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領土問題解決のために連携強化を [2012年09月05日(Wed)]
etopirika.jpg

   根室港で「ビザなし交流」専用の新造船「えとぴりか」と筆者






7月26日から3泊4日、北方領土の国後島に行ってまいりました。全国各地からの社会科の教師約60人と若干名の中高校生とご一緒でした。北方領土問題の解決に時間を要していることから、元島民の思いを次世代に継承するだけではなく、教育の場を通じて広く啓発していくことがこの教育関係者訪問の使命であるのです。

一行は24日までに根室入りし、25日は終日研修(長谷川俊輔根室市長、河田弘登志元多楽島民、吹浦の話など)や納沙布(のさっぷ)岬の視察を行い、26日朝、新造船「えとぴりか」号で根室港を出発しました。

 私個人としては、もちろん「島」の現状を以前と比べて観察することが第一の目的ですが、11年前、東京財団の日露関係研究部会が中心になって「ビザ(旅券)なし」交流専用船を造ることを政策提言した研究グループのメンバーであり、それをまとめた東京財団の担当責任者だった者として、5月に竣工したこの船に乗ってみることも大事な目的でした。また、この交流に1993年の第1回目から関わって来た者として、交流自体のあり方を考える機会にもしたかったのです。

「えとぴりか」号は艫(とも)に船籍を表わす「日の丸」を掲げ、1,124t、16ノット弱の速度で一路、あらかじめ決められた根室と国後の「中間点」に向うのです。そこでロシアの国旗をメインポールに掲げなければいけません。ロシアの支配を承認するといった意味ではなく、これは現実的な安全のため、否応なく実施せざるを得ない仕儀なのです。

 根室港と国後島の主要港である古釜(ふるかま)布(っぷ)まで、これまでは5時間余りかかっていたのですが、この新造船では2時間40分ほどで着くようになりました。今回は往復ともベタ凪ですこぶる快適、これで霧さえなかったらというのは高望みでしょうか。

 ときどきイルカが水面上に飛ぶのが見えます。「心がけがよければクジラの潮吹きも見えるよ」と船員さんが説明していました。北海道大学を中心とする研究グループによると、北方領土周辺には2千頭以上の鯨が成育しているそうです。

 古釜布港外で停船すると艀「ナデジタ」号がやってきました。この船名は「希望」、日本から支援事業の一環として贈られたものです。今までは一行約70人が同時に艀に乗り移っていたのですが、先般、ヴォルガ川でフェリーの転覆事故があってから規則が厳しく遵守されるようになったとかで、2回に分かれて岸壁までたどり着きました。

過大評価は不要 ― 現地で見る「クリル発展計画」
「クリル発展計画」とやらで、5年間に約540億円の事業をこの地域で行うと言うことで、確かに一部の道路で簡単な舗装が行われたり、街灯が少しついたり、家の外装をきれいにしたりと言うことはあるのですが、何度も北方領土を訪ねた者として、私はこの資金、途中でかなり消えてるなと言うのが率直な印象でした。

 一行には若い教師が多く、中には、「こんな酷い道は初めてだ」とすっかり気分が悪くなり、同行した医師の世話になった人もいました。確かに、今や日本国中、よほどの山間僻地ででもない限り、これほどまでに砂塵が舞う道に出会うことはなくなったと、今さらながら日本のインフラ整備の完璧さと、国後の道路整備の遅れを認識させられました。

 同じ7月3日にメドヴェージェフ首相が2年半ぶりに国後に来、その砂埃の道を自ら少し運転したようですが、政治的パフォーマンスの域を出ず、島側からは「スポーツ施設をつくってほしい」と陳情したのですが、確約はなかったようです。国後島はその程度のインフラであることは確かです。

 島の「ロシア化」は今後とも注目する必要はあります。10年余り前、それまでの映画館をロシア正教の教会に作り変えていたのですが、ようやく本格的な教会建設が進んでいました。

教師のみなさんは、初めての北方領土訪問に、異口同音に「な〜んだ、この程度の発展ぶりか」と言っていました。その上、こうしたインフラの維持・管理の費用が継続的に予算化されるのかという不安を、島民の方から聞くということもありました。

北方領土の住民はよく入れ替わる 人口の流動性がとても高いというのも今回の印象です。島民約20人に聞いてみましたが、国後生まれの人には出会えませんでした。「給料3倍ですので、教師としてやってきました」「ここなら事業が出来そうだとネライをつけて移住しましたが、早くウラジオストクに戻ってこことの取引をしたいです」「ロシアの中では生活は楽なところですが退屈です。11年間の義務教育を終えると上級学校も職場もない。本土に戻ることが目標です」。

 10ヶ所に分かれて家庭訪問したうち、2つの家庭で「島は日本のものだ」「早くに日本の管轄になって大胆な開発を進めてほしい」「ビザなし訪問で福井県に言ったが、あそこは天国だ」という声を聞いたそうです

「クリル発展計画」により、5年間で540億円もが千島列島と北方領土に投じられるとはいっても、船は岸壁に着岸できず、舗装されているのは町の中心部の単線のみ、ちょっとした生活用品は通信販売という暮らしは、なかなか大変なようです。

ロシア語名を付けることには現島民も国際社会も反対訪問していたころ、ロシアのナショナリズムがまた歪んだ形で、露出してきました。北方4島の名称を変更しようという動きがあるのです。国後島はダヴィードフ(活躍した船員の名)またはコサック島、択捉島はナデジダ(希望)または大鮭島、色丹島はフィグルヌイ(探検家シパンベルクが付けた名)または美しい島、歯舞群島はソヴィエツキェかルースキー群島にと、少数政党「公正のために!」のポノマレンコ党首が主張しました。島民の声は「生活条件の向上が急務なのに政治家は名前の変更というくだらないことに情熱を費やしている」「思いつきより実質を」というものでした。

 主導するのは「公正のために!」という、この6月にできたばかりのミニ政党。党員は全国で600人とか。これが10月のサハリン州議会選挙で北方領土に住む有権者の支持を得ようとして、島内で島名変更のための「世論調査」を行うと報道されていますが、これは現島民の実情を知らなすぎる話です。

 第1は、ハボマイ、シコタン、クナシリ、エトロフは言うまでもなくアイヌ語に由来する名称で、日本語の歯舞、色丹、国後、択捉ももちろん当て字、これは世界的に周知されている。EUの駐日代表部や駐日フランス大使館の幹部と反す機会があったが、「地名を今更変更というのはロシアの自信のなさだ」「世界に迷惑をかけることだと認識すべき大統領」と言っていました。「公正のために!」私も反対するほかありません。

 第2は、既に4島の名はロシア社会にあって、好むと好まざるとに関わらず67年間も使用されてきた呼び名であり、無用な摩擦につながることはロシアの良識が認めないでしょう。

 第3は、州議会選挙の票を獲得しようと言っても、北方4島の人口はせいぜい1万7千人程度。そのほとんどがプーチン支持の「統一ロシア」ということです。そして、4島は南サハリンの港町コルサコフ(大泊)と同じ選挙区であり、これまでの州議会選挙でも、独自の候補者を立てることさえできず、当然、島の住民からは州議会議員を出したこともありません。むしろ、特別に1名の州議会議員枠でも作ってこの地区からはかならず1名の議員を出すことができるとでもしたらいいと思うのですが、これは「敵に塩をおくる」類の話。

 第4は、北方領土に現実に居住している人たちは、今さら、タタキ台として示された何のなじみもない名称に「故郷」の名を変えられることを望んではいません。

 さらに第5は、これに伴う日露関係の決定的悪化をクレムリンが喜ぶわけがないということです。クレムリンはもっと冷静な計算で、日本との関係改善を企図しています。

 歴史をみれば、また昨今の周辺諸国の行動を見れば、ロシアに限らず、ナショナリズムは時に、走らなくてもいい時に暴走する傾向があります。

政局の安定が外交の基礎北方領土の返還を要求する日本として、今は時期を待つべき時です。日露関係を進めるには、まず、日本とロシアの政治状況・政局が安定することが最大の条件だからです。7月3日のメドヴェージェフ首相の国後島訪問に続き、8月9日の李明博韓国大統領の竹島訪問、8月15日の尖閣諸島魚釣島への香港の活動家たちの上陸。政局不安定の日本がいかにもなめられている状況にあります。

「国民の生活が第一」と言われても、「国会の政局が第一」としか私には聞こえません。
日本に主権問題、外交、安全保障に挺身する志を持った政治家が出てこなくては、周辺諸国との関係は悪化するばかりではないでしょうか。仲間を集い、そうした政治家を支援してゆくことも、これからはユーラシア21研究所の大きな使命の1つかと考えます。

今ひとつは、百歩譲って「引き分け」の形で4島問題の解決を図るなら、日本はどんな見返りや譲歩が可能かにチエを絞ることではないでしょうか。「4島一括」は譲れません。しかし、その条件で、どんな方法でロシア側にも眼に見える、妥協し易い条件を作ってやるかも、民間団体ならではの研究できる課題ではないでしょうか。

そして、それらを有効活用するためにも、領土問題を総合的かつ戦略的に考究する組織の構築が望まれます。ユーラシア21研究所は師・末次一郎先生たちが始めた、私も最初から関わって来た安全保障問題研究会(現在の会長は、袴田茂樹新潟県立大学教授)とタイアップして、40年の実績をもとに、そのリーダーシップを担いうるものと確信します。

今月はウラジオストクで通算3回目の「東京・ウラジオストクフォーラム」を開催し、来春には同じく29回目に当たる「日露専門家対話」(かつての「日ソ専門家会議」)をモスクワで開催します。ほかにこれまでサハリン州行政府との間で10回の「サハリン・フォーラム」も開催し、率直な話し合いを継続してきています。

国後島で暗い夜道を散策しながら、この島の行方と日露関係の進路を思い浮かべ、以上のような感想を書かせていただきました。
ほら、中国が琉球を要求してきた [2012年07月14日(Sat)]



P2062059.JPG





産経新聞電子版でこんなニュースが
流れている。

    ∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋

沖縄・尖閣諸島(中国名・釣魚島)の
領有権問題に絡み、
中国国防大学戦略研究所所長の
金一南少将が「沖縄は中国の属国だった」との
“暴論”を展開していたことが
13日までに明らかになった。

現役軍高官の発言だけに、波紋を呼びそうだ。

中国国営ラジオ局、中央人民広播電台の
ウェブサイトに掲載された
インタビューによると、金氏は
「釣魚島問題に関しては、
必ず行動を取ることが必要だ。
さらに大きな見地からみれば、
今後(議論を)始めなければならないのは
沖縄の帰属問題だ」と訴えた。

金氏は、日本が1879年以降、
「琉球」を強制的に占領し、
住民に琉球王室や当時使われていた
清国の年号や銅銭を忘れさせるために
「沖縄」と改名したと主張。

日本の占領を認めるに足る
国際条約はないなどと持論を展開した。

さらに「沖縄は当時、独立国家として
中国の属国で、
中国との関係が非常に近かった」と
世論を扇動。

中国のインターネット上には
「琉球群島は中国の属地だ。
日本は出ていけ!」
「人民解放軍よ、早く琉球を解放して」
などの過激な意見が寄せられている。

  ∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋

次は、昨年10月27日の小欄です。

 ☆★∴∵★☆∵∴☆★∴∵★☆

天児 慧(さとし)早稲田大学大学院教授は
わが国の代表的な中国研究家として
私が日ごろ、私が
大いに尊敬している方です。

その天児先生に、こともあろうに、
この浅学菲才の私が昨日、
公然と論駁してしまいました。

日本国際フォーラムで開催された
「日中有識者対話」の席上でのことです。

中国側が7人、日本側はざっと
30人ほどで、
天児先生は日本側を代表してただ一人、
基調報告をされました。

すばらしい分析でした。ただ、
その中で
「尖閣諸島を共同主権とし、
管理は日本が行う」という
「私案」を提示されました。

居並ぶ日本側の、
元外交官や学者等、
「有識者」(いやな言葉ですね)が
嫌な顔をされ、隣席同志で、
「これはひどい」
「なぜ事前にチェックしないんだ」などと
ささやきあっています。

一党独裁国の代表団を相手に、
日本側が意見の対立をすることの
マイナスは1973年以来の
「日ソ専門家会議」で
何度か味わっていますが、
ここで黙っていては、
これは日本全体を代表する考え方だと
いうとんでもない誤解を与えかねません。

天児教授とは先年、
天児先生の元ゼミ生できわめて有能な
女性(難民を助ける会職員)の
結婚披露宴でご一緒し、
そのときの新婦とは先週、上海で
ご一緒しているしなどということもあり、
一瞬ためらいはありましたが、
その間、湯下元駐比大使が、
「尖閣諸島について、
ECAFEが周辺に石油資源があると
報告書を出して、
台湾が領有権を主張し始めて、
中国はようやく自国領だと
言い出したに過ぎない」と
まずは紳士的に正論を提示されました。

そこで私が強く発言を求め、
@ 天児先生の発言には本席には
賛同する人がおらず、日本側の
有力な考えだと誤解しないでもらいたい、

A 島の領有について
外国からクレームをつけられれば、
たとえわが国固有の領土であっても、
その場所を「共同主権」とすべきだ
というならば、
韓国が対馬の領有をさらに言い募り、
中国が琉球列島でも要求してきたら、
これも紛争地だから
「共同主権」だとして
「解決」しようとするのか、
と天児先生を厳しく糾弾しました。

案の定、中国側の崔国際関係研究所長は
「I appreciated and
very much impressed prof. Amako’s proposal…」
と、最後の締めくくりの発言をされました。
がっちり受け止められたようです。

こうした場合、
天児先生が配られた同趣旨の「レジュメ」は、
しばしば一人歩きしますので、怖いのです。

こういう提案は、十分、関係者で練り上げ、
検討・吟味してからにしていただかないと、
ことは主権に関する重要な国益に関わります。

出席者は、私の発言に大きな拍手してくれましたが、
今後が心配です。

終了後、天児先生とは互いに歩み寄って、
しっかり握手し、個人的な感情のしこりを
残さないようにしたつもりですが、
頼みますよ、天児先生。

きっどこかで中国が
「琉球も・・・」と言ってきますから。

    ✾  ✾  ✾  ✾  ✾

以下はウィキペディアに拠る。

天児慧(あまこ さとし、1947年7月17日 - )は日本の政治学者。社会学博士(一橋大学)。早稲田大学大学院教授、第16代アジア政経学会理事長。
早稲田大学国際学術院、大学院アジア太平洋研究科教授。朝日新聞書評委員も務める。
専門は、中国政治、現代中国論、現代アジア論、東アジア国際関係論。
1999年天児から2001年までアジア政経学会理事長を務めた。1989年、第1回アジア・太平洋賞特別賞を受賞
南沙群島と日本 [2011年11月25日(Fri)]











南シナ海に浮かぶ
約100の小さな島々から成る南沙群島、
すなわちスプラトリー諸島(Spratly Islands)に
まつわるさまざまな問題について
相次いで研究会が開催され、
熱心な議論が行われた。

非公開の研究会なので、
詳細をお知らせすることは出来ないが、
少し考えてみたい。

南沙群島はもともとは近代国際法上の
明確な支配がなかったところ。

それを、今のインドシナ三国を
植民地支配していたフランスが
1930年から
少しずつ実効支配を開始し、
ベトナム総督M. J.クローテメールが
1933年12月21日、
ベトナムのバーリア省の一部と決定した。

リン鉱石の採掘と漁船の立ち寄り程度で、
経済的な実効支配とか、
定住者がいたといったレベルではない。

しかし、5年後、フランスは
日本の仏印進駐との関係で日本に静穏に譲渡し、
わが国政府はこれを新南群島と命名、
同年12月に台湾の高雄市に所属せしめた。

このとき、日本の領土は北は千島列島の
最北端・占守(しゅむしゅ)島から
南はこの新南群島までに拡大した。

日本人は、リン鉱石の採取にあたる
従業員が滞在したくらいであったが、
大東亜戦争の開戦とともに撤収した。

フィリピンが一部の領有を宣言したのは
1949年。

1951年のサンフランシスコ講和条約で
日本は領有権を放棄せしめられた。

その後、1956年10月22日に南ベトナムが
大統領令により同国の
バーリアからフォクトイ省に帰属先を変更した。

他方、中国も翌年1月以降、
南沙諸島の領有権主張を展開し始めた。

ここでも中国は、南沙諸島周辺の
海底で石油資源の存在が確認されたことが
領有権主張開始の1つのきっかけになっている。

法も正義も、歴史的事実もお構いなしだ。

島そのものには居住性がないないが、
水産や海底のエネルギー資源などは期待できる。

また、航海の安全や安全保障の面では
無視できないものがある。

そのため
ベトナム、フィリピン、マレーシア、
ブルネイ、台湾、中国が
それぞれのニュアンスは違うし、
主張の範囲も異なっているが、
領有権を主張している。

現在、島を実効支配しているのは
まず台湾。21世紀に入ってからは
最大の島である太平島に
短い(1150m)のものとはいえ、
滑走路を建設、
先年は閣僚がこの島を訪問して
自国軍将兵を励ますなどした。

中国、フィリピン、ベトナムの3カ国は
厳しくぶつかり合い、
昨年は中国がベトナム監視船の
ワイヤーを切るといった突発的?な事件も
起こっている。

また、マレーシア、ブルネイは一部の島につき
領有権を主張している。

南シな海にある似たような名前の
東沙群島は台湾が、
西沙群島は中国が全面支配している。

私は日本でこの問題が
もう少し知られていいし、
日本政府もいま少し積極的に動いてもいい
経緯があるように思う。

その理由は以下の通り。
@ 周辺海域はわが国の重要なシーレーンであり、
その自由航行の確保は国益そのものである。

A 関係諸国はいずれもわが国の友好国であり、
日本がかねて膨大な経済協力を実施してきた
地域である。

B ここでいずれ決定されるであろう
解決のルールは尖閣諸島を始め、
世界の海洋にかかわる諸問題に
大いに影響すると思われるからだ。

日本の外務省は間接的に情報収集などを
していることとは思うが、
メディアや日本人一般がもう少し
関心を持っていい話ではあるまいか。
日本の領土・東西南北端は? [2011年08月01日(Mon)]
   





          

   かつての日本の最北端・千島のあらいど島。








 沖縄県波照間島で。但し、この表示は正しくはない。ここは定住人口のある島の最南端である。2008年撮影。   












  択捉島内岡(なよか)湾で。後方は散布(ちりっぷ)山











  与那国島西崎(いりざき)。2008年撮影。











   南鳥島(マーカス島)。海上保安庁提供












 まずは、産経新聞の報道を
ご覧いただきたい。

  ❀❀★❀❀❀❀❀❀★❀❀❀

 青年経済人や若手経営者が加盟する
「日本青年会議所(日本JC)」が
全国の高校生約400人に地図を示して
日本の国境を描かせる調査を行ったところ、
正解できた生徒は
全体の2%にも満たなかったことがわかった。

わが国の領土をめぐる不穏な出来事が相次ぎ、
国民の不安は高まっているが日本JCでは、
大半の高校生が国家の形すら
正確に描けていない調査結果を
深刻に受け止めている。

 調査は今年7月上旬から
日本JCの主権国家確立委員会が行った。

有効回答数は400人。

高校生に千島、樺太と北方四島、
日本海、東シナ海(南方)の
3つの地図を示して
日本の国境を実際に書かせた。

 その結果、南方の国境(与那国島まで)の
正答率は26.3%の105人。

北方の国境(宗谷岬、択捉島まで)は
正解者59人「14・8%」で、
日本海の国境
(対馬まで、竹島と鬱陵(ウルルン)島の間)を
正解したのは37人「9.3%」。

全問正解者はわずか7人(1・8%)だった。

自信満々に答えた生徒は少なく、
択捉島や与那国島がわからなかったり、
竹島と鬱陵島を取り違えたりし、
「習っていません」と答えた生徒も目立った。

 同委員会の小田剛委員長は
「結果を憂慮している。まず
国の形を正しく知ることは考えたり、
主張するうえでの大前提だからだ」と指摘。

小田氏によると、
満足に答えられない傾向は大人も同様で
「国民として当然、知っておくべきことを
学校はもちろん、
大人がきちんと教えてこなかった。
それが端的に調査結果に表れた」と
警鐘を鳴らす。

★ .。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:

日本の
最北端は択捉島ラツキベツ岬、
最東端は南鳥島、
最南端は沖の鳥島、
最西端は与那国島の西崎(いりざき)
である。

このうち、一般の交通手段で
訪問できるのは、西崎のみ。

択捉島は「ビザなし」訪問などで
行くことは出来るが、
さまざまな条件がある。

ことにラツキベツ岬となると、
戦後、ほとんど訪問した例がない。

南鳥島には、
海上自衛隊員や気象庁の職員が
交代で勤務している。

東京都に所属している。戦時中、
最初に爆撃された「本土」。

沖の鳥島は、満潮時は
せいぜい私のデスクくらいしか
海上に頭を出さない。

国連海洋法で言う島であることを
はっきりさせるため、周辺の
岩礁を活用して、さまざまな
「経済活動」を試みているが、
中国はこれを単なる岩に過ぎないと
クレームをつけている。

国土交通省や東京都、
海上自衛隊はしかと保全と監視に
努めているが、
かつて日本財団がしたように
チャーター船でも用いない限り
訪問することは出来ない。

それでも、本籍をここに置いている人は
数百人いる。事務は小笠原村役場が
行っている。

択捉島と与那国島からは対岸が見える。

すなわち、得撫(ウルップ)島と
台湾が臨めるということだ。

外国が見えるという点からいえば、
長崎県に所属する対馬の北端からは
釜山が見える。棹崎には
「日本最北西端」としるした碑が建っている。

私は以前、対馬からも釜山からも
対岸を見たことがある。驚くほど近い。

北海道稚内市の宗谷岬には
「日本最北端の碑」があるが、
これは間違い。

歴代の市長に注意しているが、
「これしか観光資源がないので」と
困った返事しか返ってこない。

それはそうとJCさん、
全部正解だった人が1.8%に過ぎないと
嘆かれるが、いやいやどうして、
以上、私が書いてきたことは
専門的というより、
ややマニアックの域
ではないのだろうか。

これを超える知識は、例えば、
日本の地理的中心、へそ、重心、
本州の最東端などとなり、
あまりにマニアによるクイズ的に
なってしまう。

でも、待てよ。
先月は、そのJCの委員会に招かれて
根室まで行ったが、そうか、
以下のようなイジワルクイズでも
すれば良かったかな?

@ 日本の最北端の地方自治体は?
A 日本の最南端で定住人口のある町は?
B 日本の最東端の市は?
C 日本の最西端の市?

回答は、小欄のずう〜っと下。




















@ 北海道稚内市
A 沖縄県竹富町
B 北海道根室市
C 沖縄県石垣市
竹島と日露戦争は無関係 [2011年03月06日(Sun)]



    最近の竹島




 先日、尖閣諸島の閣議決定による編入と
日清戦争との関係を書いたところ、
島根県の加藤さんと言う方から
竹島の閣議決定についても、
日露戦争との関係を明らかにしてほしいと、
メールをいただきました。

 1905(明治38)年は、元旦の旅順開城で
明けました。ついでながらこの日から夏目漱石が
雑誌『ホトトギス』で、処女作『吾輩は猫である』の
連載を開始したのです。

隠岐島と鬱陵島の間にある竹島を
日本政府が閣議で
島根県隠岐島司の所管としたのは1月28日。

日露戦争の陸上戦闘を決した奉天大会戦は
このあと 3月10日のことでした。
 
 時の流れは以上ですが、
結論から言うと、
竹島の領有とロシアは無関係なのです。

そしてこの編入は秘密裏にでも
何でもないのです。

閣議決定ですから公開しますし、
官報でも報道しています。

ですから、当時の韓国に充分な統治能力、
外交調査力があるならば、
すぐさま日本に書簡を送るなり、
何らかの外交的手段で
抗議をすべきだったのです。

 それをしなかったのでは、
今になって
言い分がなりたちません。

日韓併合は1910年のことであり、
満35年間、日本は貴国を領有していました。

 それは事実ですが、40年間
領有していたわけではありません。

 日韓併合とは別の
単独の事象なのです。
尖閣諸島と日清戦争の関係 [2011年03月03日(Thu)]





        尖閣諸島




 日本プレスセンターを海上にまだ続いている
外務省主催の
「ジャーナリト会議2011」の会場を
離れて、急に、このブログを書きたくて
別室に来ました。

 キューバ紙の特派員(日本人)が、
「尖閣諸島は日清戦争の結果、
日本が領有することになった」と
とられる発言をし、
さすがに、
司会の布施広毎日新聞編集委員が
誰からも回答を求めないで
論議を打ち切りました。

 それは正しいと思います。

それまでに
いずれの国も実効支配したことのない場所を
無主地といいます。

尖閣諸島には何の生活の根拠もなく、
経済活動が行われた記録もありません。

日本の領有する地となったのは
日清戦争(1894〜95)の10年前から
日本がさまざまな調査を行って
そのことを確認し、閣議で
1895(明治28)年1月28日に島根県への編入を決定、
2月22日、これを受けた島根県知事が
所属所管を明らかにする告示を行った土地です。

前年から続いている日清戦争は、
1895年3月から下関の春帆楼に
李鴻章直隷総督兼北洋通商大臣
を迎えて和平交渉となりました。

清国側では事実上、李鴻章麾下の部隊だけが
陸上戦闘を行っていました。

そして、4月17日に
大日本帝国全権である伊藤博文首相、
陸奥宗光外相、李鴻章大清帝国全権が署名して
日清講和条約(馬関条約、下関条約)と
なったのです。

批准はわずか3日後でした。

その間、3月24日には、
李鴻章が小山豊太郎という男に狙撃を受け、
負傷するという事件が起こりました。

小山は3月30日、山口地裁で
無期徒刑の判決を受けたのでしたが、
列国の干渉をおそれた日本は、
まず休戦条約を調印し、
日清講和条約の調印も急いだようです。

 それはともかく、
尖閣諸島の領有決定の決定はそれよりも前である
ということです。

日清講和条約の第二条は、

 清国ハ左記ノ土地ノ主権並ニ
該地方ニ在ル城塁、
兵器製造所及官有物ヲ
永遠日本国ニ割与ス

 1. 左ノ経界内ニ在ル奉天省南部ノ地
鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ
安平河口ニ至リ該河口ヨリ
鳳凰城、海城、営口ニ亘リ
遼河口ニ至ル折線以南ノ地
併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス
而シテ遼河ヲ以テ界トスル処ハ
該河ノ中央ヲ以テ経界トスルコトト知ルヘシ

遼東湾東岸及黄海北岸ニ在テ
奉天省ニ属スル諸島嶼

 2. 台湾全島及其ノ附属諸島嶼

3. 澎湖列島即英国「グリーンウィチ」
東経119度乃至120度及
北緯23度乃至24度ノ間ニ在ル諸島嶼

です。

その第一項は露仏独による「三国干渉」の結果、
実施に至りませんでした。
 尖閣諸島は北緯25.00〜26.30度
東経120.00〜15.00度に位置しており、
日清講和条約第二条三項とは関係ないのです。

こういう機会に
頭をクリアにさせていただいたことを
「変な質問」をしたかなり高齢の記者さんに
お礼をいうべきかなぁ。
中国製尖閣日本領の地図 [2010年10月13日(Wed)]









「史実を世界に発信する会」の茂木弘道氏は
尊敬する友人の一人である。

日本にかかわる史実を検証し、
それを得意の英語にして、
事実上、ご夫妻だけのご努力で
世界に発信しているのである。

 これまでも「南京事件」のトリックを見破って
発信したのをはじめ、
関係のお仲間から情報を得ては、
傍証も固めて論証してきておられる。

 昨日は、5枚の地図をおくってくださいました。

1.『世界地図集』(1960年。北京市地図出版社)

2.『世界地図集 第一冊 東亜諸国』
 (1965年、台湾の「国防研究院」と
「中国地学研究所」が共同で出版)

3.中華民国長崎領事からの感謝状(1920年)

4.1969年中国政府制作の機密扱いの尖閣諸島の地図
 (Washington Times 2010年9月15日号)

5.人民日報、1953年1月8日号 

いずれも、
尖閣諸島を明らかに日本の領土としているものです。

 もとより、ただちに自国の誤りを認める国や
国民ではないのでしょうが、
こういう歴然とした証拠を少しずつ示すことによって
開明されていくことは、
当面、武力不行使の日本としては
まめにやり続けるべきことかと思います。

 学術研究などのために特に、必要な方は
ご連絡下さい。お名前、所属・役職、メルアド、電話番号を
ご記入下さい。

尖閣諸島と古賀氏 [2010年10月12日(Tue)]












    尖閣諸島における古賀辰四郎氏


尖閣諸島についての論文の続編です。

    ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

古賀氏は開拓事業と並行して明治17年(1884年)から継続しておこなってきたアホウ鳥の鳥毛(羽毛および綿毛)採取、フカの鰭、海参、貝類、鼈甲の採集に加えて、明治36年(1903年)以降海鳥の剥製(同年剥製造り職人10数名移住)、明治40年(1907年)以降珊瑚採集、明治41年以降海鳥の缶詰製造までもおこなってきた。

古賀氏はまた明治17年以降小規模な鰹漁を列島で営んできたが、明治38年(1905年)遠洋鰹漁船3隻を内地で新造(注 明治39年5隻その後も毎年2〜5隻を建造し、このほか珊瑚採取船も毎年5隻平均新造している)させるとともに、宮崎県下より鰹節製造職人数十名を雇い入れ列島にと派遣している。

 さらに同氏は明治40年(1907年)福岡鉱山監督署に燐鉱石(グアノ)の採掘出願をおこない、同年8月19日これを認可されるや、ただちにグアノ(鳥糞)の採掘に着手した(注 グアノの採掘と積み出しは第一次大戦の結果船価が高騰し採算がとれなくなる大正8年頃までおこなわれた)。

 古賀辰四郎氏の死亡後その嫡子善次氏によって開拓と事業が続けられ、とくに魚釣島と南小島で鰹節および各種海鳥の剥製製造、森林伐採などの事業が営まれてきた(注 古賀善次氏による事業の最盛期には鰹節製造の漁夫80人、剥製造りの職人780人が魚釣島と南小島に居住していた。

ただしアホウ鳥の鳥毛採取は乱獲と猫害などのため大正4年以降、また鰹節の製造も太平洋戦争直前に船舶用燃料が配給制となったため、中止された)。

 大正15年(1925年)8月古賀辰四郎氏に貸与していた国有地四島の使用期間が満了したため、政府は以後1年契約の有料賃貸に改め、貸地料金136円61銭(四島合計額)を徴収、引続き使用を認めた(大正15年9月から昭和6年3月までの4年8ヵ月)。

 しかし、昭和7年(1932年)古賀善次氏が国有地四島の払下げを申請してきたので、政府は同年3月31日、これを有料で払下げた(注 売買価格は魚釣島1825円、久場島247円、南小島47円、北小島31円50銭。

なお所有権移転登記は、魚釣島および久場島については同年5月27日、南北二小島は同年7月28日)。民有地に移管された後の魚釣島など四島は有租地となったため、同年12月15日賃貸価格が設定されるとともに、この賃貸価格を基準とした地租が徴収されることとなった(注 賃貸価格は昭和11年6月1日法律第36号により改訂された。

昭和7年の賃貸価格は9円30銭、昭和11年6円20銭)。
小笠原復帰と北方領土 [2010年07月22日(Thu)]











小笠原の本土復帰は、
北方領土返還時の参考になる。

実際、私は訪問後、当時の特殊法人北方領土問題対策協会内に
設置されていた研究会で報告、
「北方領土返還後の基本的なあり方」について
まとめるうえで、大いに参考になった。

この「北方領土返還後の基本的なあり方」については、
露文に翻訳され、ロシアの中枢のみならず、
サハリンや北方領土で大いに注目された。

私自身、長いインタビューを択捉島の地域新聞「赤い灯台」から
受けて、同紙に大きな記事として掲載されたことがある。

では、その小笠原は返還後、どのように行政が行われたのか。

  ===================

返還後の小笠原にはまず、
自治省からの
塩田章総合事務所長(後の防衛施設庁長官)など
国、都の職員がやってきて、
南極探検にも似た集団生活をしながら、
諸条件を整えて行った。

道路、水道、電気、電話といった
公共工事の実施とともに、
米軍の撤退で職を失った欧米系の人たちの雇用、
そして、教育を日本式に替えるのが大仕事だった。

欧米系の若い人たちは日本語を解さなかったが、
新たに赴任してきた教師たちは、
時間外に日本語の基礎を教えるボランティア活動をした。

旧島民の所有地に欧米系の人たちが
自宅を建てていたこともトラブルの一つだった。

こうした経験がいつの日か
北方領土が返還される過程で役に立つものと思われた。

そして、中でも大事なのは
その任にあたる人を得るということと思えた。
復帰25周年を過ぎた今(1994年)、
当時の職員を慕う欧米系の人たちや
初期の帰還島民が大勢いる。

安藤光一村長が「小笠原丸のカレンダーが
観光にだけ頼る今の体質が
もう少し幅の広いものにならなくては
島の発展には限度がある。飛行場の建設、
テレビの受信、土産物の生産など課題が多い」
と島の現状を説明するが、
何といっても飛行場の整備だろう。

これなくしては小笠原の孤島性は基本的に変わるまい。

それとともに、国の特別天然記念物メグロをはじめ、
小笠原にしかいないという動物や
ここだけの植物などに満ちた環境保全が課題となろう。
                     (完)

     ==================

 以上は、1994年に、政策研究集団・新樹会の
月刊紙「新樹」に書いたものを収録した。

 飛行場は未だ見通しが立たないまま、
環境保護が最優先という判断に至っている、

 超高速船の就航は、成算が成り立たないとして
沙汰やみとなった。

 島民の生活不便は、片道30時間近い
船便に象徴されているように、依然、
ほとんど改善されていない。

戦時中の小笠原諸島 [2010年07月20日(Tue)]









難攻不落の島で悲劇も
父島は戦時中、要塞島だった。

昭和19年6月、7,700人の総人口のうち、
青壮年約300を軍属として残したほか、
一切の住民を内地に強制疎開させ、全島にトーチカを構築、
ハリネズミのようにした。

欧米系の青年も招集を受けて中国戦線などで戦ったが、
残された者はみな内地に強制疎開した。

父島は上空から見ると、
右手を手刀にして脱力状態にしたカニの爪のような形だ。

中央に大きく窪むところが二見湾、
大きな海浜はここだけであとは軍の上陸は
ほぼ不可能な断崖になっている。

だから二見湾に機雷を敷設し、
砲台を並べると、この島への攻略は至難となる。

硫黄島を攻略した米軍は艦砲射撃と空襲で父島を攻めたが、
難攻不落とはこういう島をいうのであろう。
人のいない人家は焼けたが、高射砲で米軍機も撃墜された。

後に大統領となったブッシュsr.(パパ・ブッシュ)の登場機も
撃墜され、パラシュートで着水、救助された。

大統領引退後、小笠原を訪れている。

問題はそのあと、戦意昂揚と称し、
捕虜になった搭乗員を殺害し、
人肉をカレーライスに入れて食べたということで、
戦後、立花中将以下9人がグアム島に連行され、
死刑となった。
                         (つづく)


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