時、私は国際赤十字の駐在代表として、
現地に滞在し、71年12月の第三次印パ戦争も
経験し、体感しました。

それをまとめたのが
『血と泥と―バングラデシュ独立の悲劇』
で、読売新聞社から発行されました。

私にとっては、国旗以外の最初の著作ですから、
強く印象に残っています。今、読んでも
われながら若かった、
齢30のときのことですから。

さきほど、NHK国際放送局の
ベンガル語担当渡辺一弘さんから、
以下のメールをいただきました。

当時、数少ない外国人滞在者でしたので、
こうした記録は貴重なものだというのです。

もちろん快諾し、
いずれ雑誌を送ってくださいと
お願いしました。

    ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★

NHK国際放送局の渡辺です。

3月にはお世話になり、
ありがとうございました。

以前報告いたしましたが、
3月26日の
バングラデシュ独立記念日放送の
インタビューに続き、
5月からは「血と泥と」の朗読を
毎週月曜日に放送しており、
バングラデシュのリスナーから
大きな反響が寄せられています。

このたび、バングラデシュの主要紙、
「プロトム・アロ」より、
同新聞社が発行する雑誌に「血と泥と」の
一部を掲載したいとの申し入れがありました。

雑誌はムスリムの最大の祭
「イード」に向けて発行される特集号で、
来月上旬に発売の予定です。

「血と泥と」の一部を
私がベンガル語に翻訳したものと
先生の御写真を載せたいとのことです。

A4程のサイズの雑誌数ページで扱う
予定だそうです。

「プロトム・アロ」になり代わり、
ご承諾いただきますよう
お願い申し上げる次第です。
コンゴからも東洋英和元院生が [2011年05月29日(Sun)]
      


         






本来なら、東洋英和大学院同窓生の会に
当然、きてくれたであろう、朝倉恵里子さんは、
国際協力機構(JICA)の任務で、
長期間、コンゴ民主共和国に
駐在しています。

一時は、
難民を助ける会で30周年記念行事などを
中心的にしてくれていたこともあります。

ブログを読んで、こんなメールをくれました。

ありがとうございます。

元気に活躍しておられることを、みんなとともに
喜びたいと思います。

 英語の達人で、
いっしょに翻訳出版したりしましたが、
今は日々、
フランス語で活躍していることでしょうね。

 安全、健康に気を付けて、
さらなるご活躍をと祈念します。

★      ☆      ★

もう、本当に長いことご無沙汰してしまい、
大変申し訳ありません。

東日本大震災当日、私は
担当する警察研修プログラム
終了セレモニーのため、
コンゴ民主共和国東部にあるオリエンタル州
キサンガニ市のホテルで
朝食をとっていました。

ちょうど地震の2時間後あたりから
テレビ(France24という
フランス語版CNNのような局)で
津波の様子が流れ始め、
大慌てでまず長野の実家に電話をし、
その後すぐ、
先生の携帯にもご連絡したのですが
繋がりません。

数時間後
(日本の夜9時ぐらいだったでしょうか)、
ようやく先生の携帯から
呼び出し音が聞こえたのですが、
きっとお忙しかったようで、
先生はお出にならず、
大変心配しておりました。

しかし、翌日からは先生のブログで
難民を助ける会を中心とする
迅速な援助活動が
報告されはじめ、
その様子から先生と皆様の
ご無事を知り、
現在まで続く多くの
素晴らしい援助活動に圧倒され、
ついついご連絡しそびれておりました。

今朝は、いつも拝見しているブログで、
東洋英和のなつかしいメンバーに
先生が囲まれている写真を発見し、
古希のお祝いがあったことを知り、
急いでご連絡させていただきました。

ますます精力的に
多方面の活動を続けていらっしゃる
先生が古希とは信じがたいですが、
キンシャサからも心より
お祝いを申し上げさせていただきます。

私は地震直後の15日に休暇帰国しましたが、
その際はたった4泊のみの滞在でした。

今回5月12日から23日まで、
コンゴ人の友人二人とともに
再度帰国しましたが、
なかなかの珍道中で、
あっという間に11泊が過ぎてしまいました。

その間にも、先生の日々は
チャリティコンサートなど
相変わらず多くの活動を
仕切られている毎日でしたね。

さて、
私は今年11月初旬に任期終了となるため、
JICAコンゴ民主共和国駐在員事務所での
治安セクター改革担当企画調査員の
ポジションを離れることになります。

今後については、せっかく専門知識、
人脈等を築いてきたコンゴ民主共和国での
治安改革、平和構築関連活動を続けたく
希望していますが、とりあえず
一旦は帰国し、
その後の可能性を探ることになると
思います。

では、先生もどうぞご自愛ください。
海外からの支援に感謝 [2011年05月19日(Thu)]











以下は、英語、中国語、ロシア語に翻訳され、
Japan Echoとユーラシア21研究所の
HPに掲載されるものの日本語原文です。

   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

去る3月11日、
東日本を襲ったマグニチュード9という大地震は
、これに起因する原発事故を伴って、
今も日本を窮地に追い込み、
日本社会全体があらゆる面で
沈うつな雰囲気に覆われている。

特に、被災地復興と電力不足への対応が
急務である。

しかし、諸外国からの力強い支援に感謝しつつ、
多くの日本人が古来伝わる善意と助け合いの精神で、
この困難を克服しようと懸命に努力の日々を続けている。

日本人の脳裏にあるのは1945年の
米軍による全国主要都市への空爆、
とりわけ広島・長崎への原爆投下と、
一夜にして10万人の市民が犠牲になった
同年3月の東京空襲であろうか。

1995年の阪神・淡路大震災では
神戸市を中心に6千人以上の死者という
大きな被害があったが、
今回はこれまでのところ、
死者・行方不明者を合わせて約2万4千人という
多数であり、被災範囲も太平洋沿岸の
本州東北部で南北約500キロに及ぶ
広範な地域となっている。

孤立していない日本

今回の地震は、マグニチュード9という
巨大地震そのものの被害もさることながら、
加えて
「想定外」の巨大な津波(一部地域では高さ38m)と、
それによる原子力発電所の事故、
そして農作物や海産物に対する
風評被害が発生したことなど、
従来の大地震とは違った特徴がある。

これに対して、
救援面でも新しい大きな動きがあった。

日本国民が挙げて義援金や支援金を拠出し、
ボランティアが連日被災地に駆け付けたことは
言うまでもない。

それに加えて、この国難に対する
外国からの支援は実に大きく、
日本が世界で孤立しているのではないという印象と
自覚を強く持たせ、知らしめてくれたのが
大きな特徴であろう。

同盟国アメリカは日本語で「トモダチ」作戦と称して、
軍人約8,000名+救助隊144名+専門家2名+8名=8,154名、
救助犬12頭からなる救援隊を長期間派遣し
、空母ロナルド・レーガンまでを動員、
空港の確保から遺体の捜索、
果ては5人程度に分かれた軍楽隊による
被災地激励コンサートまで、
大小さまざまな協力をしてくれた。

日頃、必ずしもアメリカ軍をよく言わない人を含めて、
日本人はこの厚意に
最大の感謝の気持ちを抱いている。

日本への支援申し入れは
142の国と地域、39の国際機関からで
あった。(4月20日18時現在、外務省発表)

5月9日現在で、外国からの救援隊が到来したのは、
アメリカ、イギリス、イスラエル、イタリア、インド、
インドネシア、オーストラリア、韓国、シンガポール、
スイス、タイ、中国、ドイツ、トルコ、ニュージーランド、
フランス、南アフリカ、メキシコ、モンゴル、ヨルダン、
ロシア、台湾の22の国と地域。

この他、戦乱のアフガニスタンをはじめ、
多くの開発途上国からも心温まる支援をいただいていている。
感謝に堪えない。

「北の隣国」ロシアからは
原油の供給量を増やすという申し入れがあった。

中には、
1994年の北海道東方沖地震で
支援してもらった(私は民間の資金を中心に、
外務省や北海道にも働き掛けをし、
その最初の3隻の船に救援物資を満載して率い、
色丹島と国後島を訪問した)から
今度はお返しをしたいと、
募金をしているロシア人もいれば、
「この際、お見舞いとして北方領土を
日本に引き渡すべきだ」と発言した
リリヤ・シェフツォワ露カーネギー財団
主任研究員のような人もいる。

中国からの支援にももちろん感謝しているが、
昨今の「超大国」ぶりから言って、
人的、物的協力はこれまでのところ
意外に少ない。

むしろ注目すべきは、台湾からの支援である。
約200億円という浄財は、
日本国内ではあまり大きく報道されなかったが、
海外からの最大の資金支援であり、
「南の隣国」の
大きな存在を感じさせるものであった。

同時代に存在しているという連帯感
地震、津波、原発事故と続いては、
在日中国人が一斉に帰国したのは
気持ちとして分かるが、
その中には何人かの日本人経営者の
文字通り命懸けによる行為で救われた中国人もいた。

『人民網日本語版』2011年3月16日付や
『新京報』3月17日付といった中国のメディアが
詳しく伝えているように、
宮城県女川町の佐藤水産という会社には、
中国人女性20人が研修生として滞在していたが、
同社の佐藤充専務が裏山に登るよう懸命に働き掛け、
研修生は助かったものの、
妻と娘を探しに行った佐藤専務自身は
津波に巻き込まれ、そのまま戻らなかった。

このように、大災害には
悲しみの中に国際的な協力の素晴らしさや
感動的な話がたくさんあり、
同時代に同じ地球に存在している者としての
さまざまな連帯感を再確認させてくれるのである。

日本人は被災者であるなしに関わらず、
諸外国からの救援・支援への感謝を
語り継ぐであろう。

1923年に東京・横浜を襲った関東大震災のときの支援、
そして第二次世界大戦直後、
日本が苦境のさなかにあったときの、
直前まで敵国だった諸外国からの支援を、
今でも私自身が感謝の気持ちで覚えているように。

                 (5月9日 記す)
外国からの支援をいただいた今 [2011年04月29日(Fri)]









国際派ジャーナリストP氏からのメールです。

  ━━━━━━  ☆ ━━━━━━

今次の東日本大震災(と原発事故災害)の
被災者、被害者のために
190カ国以上の国から
様々な形で支援・救援が寄せられており
調べれば調べる程
強い印象を受けることばかりです。

韓国、台湾、中国、香港、シンガポールなど
やはり近隣からの支援・救援には
特筆するものがあるようです。

人口2300万人の台湾では
馬英九総統はじめ
一般の人たちまでが
何らかの形で支援活動を進め
義捐金だけでも140億円近い
お金が送られてきた、という事実
これには
正直頭が下がります。

日本政府は何らかの形で
台湾の人たちに感謝の言葉、意志を
伝えるべきでしょう。

正式な国交が無いから、とか
中国に配慮するから、
などと言った薄っぺらな理由で
政府首脳が感謝の言葉一つ語らない、というのは
道徳的にも支持できません。

一方で
公費を使って自分の名を出して
感謝広告を出し、それを大手メディアに
報道させる、という
売名行為をするのですから
情けない限りです。

アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアなど
大国、先進各国の支援は規模や技術支援も含め
感謝するばかりですが、
それだけでないのが
今回の世界の特徴でしょう。

朝日新聞も国際担当は結構良い報道をしており
Japan Timesが 朝日によると、として
こんな記事を載せていました。

モンゴルで
羊の放牧生活を営む50歳の男性が
日本の被災者のことを聞いて
「羊1頭を日本の被災者に届けてくれ」、と
モンゴル赤十字に
50キロの草原を超えて訪ねてきた、とのことです。
この男性
「モンゴルでは苦難に瀕している人たちは
助けの手を差し出すのが慣例だ」
などと言った、ということです。

このモンゴルは
冷戦崩壊後、日本から多額の支援を頂いた
その恩に少しでも報いるべく
公務員全員が1日分の給料を
被災者に贈ることになった、とのことです。

朝日も こういう取材なり報道を出来る記者を
もう少し要請できると良い新聞になるのですが。

処で
タイやフィリピン、カンボジアなどの国々では
政府もさることながら
一日数ドル以下で暮らす貧しい人たちが
街角で救援募金を募り
1円、2円というお金を出し合っている、と
テレビや雑誌が報じていました。

故郷を追われアルジェリアの砂漠で難民生活を送る
西サハラの人たちが自分たちに出来ることを、と
祈りと連帯のメッセージを寄せてきた、とか

アフリカの小さな国で
中東の砂漠の町で
お金が無いので御祈りを、という人たちもいるようです。

こんな話を知ると
この災難を 絶対に克服し
再び近隣諸国の人たちのためにお手伝い出来るまでに
復興したい、という気持ちになりますね。

    ☆        ☆        ☆

さぁ、早くお礼の特使を各国に出しましょう。

最初はアメリカ、台湾です。

アメリカには菅首相自らが行くべきです。

台湾には首相経験者が必要です。

平沼赳夫、衛藤征士郎といった親台派の
人たちはすぐにでも。

蓮なんとかという大臣は閣内での存在感は
ないのですが、「地は水より濃い」のですから
どうでしょう?

もちろん、王貞治氏なら最高でしょうが。

いずれも場合でも原発問題の専門家が
随行する必要がありましょう。

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