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B型の献血なぜ余る [2012年06月29日(Fri)]

060608_1137~01.jpg


私の信頼する中堅看護師さんから、こんなメールが来ました。
確かに献血ルームにはしばしば、B型は足りていると表示されていますね。
なぜでしょうか?

私はあまり血液型のことは気にしなかったのですが、あるとき、8人でヨーロッパにテレビ番組を作成に行き、内、5人がB型で、毎晩、大変だったことを覚えています。

私自身B型ですし、献血運動には1961年から日本赤十字献血学生連盟会長としてかかわり、いまも、献血供給事業団の役員をしていますが、血液型と、献血の意欲がそんなにもストレートに反映されているとは知りませんでした。

みなさま、いかがですか?


   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 先日献血に行きました。もう、91回目の提供になります。
そこで(有楽町の献血ルーム)職員の方に「B型の血液は、いつも他の血液型より充足しているのはなぜですか」と聞いてみました。

 すると、「B型の血液は使用される量も少し少ないが、それよりも協力的なのです。街頭で呼び込みや声をかけなくても、献血に来て下さるんです。昔から不思議なんですよね」とのことでした。

 ということは、B型の人間は社会貢献する人々?ボランティア精神の持ち主?ということでしょうか?少し嬉しくなりました

 なかなか「ボランティア精神が高いor低い」を検証することは難しい気がしますがいろいろ調べてみたいと思いました。
 
腰・膝の痛みにオキソピタン [2010年12月10日(Fri)]











 千葉県で病院を経営しておられる方からの
メールです。

 私の膝のことで
みなさまにお心遣いいただき
ありがとうございます。

 ご参考までにいただいた情報を
開示させていただきます。

   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

まだ膝の痛みが緩和しないようですね。
辛い気持痛いほどわかります。
同情だけではよくならないですね。

私もまたわけあって
長く腰や膝の痛みに耐えている身なのですが
特効薬はみつかりません。

ただ最後にたどりついたものがあるので
お知らせします。

《オキソピタン》という医薬品。

各種ビタミンとコンドロイチンなどの複合剤です。

骨や関節に必要な成分を補給して
痛みを和らげるというもの。

効くまでには数週間かかりますが
痛みは確実に和らいできました。

漢方薬を扱う薬局店で求めましたから
参考になれば。

☆ .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

あと10日くらい痛みが続くようなら、
オキソピタンのお世話になってみます。

ありがとうございます。
地下鉄での転倒、直後 [2010年12月08日(Wed)]








11月初めに、地下鉄虎の門4番出口への
階段を登っているときに、
下から駆け上がってきた30代?の男性に
当たり飛ばされて、私は階段を5,6段落ち、
空中を飛んで、転落しました。

 柔道の受身のようなことをして、
かろうじて全身打撲を防ぎましたが、
左ひざをしたたか打ち、整形外科にも通いました。

 幸い、膝の皿も大丈夫ですが、
整形外科ってどうにも頼りないですね。
治療なくも薬も出さず、
手当ての方法も指導してくれませんでした。

 5週間以上経った今でも、まだ、
左膝を着くことが出来ません。

 私に「あて逃げ」した男は、詫びるでも
起こすでもなく、脱兎のごとく駆け上がってゆきました。

 私は怪我をしながらその男を「つかまえてくれ〜っ」と
それだけが自慢(?)の大声で叫んだのですが、
なんと、
誰も掴まえようとしないばかりか、
階段の人たちは道をあけて
その男を急ぎ易いように
したのです。

 日本社会の劣化を嘆じました。

 さすがに、近くの(もしかして)美女たち、
「大丈夫ですか?」とだけは
声をかけてくれました。

 いやぁ、痛かったです。

 でも、この劣化現象、
日本にとって、もっと痛いんじゃないでしょうか。
日本人の視力 [2008年12月30日(Tue)]












 日本人の身体的欠点の一つは、
目が弱い(視力が低い)ことではないか
とかねてから思ってきた。

中学1年生のときから
メガネを常用している者としては、
これが当たり前のように思うのだが、
例えば、韓国や北朝鮮では本島には
メガネの常用者が少ない。

「コンタクトをしているのを気づかない」
ということも多少はあろうが、
コンタクト・レンズの常用率が
韓国や北朝鮮で特別多いという話も聞かない。

 これは昨日北朝鮮が発表した
キム・ジョンイル書記長の近影だが、
この人のサングラスはともかく、
ほかにほとんどメガネをかけている人がいない
というのは、特筆していいのではないか。

 朝鮮半島では儒教の伝統が根強く、
目上の人や親の前ではメガネをはずすということも
聞いたことがあるが、
まさかこうした公式かつ重要な場面で、
側近がそろってメガネをはずすということはあるまい。

 アフリカ出身者のなかには、
途方もない視力の人がいるようだが、
われら日本人はせめて、
韓国朝鮮人並みの視力をもちたいものだ。

 我が家の旧式のアナログTVと
最新方のデジタルTVの
鮮明さの違いみたいなものなのだろうか。
看護界の先駆者・現代版 [2008年04月02日(Wed)]



 恩師の娘であり、かつての同僚が朝日新聞(3月27日付)夕刊の「ニッポン人脈記」で登場した。「みんな、その日まで:13 手をあてて、それが看護」という中でのこと。

 私は1972年から約20年、日本赤十字中央女史短期大学、日赤看護大学の教員だった。川嶋みどりさんはそのころから、看護婦には珍しい?論客だったし、著述から多くのものを学ばせていただいた。

 その川嶋さんから大きな影響を受けたという人が、村松静子さん。私にしてみれば、秋田大学学芸学部付属中学校の後輩であり、ご尊父・高橋賢一先生(通称「タカケン」、生徒間の呼称「おとうちゃん」)は、理科の教師であり、かつ学年主任であった。

 加えて、日赤中央女史短大では同僚でもあった。

 訪問看護の大切さを説く遠藤周作さんと意気投合し、独立して、訪問看護の先駆者になった。川嶋、村松両さんは、看護界で「この人を知らなければウソ」と言われるまでの存在感のある指導者となっている。

「おとうちゃん」は受験雑誌の執筆者としても活躍しておられた。「この父にしてこの娘あり」といってもいいし、「吹浦の後輩とは思えない立派な人」といわば言え。

 昨年末、恒例のメヂカルフレンド社忘年会で久々にお互いの壮健を喜びあった。さらなる活躍を期待している。朝日新聞嫌いの人にも読んでもらいたくて、紹介した次第。


  //☆//☆///☆/★\\\\☆\\\\☆

 
 フローレンス・ナイチンゲールは19世紀のクリミア戦争で傷病兵の手あてに尽くし、「クリミアの天使」と慕われた。ナイチンゲール記章は看護に献身した人に赤十字国際委員会から贈られる。

 日本では大正期から100人。昨年5月に栄誉を受けた川嶋(かわしま)みどり(76)の看護人生は、患者の体に手をあてることから始まった。

 ソウル生まれ。敗戦の翌年に引き揚げ、東京の日本赤十字女子専門学校へ。19歳で看護師になって10日目、重体の9歳の女の子の全身をお湯にひたしたタオルでふく。脈が力強くなり、食欲もでた。「体をきれいにするだけでなく、命まで救えるんだ!」

 地質調査の技術者の威(たけし)と26歳で結婚、男の子2人の母になる。働き続けたくて仲間と病院に保育所をつくった。当時、夜勤は1週間ぶっ通し。ナイチンゲールの言葉「犠牲なき献身こそ真の奉仕」に力づけられ、60年にストライキ。「私たちは白衣の天使じゃない。人間らしい看護をするために、人間らしい生活を」と訴えた。

 理論物理学者武谷三男(たけたにみつお)の技術論に目を開かれ、看護学セミナーを始め、研究所もつくる。論文400、著書100冊余。03年、日赤看護大学教授になった。

 夫の威が「入れ歯が合わなくなった」といいだすのは06年2月のことだ。舌がん。手術で舌を切除した。自宅療養の毎日、ミキサーで流動食をこしらえる。07年3月、威は痛みを訴えて緩和ケア病棟に入り、川嶋も付き添った。

 臨床から離れて30年、患者家族の身になってみると、つらいことが多かった。注射の前、手首につけたバーコードで本人確認をする。ピピッ、ピピッと電子音。「顔を見ればわかるのに、スーパーの商品みたい」

 威が「胸が苦しい」というと、若い看護師は動脈血の酸素の濃さを測る機器をもってきて数値を読み、「大丈夫です」。川嶋はいらだった。モルヒネの量をふやしてすぐ出ていく看護師に「もう10分、みていられないの?」。

 一番ショックだったのは、せっかくの緩和ケア病棟なのに機械や薬ばかりで、肝心の、手でふれるケアがほとんどなかったこと。「背中をさするとか体の向きを変えるとかで、すごく安らぐ。ナイチンゲールも言っていますが、看護不足が患者の苦しみをつくるんです」

     *

 そんなある日、後輩の看護師村松静子(むらまつせいこ)(61)が見舞いにきてくれた。病室に入るなり、威の背中に手をあて「肩こってませんか?」。すーっとマッサージした。威は涙を流し、「パンパンです」と筆談の紙に書いた。

 村松は26歳で長女を産み、退職しようかと悩んだとき、川嶋に「続けることが大事」と励まされた。33歳で日赤医療センターの集中治療室の初代婦長に。羽田沖の日航機墜落事故などで瀕死(ひんし)の人たちを大勢看護した。

 「患者さんのつらいところに、すぐ手がでるんです。川嶋さんの病室にいったときも、自然に」

 07年4月、威は川嶋に手を握られて亡くなった。79歳。「アリガトウ」と書いたのが最後の言葉となる。悲痛のなかで闘病の筆談記録を読み返し、川嶋は思った。

 医療のIT化でモニター画面を見る時間が長くなり、なまけているわけではないのに、手でふれるケアがおろそかになっている。熱やむくみがないか、手をあてればすぐわかるし、そのぬくもりは患者の不安を癒やす。

 「それが看護の基本、ケアの心と私は30年、全国を駆け回って教えてきた。それが実っていない。いったい何を教えてきたのか、反省しました。痛恨のきわみ」

 機械化が進み、みとりの場でさえ、ナースが心ならずも「歯車」になっている。いまこそ人の手を。川嶋は「手あて学」をつくりたいと夢みている。看護の手のはたらきを研究して大切さを裏づけ、「TE−Arte」(テアテ)として世界に広めたい。

     *

 人は、いずれ死ぬ。大切な人とも別れなければならない。だからこそ、旅立つ人も、みおくる人も「いい人生だったな」と思える最期にしたい。みんなにくる、その日のために。

 (本文は敬称略)
 
ステロイド [2007年11月16日(Fri)]







 インフルエンザの予防のためのワクチン接種を勧めたところ、
専門家から、ステロイドを服用している人は
ワクチンを接種してはいけませんよと、ご注意メールがあった。

 念のためお伝えしておきたい。




済生会ってご存知? [2007年06月17日(Sun)]












済生会ってご存知ですか。

大阪のさる親しい友人の紹介により、

姪がこの4月、そこに就職させていただいた。

「3ヶ月、勤務してみて、すばらしいところにと感謝しています」
と挨拶に来た。

「そういえば、済生会は
日本赤十字社にならぶわが国の一大社会福祉団体である割には、
知らない人は知らないよね」。

「はい、明治時代に出来たのです。研修会のときにいただいた
この手帳の最初のところにいろいろ書いてあります」。

それによると、
済生会は明治44(1911)年2月11日、
明治天皇が時の桂太郎首相に、
150万円(!)のお手元金を下賜し、
5月30日、ここに示す内容の「済生勅語」によって
創立されたという由緒ある社会福祉施設である。

爾来、幾多の曲折を経ながらも、
「済生」の心を受け継ぎ、
保健・医療・福祉の充実・発展をめざし、
数多くの事業を行っている。

現在、社会福祉法人恩賜財団済生会として、
ェ仁親王殿下が総裁、
トヨタの豊田章一郎氏が会長、
そして、幸田正孝理事長がトップ3。

東京に本部を置き、全国の41都道府県に支部を置いて
活動している。

施設は、病院79、診療所10、
介護老人保健施設25、老人福祉施設55、
児童福祉施設23、障害者福祉施設5、
老人デイケア施設41、老人介護支援センター53、
看護師養成所9、
訪問看護ステーション47など、
362の施設で約4万人の職員が
保健・医療・福祉活動に取り組んでいる。

入院・外来の患者数は年間延べ1,980万人、
入所・通所などの施設利用者は延べ445万人に達している。

そういえば、わが義母もときどき、
目黒の済生会病院のお世話になっている。

赤十字と比較すれば、
病院数や職員数はほぼ同じ、
老人福祉では、
済生会が大きく水をあけている。

一方、赤十字は看護婦養成の分野で
はるか充実している。

なお、小欄では、日本の領土・総点検ということで、
特に島のことを書き続けているが、
済生会は瀬戸内海の67島で巡回診療を続けている。
この点も立派というほかない。

そういえば、瀬戸内海の出身のわが友人たちは
みなさん巡回診療船「済生丸」の名をご存知ようだ。

まもなく創立100周年、
これからの少子高齢化にあって、
「地域の人々の命を支え、
健やかな体を育むことができるよう、
創立100周年に向かって、これからも力の限り務めを果たしていこうと、
日々決意を新たに精進しています」とHPにあるのは、
前期高齢者たる私には、力強い味方である。

「生活保護家庭の人もずいぶん入所してきます」。

胸を張ってそう言う姪が頼もしく、
思わず、「お世話になります」と頭を下げた。
   
台湾のWHO入りを支持 [2007年05月08日(Tue)]




 沖縄県与那国島西崎灯台付近から臨む台湾。
 この対岸地域が、WHOに加盟できない地域あるということは、
日本の国益上、きわめてまずい、ないし危険なことである。







 台湾のWHO(世界保健機構)入り支持を訴えるデモが、
6日、都内で行なわれた。「日本李登輝友の会」の主催だ。

 台湾は1997年からWHOの年次総会に
オブザーバーとしての参加を求めてきたが、
中国の反対で実現していない。

 先月、台湾はWHOへの正式加盟を申請したが、
これには、
従来、オブザーバー参加を指示してきた米国さえ、
「不支持」を表明している。

 私は台湾のWHO加盟を支持する。
しかし、それは、台湾のためかどうかでの判断ではない。
日本の利益のためだ。

 台湾は「南の隣国」。小欄では何度も書いたが、
わが国の最西端・与那国島とは111キロしか離れていない。
そこが公衆衛生上、
きちんと国際的なネットワークに入っていてくれないと
困るのは日本そのものなのである。

 ノロウイルス、鳥インフルエンザなど、
あらたな感染症がいつどのようなのような形で
わが国を侵略してくるかわからないのである。

 アメリカと日本とではおかれている位置関係が
まるで違う。
それをさしおいて、
日本が台湾の公衆衛生上の問題、
医学、細菌学の問題に政治をはさんではいけないのである。

 日本の国益上、
私は台湾がすみやかにWHOに加入を
果たしてほしいと願っている。


提供後1年目に検査 [2007年03月07日(Wed)]


「早春賦」。挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




 旧臘12月19日に他界した兄・忠晴への3年前の造血幹細胞移植の話を続けている。

 1年後、2005年2月末に、日本造血細胞移植学会から1通の手紙が来ました。

「あれから1年、お元気にお過ごしですか」で始まるその手紙は、ドナーに「健康診断」をするよう促すものでした。しかも、その費用は同学会が全額負担するというものです。多忙な時期だったため、結局、私が国立がんゼンターを再訪したのは、同年4月19日になってしまいました。

 まず、血液の採取を受け、それに基づいて、1年前にお世話になったM医師が懇切丁寧に説明してくれました。私も率直に答えました。

「この1年、7、8回海外に出張しました。毎晩、ほとんど研究会や会議で外食が続いていますが、体力的には日々、十分こなしているつもりです」
「元気ですね」
「ただ、11月に万里の長城に登った後、寒気がし、以後44日間、風邪のような症状で苦しみました。また、今もそうですが、25日前、これまた夕食後、突然震えが来てダウン。都立広尾病院に救急で診てもらい、A型インフルエンザと診断されました。まだすっきりしません」
「タミフル(インフルエンザの特効薬)を飲みましたか?」
「ええ、それで、40度近かった熱がいっぺんで36度台前半まで下がりましたが、咳や痰が止まらず苦労しました。先週の予約をキャンセルしたのは、免疫力の下がっている患者さんが多いこの病院に、保菌者である私が来てはいけないと思ったもので・・・」
「予防注射はされましたか?」
「ええ、過去7、8年毎年やってます。いままでは効いていたんですがね。G-CSF製剤との関連性はあるんですか?」
「関係なさそうですね。インフルエンザや風邪にはお互いに気をつけたいものです」
とまあ、こんな感じで終わりました。

 その後、2006年にも、また今週も同様の「健康診断」のご案内が来ました。来週はたまたま人間ドックを予定していますので、その時に医師と相談してみようかと思います。

 造血幹細胞移植から今週で満3年。床屋に行ったせいか、今夜など、2つのレセプションで若い若いと10人ほどに言われ、いつまでも成熟しない自分に少々、恥ずかしささえ覚えました。
最先端医療に期待 [2006年12月30日(Sat)]




 骨髄異成形症候群(白血病)で、青島幸夫元都知事とコメディアンのカンニング中島(忠幸)が、つい最近、相次いで亡くなった。カンニング中島はわずか35歳だった。

 もっと若くして、否、まだ小学生の身でも、この病気は突然発症する。風邪か思って小児科で診てもらっても、なかなか回復せず、これはおかしいということになってから大騒ぎになる。

『広辞苑』によれば「小児」とは「小さなこども、幼児」。

 但し、「小児」はほとんど小児科、小児喘息、小児結核、小児麻痺、小児癌といった場合にのみ使う言葉といえよう。「小児の内科的疾患の治療を専門とする医学の一分野」であるのが小児科。ところが、現行の保険医療では、使用する薬品が少ないことを初め、何かと手間がかかる割に医療施設側の報酬がすくないため、小児科の経営は難しく、ここ数十年、小児科医や小児科が急速に減少してしまっている。

 しかし、実際には小児科の役割はすこぶる大きい。こうした病気の早期発見だけでも重要な役割だ。

 私は2004年3月、骨髄異成型症候群(白血病)を患った兄に造血幹細胞移植ミニ移植という、最先端医療を行なうためドナーとして国立癌センターに入院した。そのときに、小児癌治療を受ける多くの子供たちと出会った。

 放射線治療のためほとんどの子に頭髪がない。それでも明るく、患者仲間と遊んだり、特別授業のためにやってくる教師になついて、文字通り懸命に勉強していた。小児科の医師たちと子供たち自身の努力に敬意を表したい。

 そんな気持ちでいるなかで、わが親友・K氏の孫の一人が、骨髄異成型症候群を再発症した。きょう聞けば、赤十字病院医療スタッフの懸命な努力で、熱も下がったというので、ご両親やご家族も少しは気持ちが落ち着いてきたようだ。

 幸い、15歳のお兄さんYくんと骨髄のタイプが合致したため、最先端医療である造血幹細胞移植をすべく、Yくんも一昨日までに移植するための大量の血液の採取を終え、この移植に不要な赤血球や血小板などを戻してもらって、きょうは元気に出かけているとのことだ。

 骨髄バンクに登録している人は関係者の努力で30万人近くなった。しかし、いざとなると仕事や学業の忙しさや、よくわからないことから来る怖さなどもあり、上司や家族の反対などの理由で、実際に骨髄移植(骨盤付近に針をさして骨髄液を採取する方式)や造血幹細胞移植(腕の静脈から採血する方式)にまで至らないケースが少なくない。

 まずは登録者の倍増(米国では150万人以上が登録)、協力時の休暇や保障など社会的な理解と支援が必要だ。そのための啓発活動に、国もそして私たち経験者が努める必要がある。

 ちなみに私は入院3日前にミャンマーとラオスへの訪問から戻り、5日入院して造血幹細胞移植(約2時間半の間、「釣りバカ日誌」を鑑賞で終わり)、4日後には、「エコノミークラスのアエロフロート」(それがどんなに「快適」なものかは搭乗した人にしかわかるまい)で、モスクワに向かい、4日間滞在して帰国した。提供する側の負担は概略その程度のものである。

 考えてみてほしい。もし、あなたが突然、骨髄異成形症候群なりを発病したら、今、それで苦しんでいる何万人かのひとりである、その人に協力をお願いするかもしれないのだ。

 元気な頃は最年少の「妙齢の美女」として小欄に登場したHちゃんの全快を祈るや切である。


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