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天満、亜星、清張、山崎・・・ [2009年06月29日(Mon)]












昨6月28日、とうとう小欄の更新が途絶えました。
PCが立ち上がらなかったからです。

 今朝、ユーラシア21研究所に来てみると、
ありがたいことに友人・知人はもとより、
見知らぬ方からも、メールが着いていました。

「どうした?」
「どこかに行っているのか?」
「体調不良?」

 ありがたいことです。

 とりあえず、小欄復活のご挨拶です。

 土曜日は天満敦子さんのヴァイオリンを紀尾井に聞きに行きました。

 天満さんのデビュー30周年と小林亜星さんの喜寿を記念した
コンサート「ロマンティックをもう一度」。

 4500円の“大枚”をはたいて、小林さんの作品を中心にした
天満さんのCDを手に入れ、
「過ぎ去りし日々」にはまってしまいました。

 これを訊きながら、松本清張の『球形の荒野』を読了し、
推理小説の結末に涙するほど、これまたはまりました。

 でも、この作品の解説を描いている半藤一利さんも
同じ思いで最後のページに泣かされたと書いています。

 そのあと、山崎豊子の『運命の人』を読み始めましたが、
沖縄返還交渉前後については、
私にもいろいろ思いや経験がありますので、
こちらもまた、ウィスキーを傾けながら、のんびりというわけには
行きそうにありません。

PCが立ち上がらない週末も、また楽しからずやでした。
ニコライ堂初訪問 [2007年09月09日(Sun)]
























  ニコライ堂正門上の復十字















『宣教師ニコライの全日記』(日本語版)献本式に
お招きを受け、御茶ノ水のニコライ堂に始めて訪問した。

 ニコライ堂、
正式には
日本聖ハリストス正教会東京復活大聖堂の門から入ると、
すぐ左にその説明が表示されている。それによると、
1904(明治37)年6月に
文部省が重要文化財に選定している。

 つまり、
その年の2月に日露戦争が始まっているのであるから、
これは、あきらかに戦時中に、
敵国にゆかりの深い施設を、
国が文化財として保護したということである。

 ロシア人である宣教師ニコライはこの間、
ここを拠点に、ほとんど外出できないまま
苦難の日々を送っていた。

それはともかく、
この表示板によれば、
ニコライ堂は1884(明治17)年3月に起工し、
7年かけて1891(明治24)年2月に完成したとのこと。

 設計したのは、
ロシア工科大学のシチュール・ポフ教授、
工事の監督には、英国人のコンドル博士があたったとある。

 高さ35mのわが国にある
ビザンチン様式の建造物としてはわが国最大で、
東京名物として数々の歌に歌われてきた。

 壁の厚さが1〜1.63mもあるのだそうだ。

 中は壮麗と言うほかない。

 聖歌隊の歌声は、
かつてクレムリンのウスペンスキー寺院、
アレクシイ2世の午餐会、
聖地ザゴルスクの大聖堂で聴いたものと同様、
ロシア正教の礼拝や式典では
きわめて重要な役割を果たしているように思った。

 素人写真で恐縮だが、
ニコライ堂の雰囲気をお伝えできれば幸いである。
見事な経済現況分析 [2007年06月28日(Thu)]




 挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。






 東洋熱工業の株主総会に出席して毎年、感心するのは、「事業報告書」の冒頭にある「当社の現況」に、日本経済の現状を実にうまくまとめていることだ。同社は、いわば建設業界にあるわけなので、総合的に日本の経済をきちっと把握しているということなのだろう。

 そのさわりをご紹介したい。

   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 当期におけるわが国経済は、好調な輸出と、堅調な企業収益の改善に支えられ設備投資が増加しており、雇用環境の改善による個人消費も底堅く推移し、緩やかな拡大を継続しております。
 
 一方、当建設業界におきましては、公共工事は一層減少しており、民間からの建築工事は増加したものの、受注競争の激化や労務単価・原材料価格の高騰もあり、受注環境は依然として厳しい状況が続いております。

 このような状況のもとで、当社は全社を挙げて業績の向上を図るべく積極的な営業活動を展開するとともに、受注の確保に取り組んでまいりました結果、受注工事高につきましては、前期比4.6%増の84,559百万円となりました。

 今後の見通しとしましては、輸出は海外経済の拡大を背景に増加傾向が続き、高水準の企業収益および内外の堅調な需要を背景とした設備投資の増加、更に個人消費の緩やかな拡大基調等により、わが国経済は息の長い成長を続けるものと予測されます。

 しかし、建設業界におきましては、民間工事は続伸をするものの、公共工事の減少による影響で、建設市場全体では縮小基調で推移するものと考えられ、また厳しい価格競争は継続されるものと見込まれます。

   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 簡潔明瞭、一目瞭然とはこういう分析を言うのではないでしょうか。

 東洋熱工業は堅実・確実な会社です。これだけ、適切な分析をしているのですから。

 来年の株主総会が今から楽しみです。
歌とトークとで混乱 [2006年09月30日(Sat)]


 拙著『歌い継ぐ日本の心―愛唱歌とっておきの話』(海竜社)は、おかげさまで多数の方々にご覧いただきました。但し、私は音楽の愛好家ではあっても、音楽そのものや演奏については全くの素人。どうぞ誤解しないでください。この本には、小欄でおなじみの石田良介先生の剪画が、表紙をはじめ、中にもたくさん出てきます。悪友は口をそろえて、それで売れたんだと申します。そしてそれは、正しい解釈です。

 講演と歌を同日にこなすということが、こんなにも難しいということを、きょうは嫌というほど体感させられました。

 講演のほうは「平和とは何か」という話です。日頃考えていることと、拙著『平和の歴史』(光文社新書)のさわりでもしゃべればなんとかなるだろうと、先週まで、世間に甘え、タカをくくっていたのがそもそもの間違いです。今にして思えば、一昨日、レジュメを送るように主催者から言われて、頭がまとまらないうちに、デキの悪いものを送ってしまったのが躓きの始まりと言えるでしょう。

  加えて、歌のほうは「しぐれに寄する抒情」(佐藤春夫作詞、大中恩作曲)が、今朝になって大ブレイク。なぜかリズムも音程も不安定で、落ち着かないこと夥しい状況に立ち至りました。

 会場への車を運転しながら、松本美和子さんのCDでも聴いて確認しようとしていたのですが、あいにく諸事情から電車で行くことになり、不安はさらに募りました。

 私の基調講演を終えてみなさんがシンポジウムをしている間に、最後列の席でそうっと楽譜をみて勉強しなおしていると、係りの方は非情にも、もっと前に座るようにと「ご親切に」指示してくれるのです。

 気もそぞろな私を、タイミングよく、ピアノのある部屋に誘ってくださった肥田五和子先生の特訓は、直前まで続き、なんとか誤魔化すことが出来ました(?)。

 教訓はいっぱい得ました。実力以上の歌は人前では歌わないこと、自信のない歌は選ばないこと、練習をもっとしっかりやること、そして、講演と歌の二本立てなどということは、ブタが木に登るくらいおだてられても、引き受けないこと・・・

 去年、難民を助ける会のチャリティ・コンサートで、巨匠・中村紘子さんが、前半に、トークと著名な小品の演奏を交えておやりになったときのことです。すべてが終わってから、こうおっしゃっていました。

「演奏は右脳、トークは左脳。両方を電気のスイッチのように切り替えて使うことには無理があります。だから、あんなポピュラーな曲でも、前半は楽譜を見ながら弾いたのです」。

 私は、きょう、ギリギリになってその言葉を思い出し、「しぐれに寄する抒情」は、恥かしながら楽譜を置かせていただきました。

 さてはて、10月15日は午後2時から、松田ホールで、松田トシ先生(元NHKうたのおばさん)門下生の発表会。昨年4月に弟子入りした私は、前座で「出船」「さくら貝の歌」、そして「しぐれに寄する抒情」を歌わねばなりません。今夜から特訓を重ね、前日からは「右脳だけ」で準備し、今度は楽譜なしで挑戦しなくてはならないと、覚悟しています。

 それにしても松田先生のご指導は、弟子のそんな苦労もものかわ、「あなたの歌には色気がない!」。

 卆寿を超えられた先生に、今週は、音楽の「色気」をご指導いただかねばなりません。嗚呼。


■資料リンク

愛唱歌とっておきの話―歌い継ぎたい日本の心

愛唱歌とっておきの話―歌い継ぎたい日本の心
ダバオでの「君が代」 [2006年07月21日(Fri)]







公演に先立ち、1800人を前に国歌「君が代」を独唱する私。



  一昨日(7月19日)、18時50分、「日本・フィリピン友好年・日比友好音楽コンサート」が開演された。場所は、フィリピン南部にある同国第2の都市ダバオ市の中心街にある「CAP開発センター」、聴衆は予定より多い1800人。

   公演に先立ち両国国歌の独唱。冒頭、私が「君が代」をアカペラで歌った。聴衆は全員、さっと起立。

   ここ数日、朝から晩まで「君が代」を歌って練習しただけあって、なんとかこなせてほっとした。もう高齢である日系2世たちが最前列に並んで、涙ぐみながら、小さな声で歌っていた。

   前日のジョセブン・アウステロ日系人協会会長(37歳)の結婚式以来、親しくさせていただいているし、苦難の歴史を一人ひとりから伺っているので、この人たちが「君が代」を歌う気持やいかにという思いが走った。

   ダバオは戦前、東南アジア最大の日本人町であった。2万有余の人々が住んでいた。1941年12月8日の日米開戦で、全員、いくつかの小学校や刑務所などに強制収用された。

  12日後、日本の第百師団が上陸、米比軍を討伐し、収容されていた日本人を釈放した。逃げる米比軍が10名ほどの日本人の非戦闘員を殺害した。

   それから3年あまりは日本の統治下にあって、ダバオは南方への格好の兵站物資の輸送基地となった。同時に、米比軍に協力したり、日本軍に非協力的だった人たちが処罰され、殺戮された。

   しかし、45年2月には、米軍の艦砲射撃と激しい空爆にさ、米軍部隊の上陸に伴い、今度は、日系人が山中のジャングルに逃げ込んだ。第百師団の将兵とて同じだった。そこでは厳しい飢えと伝染病に加え、山岳民族の襲撃に倒れた日本人や日本兵も多かった。

   戦後、かつて移民だった日本人男性のほとんどが、妻子をおいて帰国することを余儀なくされた。妻子に日本国籍のないケースも多かった。

   私がお話した田中愛子さん(74歳)は14歳で終戦を迎え、1973年までジャングルの中に身を潜めていた。そこで結婚もしたが、子供の教育に困り、ついに町に戻った。

   日系人博物館を案内してくれた竹沢大助さんも同じ歳。4ヶ月、ジャングルを逃げ回り、「三日熱マラリア(熱帯性マラリア)」で九死に一生を得て、生還。「死んだ命だと思って」ダバオに戻り、労務者、トラック運転手などとして生活して来た。

   カルロス寺岡さんは、全フィリピンの日系人会連合会の会長。同じく74歳。この人のご苦労は多くの著作に出てくるので、再録しないが、いま、ダバオ、バギオを中心とするフィリピン各地の日系人の総まとめ役として尊敬を集めている。同連合会は、ミンダナオ国際大学(幼稚園、小学校、ハイスクールの付属校)を経営、「21世紀になって、日本とのかけ歯しになる人材づくり」に懸命である。

   そうした人々の顔を最前列に見ながらの「君が代」である。「私たちのアイデンティを示すのですから、しっかり歌ってください」と励まされての登壇だった。

   いま、写真を見ても、「いかにも肩に力が入っているな」という印象だった。フィリピンの国歌「ルパンギニラン(太陽の国)」を歌ったエレジョ・カンデラリオくんも開幕寸前、「ダバオで両国の国歌というのは初めてじゃないでしょうか。私はいまとてもナーバスになっています」と言ってきた。

   重い過去を背負ったコンサートが始まった。


『逆読み世界史』への挑戦 [2006年06月08日(Thu)]





  末次一郎スケッチ集『挑戦の合間に』より「クレムリン」。



  若い政治家と話していて、時々、はっとすることがあります。あまりに歴史をご存知ないのです。歴代の首相についても、こんな具合いでした。昨夜の話。

「小泉さんの前が、森さんで、その前がハシ龍で・・・」
「違う、違う」
「そうか、小渕さんでしたよね。ハシ龍の前が、土井さんじゃなくて、ええと、村山さん」
「その前は?」
「竹下さん? いやいや細川さんもいたし、宇野さんも、海部さんも、宇野さんもいたし、羽田さんも少しやったよね。中曽根さんはもっとずっと前かな。小学生のとき、ナカソネナカソウヨなんてやってましたから」
「ま、しっかり調べて覚えておいたほうがいいよ。じゃ、アメリカの大統領は?」

「フッシュの前がクリントン、その前がオヤジ・ブッシュ、そしてカーター、レーガン、フォード、ニクソン、ジョンソン、ケネディかな」
「立派なもんじゃない。いっそアメリカで立候補したら。ケネディの前はアイゼンハワー、トルーマン、ルーズベルト」
「ボクはアメリカに留学しましたから。先生はアメリカ嫌いだったはずなのによく知ってますね」
「じゃ、ロシアは?」

「よし。頑張ってみよう。プーチンの前がエリツィン、その前がゴルバチョフ」
「順調、順調、立派、立派。ま、そこまでは分かるよね」
「・・・チェルネンコ」(内心では、ブタモオダテリャ・・・なんて思っていませんよ)
「すごい、すごい(拍手)。大したもんだよ。その前はアンドロポフ」
「今、言おうと思ったのに」(我ながら早とちり)
「その前は、ほらあのいかにもソ連と言う感じの人・・・スターリン」
「ブー、でした。ブレジネフ」
「そうおす、そしてその前がスターリン?」
「フルシチョフ」
「そうか。難しいねぇ」
 
  ソ連(ロシア)は、俗に指導者が「髪あり」「髪なし」が交互にと言われている。最後の皇帝ニコライ2世以来、思い浮かべて見てください。レーニン、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ・・・。プーチンはこの「法則」の例外なんです。来月14,15の両日、サンクトペテルブルクで、サミットです。よく見てくださいね。

  でも、そんなことはどうでもいいんです。

  私は、「逆読み世界史」を執筆してみたくなりました。こんな暗記物ではなく、今日の世界の諸状況は、どこから来たかを遡って行くのです。

  そういえば、マトリョーシカにありました。根強い人気です。外側がプーチンで、小さくなるに従ってだんだん遡って歴代の指導者が出て来るのです。エカテリーナ、ピョートルと出てきてまだあるのか、クリスチャンが製作者ならイエス・キリストか、無神論者が作ったら猿でも出てくるのかと邪推したら、イワン雷帝でした。

 そんなこんなを考えているうち、『逆読み世界史』(仮題)を書いてみたくなりました。一週間、構想を練って、やれそうなら挑戦してみます。どなたか「それならまかせとけ」とか、「もう、そんなのとっくにいい本が出ているよ」といって来たら、諦めます。いかがですか?
硫黄島から戻りました [2006年05月25日(Thu)]



     挿画「富士 夏」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。


  今朝早くから硫黄島に行って参りました。すべて順調だったのですが、帰りは本土が大雨、雷雨ですっかり遅くなってしまいました。
 
 「質より量」でブログを書いている私が1つも書かないのはなにかあったのではないかと、「妙齢の美女たちからメールが殺到!」(今回は残念ながらウソ! 57歳の男性から一通のみ)した(はず)ので、とにかく0時過ぎに生きて戻ったことだけを書いて、きょうは休ませていただきます。

  明日以降、、硫黄島のことをたくさん報告したいです。あしからず。(-.-)Zzz・・・