• もっと見る
« 総合学習 | Main | 日本外交»
<< 2014年04月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
なぜ読売軍ではなく巨人軍なの? [2012年10月21日(Sun)]



PA210004.JPG


PA210009.JPG

  今日の試合、最終回「読売」村田の打席。span>

いかに読売ジャイアンツ嫌いの私でも、
きょうの中日ドラゴンズとの
クライマックス・シリーズは素晴らしかった
というほかない。

2対2の同点で迎えた9回裏、
谷の代打、石井のサヨナラ安打は見る者を
楽しませてくれた。

それにしても、なぜ読売ジャイアンツを
巨人軍というんだ。

読売軍ではないか。中部日本新聞(中日新聞)が
やっているから中日なのだから、読売新聞傘下の
ジャイアンツは巨人軍ではなく
読売軍というべきではないのか。

これ以上書くと、なんだか負け惜しみを超えて
八つ当たりのように思われるかもしれないので、
誰か知ってたら教えてください。

そういえば「中日軍」とも言わないなぁ。





旭天鵬に救われた大相撲夏場所ではあるが [2012年05月22日(Tue)]
yorokobi.JPG   
結果はこれでよかったと感動したが、協会も各力士も
     さらにしっかりしてほしかった、夏場所だった。




大相撲夏場所には、最近になく緊張させられた。

稀勢の里、栃煌山、旭天鵬が3敗で並び、白鵬以下3力が4敗で千秋楽を迎えた。
稀勢の里以外に5力士もいる大関陣のだらしなさを思う暇もなく、
これは楽日はさまざまな可能性があると、頭の体操をしてみた。

ところがその朝、琴欧洲が突然、想定外の休場の申し出。栃煌山の不戦勝が決まった。
その瞬間、白鵬以下の優勝の可能性はなくなった。

しかし、待てよ。これで稀勢の里が把瑠都に、
旭天鵬が豪栄道に負けたら、栃煌山の優勝?!

そんなバカな話があるかと年甲斐もなく興奮!

ま、順当に行けば3敗の3人で巴戦が行われ、大関・稀勢の里の初優勝とは思ったが、
あの精神的に弱い稀勢の里では、何が起こるかわからない。

結局は、ご承知の通り、優勝決定戦は旭天鵬が栃煌山をはたきこみで破って、
37歳8ヶ月、初土俵から20年目の初優勝、
モンゴル出身者による通算50回目の優勝・・・。

優勝力士の涙、涙に共感した。

協会としては琴欧洲の休場の経過をしかと把握し、なぜ、前日から判らなかったのか、
例外的にこういう場合は当日朝でも取り組みの組み直しをすべきでないのか・・・
研究課題はいろいろありそうだ。

それにしても旭天鵬の功労は超大きい。この日まで、
初代モンゴル出身力士の苦労は如何ばかりであったかと思うだけで、
老生はうるうるするほどである。

問題続きの相撲協会はこの力士に、最大限の感謝を捧げなくてはなるまい。
突然陽があたる競技も [2012年01月25日(Wed)]










なでしこジャパンが昨年6月、
ドイツで開催された
女子サッカー世界選手権大会で、
「奇跡の優勝」を果たしことに、
日本中が沸き立ちました。

私はその日、たまたま岩手県の
東日本大震災被災地に行っておりましたが、
みなさんが何よりも
「元気をもらった」ようでした。

それまでマイナーだった女子サッカーが
いっぺんに、ブームのようになりました。

オリンピックもまた時々、
それまで関心を引かなかった意外な競技に
突然、人々の目を挽き付けることがあります。

私にとっては東京オリンピック(1964)年の
重量挙げがそうでした。特に、
キンメダリストの三宅義信と
巨漢ジャボチンスキーが魅力的でした。

そして、あの競技が
あんなにも精神的な要素が大きい
ということをそのときに知りました。

バーベルを前に行ったりきたりしながら
精神統一を図るのです。

2008年の北京オリンピックで、
フェンシングの太田雄貴選手が
男子フルーレ個人に出場し、
銀メダルを勝ち取ったとき、
上野投手らの活躍で金メダルに輝いた
女子ソフトボールもそんな感じでした。

日本人選手初の決勝戦へ進出でした。

決勝ではドイツのベンヤミン・クライブリンクと
対戦し9 - 15で敗れましたが、
日本中がテレビの前で興奮したのでは
ないでしょうか。

日本フェンシング史上初の五輪メダルである
銀メダルであり、それまでは、日本は、
1896年の第1回アテネ五輪で
正式競技に採用された8競技の中で、
唯一五輪メダルを獲得していない
競技だったのですが、
これで「陽の目」を見、
ロンドン大会も楽しみになりました。

冬季オリンピックではカーリングでしたね。

1998年の長野オリンピックでの
男子チームスキップ敦賀信人が健闘、
2002年のソルトレイクシティオリンピックへの
出場がテレビで中継されるなどして、
カーリングへの関心は徐々に高まり、
2006年のトリノオリンピックで
チーム青森の活躍が7位入賞という
結果を生んだことでカーリングの認知度が
一挙に高まりました。

どなたとは申しませんが、
美形の選手が、われら日本男子をしての
注目度を一挙に上げたという
「俗説」もあるようです。

ですから2010年の
バンクーバー冬季五輪では
残念ながら一予選で敗退し、
8位という成績でしたが、
それでも、カーリングの認知度は
10年前とは比較できない高まりぶり
でしょう。

よくルールを知らないまま、
テレビ中継を見る私のようなおじさんも
ほかにもいるようですから。

今年7月27日に開幕される
ロンドンオリンピックに水球(water polo)の
日本チーム「ポセイドン」の出場なるかが今、
大いに注目されています。

「アジアで一位」が目前に迫っています。

青柳 観主将がテレビ・インタビューに
応えていました。
「これまでのどの日本チームより、実力がある」。

「水中の格闘技」、大いに期待しましょう。

10`の円盤を掲げて立ち泳ぎするなどという、
想像もできないような練習には
驚嘆させられました。

今度のオリンピックもいろいろ見所がありそうです。

サッカー国際試合事始め [2011年12月19日(Mon)]






第一次世界大戦時のドイツ帝国国旗。
 ユーハイムの商標は昨年9月まで、
 この国旗の中央にJuheimと書いたものだった。







 昨日の柏レイソルズ、おしかったなぁ。
アジアの王者アルサド(カタール)を相手に、
シュートは19本体6本、
ボール支配率は57:43%、
それでも、決め手に欠き、pkで3:5、
PKって何度みても残酷ですね。

ところで、日本でのサッカーはせいぜい
1968年のメキシコ五輪で3位になり
少し注目されたくらいで、
私の青少年時代には
まったくマイナーなスポーツだった。

それがこの20年、
さらにはプロ野球の優秀な選手が
大リーグに移籍するようになったことなどからの
プロ野球の衰退もあって、
大変な人気である。

でも、日本ではいつから
国際試合が行われたりしたのかなぁ、
などと考えながら引越し荷物を
かたづけていたら、
こんな記事が出てきた。

赤十字国際委員会(ICRC)ニュースレター
14号にこんな記事が出ていた。

☆ .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.

第一次世界大戦下の日本には、
主に中国の青島などから連れてこられた
ドイツ人をはじめとする捕虜が
約5,000人いて、
全国各地の捕虜収容所に収容されていました。

当時の報告によると、
第一次世界大戦下の日本の
捕虜収容所の環境は比較的良好で、
捕虜はかなりの自由が認められていることが
わかります。
 
日本は、全国の捕虜収容所の視察を
ICRC駐日代表部の
フリッツ・パラヴィチーニに許可。

パラヴィチーニを迎えるにあたり、
「接待要領」を
陸軍が日本赤十字社と共同で作成するなど、
日本側の積極的な協力が見て取れます。

当時の日本は、幕末に締結された
欧米列強との不平等条約を撤廃するために、
文明国として国際的に認められることを
外交上の最大の目標に掲げていました。

したがって、ハーグ条約の規定に則って
人道的かつ適切に捕虜を扱うという
日本の姿勢は、
「国際基準を満たした文明国・日本」を
世界にアピールする目的もあったと
考えられています。

  (中略)

陸上や水泳などのスポーツを行うことを
許す収容所もありました。

中でも特筆すべきはサッカーです。

1919年1月に当時の
広島高等師範学校のグラウンドで、
似島収容所(広島)の捕虜チームが、
広島高等師範学校、広島県立師範、
高等師範附属中、広島一中の
合同チームと試合を行いました。

結果は、「ドイツ兵俘虜チームの
圧倒的な勝利で、
日本の学生チームは一度もボールを
ゴールに入れることが出来なかった」
そうです。

当時の日本にとってサッカーは
まだ未知のスポーツでしたが、
今から90年以上も前に、
ドイツ兵捕虜と地元学生によって
意外な形で日本初の国際親善試合が
行われていたのです。

また同じ年の10月に、名古屋においても
捕虜と地元の学生との混合チームによる
国際親善試合が行われた記録も残っています。

似島収容所でのサッカーは盛んで、
二軍チームまであったとのこと。

ドイツ菓子店「ユーハイム」の創業者、
カール・ユーハイム氏も
大阪の収容所にいる時は
ゴールキーパーを務めたそうです。

そのほか、フーゴー・クライバー氏は
ドイツ帰国後、サッカークラブを結成、
現在も存続しています。

同クラブ出身でドイツ代表までのし上がった
ギド・ブーフヴァルト氏は、
その後日本のJリーグでプレー。

浦和レッズで活躍した後(1994―97年)、
同チームの監督も
務めています(2004―06年)。

   ❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀

 捕虜を通じて、さまざまな文化が伝播したことを
私は『捕虜の文明史』(新潮選書)で
詳しく書きましたが、
恥ずかしながら、当時はあまり
サッカーに関心がなく、
今回初めて、上の話を知りました。
早稲田出身力士78年ぶりに誕生 [2011年07月27日(Wed)]






    笠  置  山








 早稲田大学出身の関取が
78年ぶりに誕生した。

名古屋場所で好成績を遂げた直江が
皇風(きみかぜ)と、本名から
一見すばらしいしこ名に変えて
きょうの番付編成会議で
新十両に決定した。

 78年前の関取は、もちろん笠置山。
学士の力士というのは当時、
まったく珍しく、
相撲の取りっぷりも理論的で
超有名人だったとか。

 親方になって秀の山。

 私が記憶にあるのは
秀の山であるが、
大相撲解説という扉を
開いたような人だった。

 神風、玉の海のお二人も
すばらしかったし、
今の北の富士、舞の海もなかなかだが、
笠置山はその道の先駆者といえよう。

さて、皇風、
嫌だね、この名前。
曲がりなりにも早稲田の先輩である
私には読めないもの。

先日も小欄で、
女子学生の名前と力士の名前は
読めなくて困ると書いたが、
そのときのひとり、鳰の湖、
「におのうみ」と読むそうだが、
こんな判じ物ばかりが並んで
どうするのか。私はいやだなぁ。
被災地東北で五輪サッカー? [2011年07月08日(Fri)]






1964年0月10日、東京オリンピック開会式直前の
国立競技場正面席下での筆者。当時、組織委の
専門職員(ただし、最年少)として国旗を担当した。
 得難い経験に感謝している。





報道によれば、
日本オリンピック委員会(JOC)の
竹田恒和会長は6月23日、
2020年夏季五輪招致に
東京都が立候補した場合、
サッカーは東日本大震災で被災した
東北各県で開催するために協力を
求める考えを明らかにした。

 竹田会長は
「復興のシンボルとして、
日本が立ち直った姿を世界に示したい。

サッカーはできれば東北から
世界に発信していきたい。

9年後に東北の3〜5県で実施することは
不可能ではないと思う」と構想を語った。

 私はそういうことができるものなのかと
嬉しくもいささかの疑問を感じる。

 東京五輪ではヨット競技を葉山で、
馬術競技の一部を軽井沢で開催したが、
それはあくまでも、例外的な扱いで、
オリンピックは本来、同一都市で
開催するものではないのか。

 専門家の竹田会長が言ってるのだから、
規則や先例を十分、
お調べの上のことではあろうが、
被災者のみなさんや
われら東北出身者にとっては
嬉しくもむなしい話にならなければ幸いだ。
2020年の東京五輪に期待する [2011年07月03日(Sun)]

       








    この本をお勧めします。東京五輪が日本の戦後復興の象徴であり、
  日本発展のスタートラインであったことがよく描かれています。






FNNによれば、東京都が、7月中旬に
IOC(国際オリンピック委員会)のロゲ会長が
来日する際、2020年のオリンピック招致への
立候補を正式に表明する見通しであることが
わかった。

ロゲ会長は、7月14日に行われる
アジアオリンピック評議会の会合や、
16日のJOC(日本オリンピック委員会)の
100周年イベントなどに出席するため来日する。

JOCと都は、ロゲ会長来日の際、
2020年のオリンピック開催に向け、
正式に立候補を表明したい意向の様子。

1964年の東京五輪組織委の最年少職員の私が
70歳なのだから、
仮に9年後に再び
東京でオリンピックが開催されるようになっても、
失礼ながら、
矍鑠たる先輩諸兄姉がそう多いとは思えない。

私は国旗担当専門職員として
全体の準備の一部に関わっただけだが、
式典関係のさまざまなエピソードに直接間接、
関係しているので、そのうちに
まとめておこうとは思っている。

ただ、現実には、いかんせん、現役。
「その日暮らしの人生」のようではあるが
超多忙な喜びの日々を送っているので、
「過去の話」はやむなく先延ばしになっている。

東京で再びオリンピックを開催出来るなら、
「あの時」がそうだったように、
東京はもちろん、日本全体が
活気に満ちあふれてくるのではないかと
期待する。

私も「健康に気を付けて長生きしよう」と、
いつもは北方領土返還を求める講演で
言っているセリフをここでも言いたい。

世界の国旗についてさらに研究を進め、
いつでも役立てるようにしたいと、
日曜日の朝、
近くの東京五輪記念駒沢公園を散歩しながら、
思いっきり深呼吸した。

石原都知事は、
これまでオリンピック招致について、
「たいまつの火は消さない方がいい」と話し、
再挑戦に意欲を示してきた。

「志の旗」を掲げるのだ。

そしてこれからは、
それを支え、支持する都民・国民の
意欲が最も重要のようだ。

オリンピックへの関心の高まりのため、日ごろ、
「国旗を理解することはその国を知る第一歩」と
言っている私としては、
遠回りかもしれないが、
啓発の一端として、
せめて五輪と国旗の関係について、
書いたりしゃべったりを続けることが、
先輩諸兄姉への感謝の気持ちとして続けよう。

東京五輪が決まった時、私はまだ中学生だった。
その私に本番では国旗の準備を任せてくれたのだ。

今、小中学校で国旗を学びたいというところが
あったら、時間が許す限り、
無料でもお話しして歩きたい。

それもまた先輩諸兄姉への感謝の気持ちを
私なりに表明することとなろう。
2020年の東京五輪 [2011年05月28日(Sat)]








スポーツ報知(電子版)に次の記事が出ている。

   ★       ★      ★


 東京都の石原慎太郎知事(78)は27日の定例会見で、2020年夏季五輪の招致に前向きな姿勢を示した。6月17日の定例議会で正式表明する見通し。日本オリンピック委員会(JOC)では、都の判断を踏まえ、7月中旬にも立候補都市を正式決定する見通し。都では、09年10月に16年夏季五輪招致を目指したが、失敗。ブラジルのリオデジャネイロが選ばれている。

 五輪招致の再挑戦について、石原氏はこの日の会見で「やっぱりたいまつの火は消さない方がいいと思う。うまくいって9年先の話ですから」と前向きな姿勢を示した。また、自身が五輪招致の提案者であることを踏まえ、「この問題はとても大事な難しい、私の責任ある問題ですから。所信は(6月17日の)定例議会で申し上げる。要するに日本人の機運の問題」と続けた。

 4月の都知事選では、公約に五輪招致を盛り込み、4選を果たした。その後は、国際オリンピック委員会(IOC)の委員にあいさつ状を送るなど、意欲を示していた。東日本大震災が発生したことを受け、「IOC委員には、日本の復興ために、五輪開催すべき、という意見がある」との見方も示していた。前回の招致活動費用は、約200億円と巨額となり、批判を浴びた。五輪基金として約4000億円を積み立てているが、世論の支持を得ることに苦戦している。

 招致の申請期限は9月1日。JOCの中森康弘招致推進室長は25日に、東京都が再立候補するとして、7月半ばにも立候補都市を正式発表する見通しを語っている。

 東京以外では、長崎市と広島市が五輪共催を目指していたが、長崎市が離脱。09年10月に、広島市の秋葉忠利前市長が五輪招致を目指し、五輪招致検討委員会を発足したが、秋葉市長が退任し、松井一実氏が市長になったことで、トーンダウンした。22日には「財政的な裏付けがない」などとして、招致断念を決定している。東京以外で開催に意欲を示している都市はない。

 五輪には、イタリアのローマが既に立候補を表明。南アフリカ、イスタンブール(トルコ)も前向きで、開催都市は13年9月に正式に決まる。

     ☆       ☆       ☆

 私は日本でのオリンピック開催に直接携わりました。

 特に、1964年の東京オリンピックで、組織委の専門職員として
働くことができたのは大きな喜びであり、経験でした。

 2020年といえば私も79歳、まだまだ元気(のつもり)ですので、
この五輪招致には微力を提供しようと思っています。



相撲協会は分割すべし [2011年02月08日(Tue)]









 「俺はとことん悪者にされている。
だけども言いたいことがある。
このままでは引き下がらねぇ。
俺も悪いけど
八百長をしている奴はいっぱいいる。
何十人もいる」。

 報道によると、
元幕内・春日錦(現・竹縄親方)が親族に
こう語ったという。実際のところ、
そうなのではないかと危惧する。

 放駒理事長には悪いが、
八百長が全くないと思うのは
世間の常識外ではなかったのか。

 子供の頃、私は当時の
横綱・照国のファンだった。
地元・秋田の出身で、
2場所全勝優勝して引退した。

 照国が巡業で秋田に来た。
兄とともに親父に連れて行ってもらった。
初めて見る横綱の美しさに
驚嘆した。真っ白い肌に
大いちょうのよく似あう力士だった。

 当時、秋田出身の幕内は、
大蛇潟(おろちがた)、緋縅(ひおどし)と
3人いた。秋田には何度か
巡業がやってきた。

その時は、3人とも、
吊り出しで勝っていた。
これなら対戦相手は絶対に怪我をしない。
よく見ると、十両の取り組みでも、
秋田出身はみな同じようにして
勝っていた。

 いかにバカな小学生の私でも、
これで大相撲の巡業に
八百長がないとは思えなくなった。

 その後、もしかして、
巡業は本場所での
八百長の練習でないのか、
いやそんなわけがない、
少しはあってもほとんどは
真剣勝負だろう、番付次第で
収入が大きく違ってくるんだから…と
自問自答した。

 しかし、長じて、
千秋楽までに7勝7敗の力士は
ほとんど勝つという「ジンクス」を
知った。ま、ここまで5分5分だったんだから
仕方ないよね。以心伝心かもしれないし、
具体的に
貸し借りをしているのかもしれないが、
「やむをえない」という気分だったのが
ホンネだ。

 カド番大関もある程度勝ったら、
そこには当然、何らかのやり取りが
あったのではあるまいか。

 千秋楽に負けて、
7勝8敗で関脇に陥落くしたなんていう
カド伴大関って、なかなか出にくい
構造があったのではないのか。

 いろいろ想像力を働かせ、
古い相撲の思い出をかき集めると、
相撲は大好きだが、
もはやここまで来たら、
公益法人化はとても無理だと思う。

 残念でしょうがないが、仕方ない。

 もともと収入のほとんどが
「技量審査」という名の下の
「興業」であり、
これは単純な営業収入である。

 これでは、やはりここは、プロレス同様の
株式会社にするほかないではないのか。

 そこではどうぞ、八百長もやって
人気を煽ってもらっていいのでは
ないだろうか。

 現にプロレスがそうであるように。

 今や大相撲は外国人力士が
主流を占めるようになっており、
国技というのが、
もはや無理であり、
相撲の普及や国技としての伝統保持は
その会社の社会貢献として、
努めてくれれば、
世間の評価も別になるのではないか。

 あるいは、興業部分以外の
相撲博物館は公益法人に、
研修所は学校法人に…といった具合に、
分割してもいいのではないか。
負けてよかったジャイアンツ [2010年10月24日(Sun)]

          




 小欄では、セ・パ両リーグの3位チームである
ジャイアンツとロッテが日本シリーズを闘う愚の可能性を
歎じていました。

 ですから、昨日の駐日・巨人戦、
9回の表に同点になった時には
もう、うんざりでした。

 巨人ファンのみなさま、
無理を言うようで恐縮ですが、
来年はどうぞ、リーグ戦で堂々と優勝し、
パの優勝チームと日本一を
争ってください。

 井原ヘッドコーチが責任をとって退団ですってさ。

 参院選で負けても居座っているどこかの首相や
幹事長とは大違い。

 日本人の、そして
アンチ・ジャイアンツの末端として
率直な気持ちを申し上げました。
| 次へ