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「国際化」の初出と沿革 D [2006年05月03日(Wed)]





  「international」の訳語として「国際」が初めて登場した時期については未だ明確ではないが、おそらく明治になってからではないだろう。

   当時、「世界」は「萬國(万国)」であり、「泰西」であった。したがって、「国際法」は、幕末から明治初期にかけては「万国公法」と呼ばれていた。「泰西」の原意は、「極めつけの西」ということであるが、遠い西洋世界ないし欧米先進諸国、キリスト教社会を意味する言葉であった。

   法学者・箕作麟祥(1946~96)はそれまで「国憲」といっていたconstitutionを初めて「憲法」と呼称したことで著名であるが、1873(明治6)年、エール大学のテオドル・D・ウールジー(1801〜89)による『Introduction to the Study of International Law』(1860)の翻訳書を刊行したとき、『國際法 一名萬國公法全書』として初めて「国際法」なる言葉を用いた人でもある。

  また、奇しくも1897(明治30)年の没年がわが国における「国際法学会」の創立年であった。

   しかし、この間にあっても、日清戦争(1894〜95)における「開戦詔勅」には「苟モ國際法ニ戻ラサル限リ」とはあるものの、当時、わが国での呼称は通常、「万国公法」であり、1899(明治32)年に、わが国を含む欧米亜26ヵ国が参加してハーグで開催された会議も「万国平和会議」と称せられた。

  喜多村和之広島大学教授によれば、「『国際化』という用語は、《教育の国際化》という用法で、すでに大正11〜12年(1922〜23年)にかけて現れている。

  戦後では1960年代になって出現し始め、政府公文書に限定し、その初出は1967年から1970年にかけてである」とのことだ。

  小欄の筆者・吹浦も参加した日本人の国際化研究会の成果をまとめた澤田昭夫/門脇厚司編『日本人の国際化―《地球市民》の条件を探る』(日本経済新聞社 1990年)の中で、伊藤彰浩広島大学教授は第1章「日本における国際化思想とその系譜」の論文で、大正時代に「国際教育推進を主張する論者の中には、それを〈教育の国際化〉と表現する人もいた。

  断定的なことは言えないが、これは国際化という言葉の使用例としては、おそらく最も早い時期のものであろう。

  この〈教育の国際化〉論の一例として、下中弥三郎の『日本における教育の国際化運動』(『国際連盟』1922年7月号)を取り上げてみたい」などと論述している

  ただ、これより先に、徳富蘇峰主宰の雑誌『日本及日本人』の1920年春季特別号に、1913年から連載した『大菩薩峠』で近代的大衆小説の創始者とされ、大衆文学の頂点に立った中里介山(1865〜1944)が『国民思想の国際化』という一文を載せている。

   しかし、「国際化」の言葉はその後ほとんど用いられなくなり、戦後期では、「国際化」という表現は1960年代になってようやく出現し始めたようだ。

   喜多村教授の調査によれば『日本経済新聞』(1961年11月8日付)のコラムで、以下のように、「国内政策も国際化」という表現法が戦後始めて用いられているとのことだ。これが戦後における「国際化」というタームの初出であるとは断言できないが、少なくとも1960年代当初にはこの用語が使われ出していることは明らかだ。

「…現代の世界各国の経済は、相互に密接に関連するようになってきているので、国内経済政策も、それが国外面でどのような影響を与えるかについては、常に慎重な考慮を払わなければならない。いわば《国内経済政策の国際化》が進んでいる。以前であれば、国内の経済政策を外国からとやかくいわれるのは内政干渉だという反発を受け兼ねなかったわけであるが、近年の傾向としては、国内経済政策の面でも国際的協調を図ることがむしろ当然と考えられるようになってきた。…(中略)経済政策の面で国内、国際の境が次第に薄れてきていることは注目を要する点である。」(コラム『大機 小機』「国内政策の国際性」)。

    第2の用例は約半年後の1962年7月15日付で、「国際競争に生きる途」と題した、池田勇人自民党総裁再選にあたって出された「12氏共同宣言」なる文書への登場だ。

  喜多村授は、『国際化』というこうした用例について、「注目すべき点は次の4点だ」と続ける。

@ 国際化という用語がカッコ付きで用いられており、そのことはこの用語がまだ一般的に使われていたものではないことを示唆している。

A「国際化」という考え方はまず経済・政治の分野の現象を表すものとして取り上げられている。

B「国際化」の意味は、ここでは「国際政治政策」の国外への影響、経済力の強大化の理論にもとづいた国外経済との調整・協調の必要性と、経済政策の面での「国内、国際の境」が薄れてきていること、という意味で用いられている。

C「国際化」という用語は1960年代には、経済専門紙の『日本経済新聞』に限って現れており、『朝日新聞』等他の一般紙にこの用語が現れてくるのは、さらに約6年遅れた、1967年以後になってからのことである。

  つまり、最初は国や国の経済が世界に通用するようになることを意味するかのような用例だったものが、やがて一般紙誌にも頻繁に登場するようになり、「日本の国際化」「日本人の国際化」、すなわち、「日本(日本人、日本社会)がもっと国際的に通用する国家(人間、社会)にならねばならない」といった議論が盛んに行われるようになる過程で、「国際化」という言葉が頻繁に用いられるようになったのであった。

  ただ、これは裏を返せばそれほど当時の日本社会は国際化していなかったし、そのことが時代への対応に際し、深刻な課題になりかけていたということだろう。
「国際化」の変遷 B [2006年05月03日(Wed)]





  後述のように、「国際化」という言葉の使用は決して古いものではないが、その概念は日本の歴史に古くさかのぼることができる。

  たとえば古代から近世にかけてわが国は大陸やヨーロッパの国々との交流に行くたびかの波ともいうべき変遷があった。

  明治以降になってからも、「欧化」「文明開化」「近代化」などといった用語の中に「国際化」と共通した内容を感知することができる。

   日本の近代現代史において「国際化」は以下の6期に顕著に、かつ特徴的に出現した。

  @「文明開化」期。西洋文明の積極的な受容の時期。文芸作品などでもやがて西洋文明摂取の必要性と民族的自尊心との間の相剋があらわれてくる。

  A大正期の国際協調論隆盛の時期。わが国が国際連盟で枢要な地位を占め、「教育の国際化」が主張された。「国際化」という用語の初出はまずこの時期に見出される。

  B独自の国際秩序を追求しようとした「大東亜共栄圏」構想の時期。

  C第二次大戦直後、マッカーサーを長とするGHQの指導による受動的な「平和国家論」としての国際化が叫ばれた時期。

  D1960年代以降、日本経済の対外進出の拡大や世界経済との関連の進展に伴う経済を中心とした時期。

  E情報技術の発達を基盤に、日本人が大量に海外渡航したことにも関連し、人々が国際的な視野や視点でものごとを考えたり、異文化を受け入れようとする「思考の国際化」をめざす時期。

    そして、21世紀の現在、生活、教育、芸術、文化、経済、金融といった分野から、安全保障、政治、国家の存立まで、不断に世界という視座の中で思考し、対応してゆかねばならない時代になっているということができよう。
「国際化」の語義 A [2006年05月03日(Wed)]




  近年、わが国においては「高齢化」「情報化」などと並んで、社会的な特質を表す言葉として「国際化」が多用されているが、その語義はいささか漠然としており、必ずしも明確とは言い難い。

  その理由の1つは、訳語上それに対応する英語である《internationalization》の語義(ニュアンス)に対比すると明らかに乖離しているからだ。光田光正桜美林大学教授は『「国際化」とは何か』(玉川大学出版会、1999年)で、「日本語の《国際化》には《internationalization》では言い表せない日本的心情が入っている」とし、「日本に長くいる英語圏の人々はそこを読んで、kokusaikaとローマ字でいうことが多い」と述べ、「この言葉のあいまいさや微妙なニュアンスを汲み取るべきである」としている。

  日本社会や日本人の国際化の進歩に伴い、わが国の福祉も単に、日本国籍を有する日本国民のみを対象としたものであってはならず、これからは国際化の進歩に合わせた、より広範な人々を考慮したものでなくてはなるまい。

  ところで、《internationalization》が『Webster English Dictionary』に初採録されたのは、1964年である。

  同辞典第三版(1976年)によれば、「関係、効果、あるいは範囲を国際的なものにすること、とくに国際的管理もしくは保護のもとにおくこと」を意味する。

  また、『Oxford English Dictionary』(1961年)』(OED)では、「性格もしくは使用を国際的にすること、特に近代政治学で、(国もしくは領土などを)複数の国の共同統治もしくは共同保護のもとにおくこと」という定義が与えられている。

   実際にこの言葉「国際化」は、スエズ運河やアングロイラニアン石油会社の「国有化」といった場合に対応する言葉として用いられ、国営会社の株が国際的に公開されたような場合や特許権の国際的な解放を「国際化」という場合もあるようだ。

   このように、「internationalization」は一義的にその意味する内容が明確であるばかりでなく、日本語の「国際化」の概念とはそれによって表現される中身が大きく異なっているのである。

  日本の国語辞典における「国際化」の語の採録はきわめて最近のことで、小学館の『国語大辞典』(1981年)が最初である。しかし、それより2年遅れて出た岩波書店の『広辞苑』(第三版、1983)にはこの語は見当たらない。

  最新の『日本国語大辞典』(小学館、2001年)によると、「国際的なものになること。世界に通用するものになること」と定義している。『広辞林』(三省堂、1995年)では「国際的なものにすること。万国共通のものにすること。」となっている。

  また、『大辞林』(三省堂、1995年)には、「国際的な規模に広がること。例、経済が国際化する」とある。これら三つの定義にはニュアンスの違いはあるが、日本語の国際化はたぶん両方の意味を含んでいるといえよう。

  しかし、いずれにせよ、その意味するところは漠然としており、多様な内容が含まれている可能性を感じさせる。

   ここで注目すべきは、「国際化」は一般的に、日本の国自体ないし日本人そのものについて用いられるのと対照的に、「internationalization」は明きらかに「他者ないし他国民」を対象として用いられる単語であるという点である。

  つまり、「国際化」は「自己変革」の目標であったり、方法や過程に関する議論なのである。

  国語辞典の定義にもこのような日本人の一般的理解ないし無意識的な了解が、反映されているといえよう。

  ところが、「internationalization」は、国際化される対象は「他者ないし他国」であり、「自国ないし自分自身」は含まれていないのが通常である。自分はあくまで国際化する主体であるという認識に立っていると考えられる。

  光田教授をはじめ、このような国際化に関する日英の言葉の差異を、「“なる”の国際化」と「“する”の国際化」と区別する人もいる。

「国際化」と同様の言語は、どうやら韓国語の「セゲファ(世界化)」くらいのものではないだろうか。

  日本語の「国際化」や韓国語の「世界化」は、しばしば国際感覚やグローバルな意識において「遅れている」「自ら」ないし「自国」が国際社会に仲間入りし、世界に通用し、あわよくば世界に尊敬される存在になることを理想とするようなニュアンスが強く、対象を開明する、ないししようとする「internationalization」とは、語義や語意、ニュアンスが対照的であるといえよう。
「国際化」という言葉 @ [2006年05月03日(Wed)]





  世界全体のいわゆるグローバル化の進捗に伴い、日本社会もまた否応なしに急速に、あるいは過激なほど国際化が進んできている。

  在日外国人と帰国子女の急増もその1つの現象である。

  2002年2月25日付の「読売新聞」によれば、、日本語の会話や読み書きができない外国人児童の急増に対応するため、文部科学省は2002年度にJSL(Japanese as second language)カリキュラムを導入することにした。

  同省によれば、2001年月1日現在、全国の公立小学校に42,823人の外国籍児童がおり、その約29%にあたる12,468人(前年度比.1.8%増)が日本語教育必要児童であるという。

  外国人児童に対する文部科学省の特段のケアはその後、さらに入念になってきている。

  日本人への外国語教育も特段に活発になっている。

  2006年4月、早稲田大学の白井総長、堀口副総長から伺ったことだが、早稲田では、実用的な英語、つまり、英語で仕事をし、議論ができるようにするため、学生4人に対し指導者1名の割合で英語教育を実施しているという。

   在日外国人と帰国子女の急増に対応して、教育現場がかくあるように、日本社会のさまざまな分野で急速に、「国際化」が広まってきている。

  そして、これにともなって、外国語、とりわけ英語ができるか否かが、その日本人の人生に、決定的ともいえるほど、大きな影響を与えるようになった。

   かつて、「不動産格差」が問題になり、次いで「IT格差」で騒がれたが、ここ20年ほど、「語学格差」は一貫して、決定的に「勝ち組」と「負け組」をつくってきているかのようである。

  そのことの是非はともかく、国際化がさらに進むことが必至の21世紀は、「英語を使える」というのは、かつての「秋田から出てきたお坊ちゃま」が東京弁(共通語、標準語)を話すようになる程度のことで、「あなたは何語?」ときかれたら、「英語+○語」の○を言えなければいけない時代がすぐ来るように思える。

  そこで、「ボランティア」の表記に続いて、わが国特有の言葉ともいわれるこの「国際化」について考察してみたい。



   挿画「早春賦」は、石田良介画伯作。特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。
戦前戦後の「ボランティア」 [2006年05月03日(Wed)]






  戦前の1937(昭和12)年、雑誌『社会事業研究』で谷川貞夫が『社会事業に於けるヴォランティアについて』を発表している。

  谷川は、「ここに言ふ《ヴォランティア》とは、社会事業の目的遂行に○○(2字不明) して助力するために、無報酬で働きを提供し、その事業に奉仕するもののことである」とある。

  また、同年2月12日発行の『東京帝国大学セツルメント12年史』に松本征二が「断片」と題する文章を寄せ、「ヴォランティアー」という語を使い、「何分にも職業的に勤務しようとする人と、ヴォランティアーとして学業の余暇に事業に従はうとする人では本質的な相違があるので無理もないのであるが、セツラー諸君はともすればすぐ従業員諸兄諸姉の交替を提議したり、又馬鹿に同情をして給料値上げを提議したりして、その都度中央部を苦しめたのであった」と述べている。

  戦後の新語紹介年鑑とも言うべき『現代用語の基礎知識』(自由国民社)に「ボランティア」という項目が初登場したのは、1952(昭和27)年版であり、説明としては、「自分の意思で軍隊に参加する志願兵・義勇兵」であり、社会福祉関係用語として「ボランティア」が登場したのは、1959(昭和34)年版からであった。

  また、角川文庫『外来語辞典』によると、毎日新聞がボランティアについて紹介した記事は1963(昭和38)年3月14日付号が最初であることのことだ。

  他方、『広辞苑』(岩波書店)では1969(昭和44)年版に「ボランティア」の項目が初めて記載された。

  大阪ボランティア協会・NPO推進センター発行の、『市民プロデューサー通信 第14号』(1999年)では、「ボランティアというのは、1674年だったか(ママ)、クロムウェルの乱がイギリスであったころ生まれた言葉です。治安が悪化して、盗賊が村を襲っていた。ボランティアの最初の語源は自警団という意味で使われていたのです。これが転じて志願兵、さらに、社会的な問題に志願する人となって、我々の言うようなボランティアになってきたのです」と紹介している。

  また、いちかわ国際交流連絡協議会の発行する『Wingいちかわ 第3号(1998年)』によると、「一般に《ボランティア》の語源は「ボランタール」(自由意志)というラテン語から始まったといわれています。それがフランス語になって《ボランテ》(喜び、精神)となり、更にそれに〔イア〕をつけて《ボランティア》にしたのが、アメリカのバリトンボス夫妻で、1896年に《ザ・ボランティアズ・オブ・アメリカ》という団体を結成し、社会福祉協力活動を始めたといわれています」と紹介している。

 ボランティアの定義として、無償、自発性ということが必ず挙げられてきたが、今日では、有償ボランティアという言葉もある。

  さらに、学校教育において授業という強制的な形でのボランティア活動に組み込むこともある。

  これらのことを考えると、ボランティアの定義は時間とともに変わり得るものだといえようが、その基本にある「志のある者」との原意は不変であり、大切にしたいものと考える。

  吹浦は『海外ボランティア入門』(自由国民社 1999年)で、「朝日新聞」の「天声人語」が1993(平成5)年秋、4回にわたって「ボランティア」の訳語について興味深い紹介を続けたことを紹介し、「出前奉仕」と説明している自治体、「でしゃばり」といって開き直ろうとしている人、「ぼらんてぃあ」と「ひらがな表記」して、あたかも日本語であるかのように書く人もいることを伝えている。

  なお、日本赤十字社では、「ボランティア」の訳が「篤志奉仕」「志願」「奉仕」と変遷し、1992年4月からそれまでの「奉仕課」を「ボランティア課」に名称変更した。

  また、中国語では「ボランティア」を「志願」または「義務」という。



  吹浦注:オリヴァー・クロンウエル(1599~1658)は英国でピューリタン革命を起こした政治家として著名。1649年、国王ジェイムズ1世を処刑し、共和政治を行なった。

中田羽後のヴォランテヤ・コワイヤ [2006年05月03日(Wed)]




 
  社会福祉とは直接関係の乏しい分野で「ボランティア」の語を見出すことができた。中田羽後(1906〜54)主宰の「東京ヴォランテヤ・コワイヤ(TVC)」による合唱活動である。

  中田はその名が示すように、秋田県(羽後)大館市に宣教師の子として生まれた。

 TVCは、アメリカのガン音楽学校で日本人初の音楽学士となり、ウエストミンスター・コワイアで活躍した中田が1932年、在京のキリスト教各教派の有志を募って東京に創設したもので、同年、ヘンデルのオラトリオ『メサイア』を本邦初の全曲演奏した(具体的な演奏日未詳)。

 中田の弟子であり、中田研究の第一人者ともいうべき和田健治尚美学園短大元教授によれば、中田は、ボヘミア民謡『おお、牧場はみどり』の作詞(訳詞)家としても著名であるが、「音楽家としてもまた聖歌の訳詞家としても先駆者であり、すぐれた指導者であった。 日本語を大切にし、詩作に秀でていた。

《ボランティア》という言葉を初めて使った人でもあろうし、聖歌隊を意味する《コワイア》という言葉も本格的に導入した最初の人であろう。教会音楽家としては、唯一人、歴史に残る人である」とのことだ。

  一方、「ヴォランテヤ」の語について、1940年にテナーを歌ってTVCに参加して以来の「私の人生最大の師」という奥山正夫フェリス女学院短期大学名誉教授(横浜クリスチャン・コワイア主宰)は、「神に奉仕する者」や「社会奉仕する人々」という意味より、超教派の「有志」によるという意味が強いとのことである。

  同合唱団は、1932年以降、毎年『メサイア』を全曲演奏し、1940年には『メサイア』200周年公演を行った。さらに、戦時中は「東京聖楽教会合唱団」と名前を変え、1942年12月9日には、日本青年館を会場に「救世主」の題で「創立満十周年記念演奏会」を行っている。

  練習は戦時下にも続き、奥山名誉教授の回想によれば、「1944年にフィリピンから軍務の合間を見て帰国し、中田を訪ねたとき、偶然、『メサイア』の練習に参加させてもらった」とのことである。

  終戦直後の1946年4月、「仙台ヴォランティア・コワイア」が、仙台第2中学(旧制)の英語教師鈴木一郎によって創設された。当時、同中学の生徒としてベースを歌っていた渡部稔氏(いわき市在住)によれば、鈴木は中田のTVCの一員だったという。

  両合唱団とも、中田と多くの優れた弟子たちによって、名前やメンバーが変遷したとはいえ、戦後のわが国の音楽界に大きな足跡を残した。また、これらの人々は『メサイア』を始めとする、今日のわが国教会音楽隆盛の基礎を開拓した人々といえよう。

  中田はまた、「音楽とともに《ボランティア》という理念をもアメリカから持込んだ人であった」(和田)とも推察できるが、これについては今後のさらなる中田研究に期待したいところである。
 「ボランティア」の初出 [2006年05月03日(Wed)]





1)ボランティアの今日的意味
 『日本国語大辞典』(小学館 2001年)によると、「ボランティア」とは、「社会事業などの篤志活動家。また、無料奉仕で何かに参加する人」であるとされている。

  他方、『大日本百科事典』(小学館1980年)によると、ボランティアとは、「社会福祉のための自発的無償奉仕者をいい、活動は教育・訓練を受け、計画・組織された方針によっておこなわれる。ボランティアは慈善事業期において社会福祉の主導的役割を果たしていた。

  19世紀後半、イギリスやアメリカ合衆国において慈善事業が組織化されるにつれ、ボランティアは組織化された機関の有給常勤職員をも意味するようになった。

  この常勤職員化を通じて社会事業専門家の必要性が認識され、専門社会事業職員化の時代、社会事業期に入った。

  この結果、ボランティアの役割は、指導的地位から協力者地位に転換し、新しいボランティア=サービスの役割は1930年代になり明確化されるようになった」とのことである。

  いうまでもなく、社会福祉は専門家だけですべての活動を完遂しうるものではなく、市民が社会福祉の単なる利用者にとどまらず、その企画・運営・維持に積極的に参加することにより、社会福祉の社会化と民主化を図ることができる。

  ボランティアはこのような市民参加の一つの形態であるといえよう。   

  その役割には社会福祉分野における問題の発見、施設・機関(団体)の創設、政策提言、知識・技能によるサービスの提供、財政的な援助、施設・機関やクライアントの代弁、施設・機関に市民の意見を反映させるなどがある。

  ボランティアを分類すると法律によって制度化されたものと非公式なもの、運営管理的なものと労働奉仕的なもの、施設ボランティアと地域ボランティア、またアドヴォカシー(政策提言)を主たる活動とするボランティアなどに分けることができよう。

   ボランティアを紹介したり関連の活動を調整する機関として、わが国においては善意銀行、社会福祉協議会、社団法人日本青年奉仕協会など30年以上の歴史を有している団体もあるが、

  近年、特定非営利活動法人(NPO)法の施行(1999年)などもあり、新設の多数のNGO活動が特に注目され、社会的認知も高まり、関連団体によるテーマ別のネットワークが強化されつつある。

2)「ボランティア」の初出
  わが国における「ボランティア」の語の初出については、この研究でかなりの新事実が明らかになったとはいえ、未だ最終的に明確な結論を得るには至っていない。

  経済企画庁編『国民生活白書―ボランティアが深める好縁(平成12年度版)』(大蔵省印刷局発行)にはボランティアについて表1のように紹介されている。

  日本: 明治から大正時代に賭けてボランティア活動が伝わったようである。それが広く一般的に使用されるようになったのは60年代頃からだと言われている。(角田禮三編『ボランティア教育のすすめ』(2000年)より。

  イギリス: オックスフォード大辞典によると、17世紀にはボランティアという語が使用されていた。その意味は志願兵と訳されるものであり、「義務ではなく、あるいは正規軍でもなく、自らの意思で進んで軍隊役務を勤める人」(初期には、無報酬の意味で使われる場合が多かった)、「自発的に奉仕活動をする人」等で用いられた。

  フランス:ロベール大辞典やラルース大辞典によると、フランス語にはボランティアの意味で使われる語が2種類ある。
@)「volontaire」
  ラテン語を起源とするこの語は、14世紀には使われていた。その意味は、強制もしくは束縛されていない人、つまり自らの意思で動く人である。17世紀に入るとイギリスと同様に志願兵という意味でも用いられ、広く使われるようになった。自発的に困難な役務を引き受ける人であり、必ずしも無償とは限らない。

A)「benevole」
  この語は、13世紀後半に使われているが、18世紀まで使用されることはそれほどなかった。善意の気持ちで行うのが原意であり、義務ではなく自発的に無償で活動する人のことを意味する。
  しかし、『ボランティア教育のすすめ』の表記は何ら確証のあるものではない想像ないし推測の域を出ていない。

   小谷豪冶郎教授(近畿福祉大学学長、国際政治学)は『北方領土とボランティア』(丸善新書1999年)で、「1932年(昭和7)に発行された雑誌『社会事業』で内方孫一が論文『隣保事業に於けるウォランチアの役割』という論文を発表しており、これが目下のところ最も古い使用例ではないか」と述べている。

  遺憾ながら、この雑誌の当該号は国立国会図書館において欠号であり、他の図書館のレファレンスサービスの協力を得たが、未だ、当該論文を実見することができず、具体的に執筆時や内容を確認することができなかった。

  また、同教授は、「大正の終わり頃に、東京帝国大学セツルメントの文献に《ボランティア》という用語が出ている可能性があるのではないか。おそらく東京大学図書館にそれはあるはずである」と示唆しているが、これまた、今回の調査で、東京大学図書館の司書に特段のご協力をいただいたが、確認することはできなかった。
「社会福祉」の初出 [2006年05月03日(Wed)]





私が埼玉県立大学教授をしていた2002年のことだ。ゼミ生の片山嗣大、小坂友紀、近藤治子、関谷有右子さんといっしょに「ボランティア」「難民」「地球市民」「NPO」「社会福祉」といった、『国際化時代における社会福祉関連キーワードの初出(最初の使用例)に関する共同研究 Joint Study on the first use of some key words on social welfare』をしたことがある。

 以下、その研究の概要を少しずつご紹介したい。詳しくは、同大学の「紀要2002」に前文が掲載されている

   ☆−−−・・・  ☆ーーー・・・

イマ日の世界には、テロの防止、武力紛争の予防、核兵器・対人地雷の廃絶、小型武器の削減、開発と環境保全、地球温暖化の防止、感染症の抑制、難民流出の防止、不法な人口移動のコントロール、人口抑制、貧富の差の是正、識字教育の普及、人権抑圧の防止など、人類が挙げて、早急に取り組まねばならない世界規模の課題が山積している。

 私たちはこれらの課題について、こうした問題がいつ、どのようにして発生したか、いわばその原点を探求すべく、その手がかりとして、当該問題のキーワードともいうべき言葉について、その初出を探るべく古今の代表的な辞書をはじめ専門書や関連の文献、新聞、雑誌を入念に検索し、さらには全国に散らばる先学や関係者に面談し、手紙を送るなどして確認乗作業を行った。こうした手法による初出の確認は、広範かつ専門的な知識を必要とする上、時に限りないエネルギーの消耗との闘いを継続しなくてはならない。

今回は、うち、「社会福祉」「国際化」「ボランティア」「難民」「地球市民」「NGOとNPO」の6つのキーワードについての調査研究成果を報告する。

  これらの言葉によって表現される事実や背景が問題の本質を明らかにする上で大きな意義を秘めているのではないかと言うのが研究者の関心の中心であり、インセンティブであったといってもいい。

   
●「社会福祉」      
 「社会福祉」の定義は、『日本国語大辞典』(小学館、1981年)によると「国民の生活の安定、医療、教育、職業などの保障を含む幅広い社会的方策の総称。

社会政策、社会事業、社会福祉、社会保障制度などの根底に共通する政策目標、および、それらの制度的概念。

  狭義には生活困窮者や身体障害者、児童、老人などを対象とした社会的保障の方策で、対象者が自力で生活できるよう、必要な生活指導、更生指導、援助育成を行うことを意味する」となっている。

  しかし、これは、あくまでも一般的な日本語としての定義であり、より専門的には、社会保障制度審議会による1950年(昭和25年)10月16日に「社会保障制度に関する件」としての答申に従うのが妥当であろう。

この答申では社会福祉とは「国家扶助の適用をうけている者、身体障害者、その他援護育成を要する者が、自立してその能力を発揮できるよう、必要な生活指導、更正補導、その他の援護育成を行うこと」と定義している。

   これは、国が関与している機関の行った「社会福祉」に関する唯一の定義として知られている。


1)「社会福祉」の初出
「社会福祉」という単語の初出は、日本国憲法(1946年11月3日公布 1947年5月3日施行)においてである。

  同憲法には、「公共の福祉」と並んで「社会福祉」が登場する。

  すなわち、同憲法第12条に「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」、13条に「公共の福祉に反しない限り」「生命、自由及び幸福追求の権利」が国政の上で最大の尊重を受けるとなっており、また、22条では「何人も公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」とある。

他方、第25条2項に「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とある。両者の違いについては憲法学者の間にも見解の分かれる所が多く、ここでは言及を避けたい。

ちなみに英文の日本国憲法では、「公共の福祉」はpublic welfareであり、「社会福祉」はsocial welfareと表現されている。

2)『易林』と『西国立志編』
「社会福祉」の語の内、「福祉」という言葉の初出は、『易林』である。

  諸橋轍次の『大漢和辞典(大修館)』によれば、すなわちその「履之」の項に「賜我福祉、寿算無極」とある。
  
 『易林』は漢、梁の人である焦延壽によって書かれた16巻に及ぶ大書。焦は、昭帝の時に郡吏から小黄令となり、元帝の頃には三老に叙された人物。

  わが国の書物では、1871(明治4)年、中村正直(1832〜91)の『西国立志編』における登場を嚆矢とする。

  周知のように、同書は、Samuel Smiles(1812〜1904)が1859年に刊行した啓蒙書『Self Help』を訳出したもので、その9章13節において訳者は「人生の福祉を増し有用の事業を成すには…」と用いている。

この本は、自ら力行努力して成功した、歴史上の人物300数人の事例を紹介したものであり、「人命は地球より重い」などの表現でも知られているが、「明治の聖書」(富田仁編『海を越えた日本人名事典』日外アソシエーツ)とまでいわれる一大ベストセラーとなり、維新直後の青年たちに多大なる影響を与えたとされている。

なお、国立国会図書館の蔵書で、表題に「社会福祉」が付く一番古い書物は、早崎八洲 の『社会福祉への道』(実業出版、1946年出版)である。「社会科学新書シリーズ」の第4巻として出版されたものである。

しかし、その中身には「社会福祉」という言葉は見当たらず、代わりに「社会事業」が使われている。未だ日本国憲法制定以前でもあり、「社会福祉」は定着以前の語であったということであろうか



  挿画「初夏」は、石田良介画伯作。特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。