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老犬の悲しみ [2011年09月25日(Sun)]











 富澤誠二くんは
早稲田の学部時代の同級生。

 学生時代は自動車部員として
華々しく活躍していた。

 独特というべき私は遠く及ばない
感受性も持っていて、
時々、
いいエッセイや社会時評を書いて
送信してくれる。

 普段は、群馬県と新潟県の県境
付近にいるらしいが、
天下を睥睨している
元モスクワ駐在商社員。

 きょうはなかなか枯れた雰囲気の、
もとい、年相応のエッセイを拝読した。

 わけあって、犬嫌いの私ではあるが、
なんとなく共感を覚えるのは、
同世代で、多少ロシアを知るゆえか。

 ✾  ✾  ✾  ✾  ✾

本日は詩がからんでいる内容で、
定番の民主政権への
「犬の遠吠え」は休みです。

不思議に思うでしょうが
彼らへの批判は多々あるもの世の中の
あらかたの皆さんと同じような趣旨と
思うので何れかまたにしましょう。

拙宅から車で15分の長野原町内に
都内で言えば
小さなスーパーマーケットがあり
店の一角のカウンター棚に
20−30冊位文庫本の古本が
売られてます。

時々、どんな本があるか
目を通しています。

たまに読んでみようという本があり
これまでに数冊手にしました。
一冊2−300円です。

先日は「若き日の詩集」という本があり
めくると
古今東西の詩人の作品が110作ほど
載っていました。

詩なんてのは余り興味が無かったし
遡って中学時代の国語の時間に
詩の創作があったけど
あまり出来が良くなかったです。

富澤もたまには詩集でも買って
思いついた時に
めくってみようという意図で
200円出したのですが、
自分の読書傾向は一旦読み始めたら
末尾まで読みきってしまう本と
家の適当な所(ベッドの枕元とか
トイレの窓下の
左右70CM程の棚)に置いて
気が向いた時に頁をくくる本に
大体分かれます。分類は種々雑多です。

4−5日前にトイレに入って
この詩集を取り出しました。
東西古今の作品です。
発行は昭和51年。

めくると
セルゲイ・エセーニンという
詩人の作品がありました。

聞いた名前なのですが
帝政ロシアからソ連時代にかけての
詩人です。

自分がこの9文字の名前を知ったのは
昭和42−43年頃、貿易会社での
仕事上で知りえたのです。

貿易と詩が何で関係あるのか?
当時担当していた旧ソ連からの
鉄鋼副原料が約10,000トンの
貨物船に積まれて
はるばる黒海から日本へ入荷します。

大体この鉱石の需要家が
日本海沿いの港に隣接する企業が多く
船が着くと
夜汽車に揺られて出張です。

同じ会社でも他の若手社員は
太平洋岸に沿った
鉄鋼会社ミルへの出張で
彼らは昭和39年に開通した
東海道新幹線ですが
こちとらは夜行の
硬い椅子に乗っての出張でした。

そういう船はほぼソ連の持船で
船名がソ連の中間都市や
ロシア時代の革命家、芸術家、
音楽家、画家等の名前が
つけられています。

なつかしい名前に惹かれて
詩を見つけると
「犬のうた」という題で
一匹の赤犬が子犬を7匹産んで
毎日全部の犬をいとおしくなめては
可愛がっていた。ところがある日
飼い主が大きな袋に7匹を入れて
どこかに捨てに行ったが
親犬は飼い主を追いかけていった。

やがて諦めてとぼととぼ
寂しく引き返した。

家にかかる月が一匹の子犬に見えたが
月はやがて沈み丘に隠れた。

何か飼い主がくれるのかと思ったら
人間は石を投げた。

その時犬の目から金の星が雪に落ちた。。。
というような詩である。

自分も犬を飼っているから
犬の哀れさを強く感じるが
一方作者が生きた時代のロシアは
農奴という言葉に象徴されるように
農民の生活も厳しく
犬への餌すらやれなかった時代を
描いたのかもしれない。

短い詩であるが
色々な作者の思いがこめられている
詩である。

同時にまだ若き時代の
サラリーマン生活を
懐かしく思い出した。

あと一ヶ月もすれば古希になる
秋の夕暮れである。
作家・志賀直哉と文豪・谷崎潤一郎 [2011年09月21日(Wed)]















  写真上が作家・志賀直哉、下が文豪・谷崎潤一郎
  作家、文豪の記述は朝日新聞の記事によるもの。






 きょうの朝日新聞夕刊によれば、
『刺青』『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』
『鍵』『瘋癲老人日記』などの
谷崎 潤一郎は「文豪」で、
『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』
『城の崎にて』の志賀直哉は
「作家」なのだそうだ。

「谷崎から譲られた直哉の観音像が
早稲田で発見された」という記事だが、
その冒頭に、
「白樺派の作家・志賀直哉(1883〜1971)が
文豪・谷崎潤一郎(1886〜1965)から
譲り受けながら、戦後行方不明になっていた
観音菩薩立像が、
早稲田大学会津八一記念博物館に
収蔵されていたことがわかった」と
書いてある。

たしかに、谷崎潤一郎は
「国内外でその作品の芸術性が
高い評価を得た。現在においても
近代日本文学を代表する小説家の一人として、
評価は非常に高い」と
ウィキペディアにもあるが、
ウィキはこの通り「小説家」。

志賀直哉は第一銀行勤務という
転勤族の息子として、いまで言うなら
「被災地・宮城県石巻市で生まれ、
父の次の転勤地・東京府育ちの人。

それはともかく、ウィキも
「白樺派を代表する小説家のひとり」。

しかし、朝日さん、
ウィキと差をつけて、
何も一方を「文豪」とし、
他方を「作家」としなくても
いいのではあるまいか。

ついでに、
朝日新聞はどういう人を「文豪」と言い、
誰が「作家」で、
どの人が「小説家」、
ほかに「文士」「文学者」「大作家」・・・
についても教えてほしい。

記事の出だしで引っかかっていたら、
思えば、この「発見」も
おかしいですよね。

会津八一記念博物館なんて、
私が卒業してずいぶん経ってから
(つまり最近)できたんじゃないのかな。

その時に早稲田は
なにも考えないで高さ1mほどの仏像を
「その辺の品物」の1つとして
ほっといたのか。

よくも悪くもいかにも早稲田らしい。

しかし、記事を全部読んでも、
これは発見ではなく、
「確認」「再発見」がせいぜいで、
この表現も私はおかしいと思う。

実は、先年、私も日露戦争直後に、
サンクトペテルブルクに近い古都・
メドネージ村の日本人捕虜収容所に
捕虜として二年間いた記録写真帳
「配所廼月(はいしょのつき)」を
国立国会図書館で“発見”した。

86葉の写真が掲載されている
貴重なものだ。

こんな記録写真があって、参考になったと
友人に話すと話が広がり、
産経新聞は一個面を使い、
週刊新潮はグラビア数ページを割いて、
この“発見”を報じた。

防衛大学校からは
卒業記念講演までする機会が与えられた。

これももちろん発見ではない。せいぜい、
数十年ぶりで世に出た、くらいのことだ。

だから拙著
『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版)では、
当然ながら、発見とは書かなかった。

この仏像発見の話、見出しも
「直哉の観音像 発見」「谷崎から譲られる」で、
なぜ、姓と名が作家によって違うのだろう。

およそ文学的センスに欠ける老生には、
この記事、どうにも腑に落ちない。
このせいで、今夜も眠れないかも。
「方丈記」の地震記述の再来 [2011年03月24日(Thu)]





  鴨 長明(1156〜1216)





 元暦2年(1185年)7月9日、
京の都付近を大きな地震が襲った。

 鴨 長明、30歳になる少し前のこと。

 山は崩れ、海は傾き、地面は裂けて、
岩は谷底に転落・・・。

三ヶ月も余震が続いた「方丈記」にある。

 今回の地震は、それ以来のもの、
つまり千年ぶりの大地震かもしれない。

 以下は、「方丈記」の関連部分。
「長明さん」は、いいものを記録として遺してくれた。

  空には「放射能舞ひ」という記述がないだけ、
千年前のほうが幸せだったのかも。

 ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

おびたたしく大地震ふる事侍りき。

そのさま、よのつねならず。

山は崩れて、河は埋み、海は傾きて、陸地をひたせり。

土裂けて、水涌き出で、巌割れて、
谷にまろび入る。

なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、
道行く馬は足の立ちどをまどはす。

都のほとりには、在在所所、
堂舎塔廟、一つとして全からず。

或はくづれ、或はたふれね。

塵灰立ちのぼりて、盛りなる煙のごとし。

地の動き、家のやぶるる音、雷にことならず。

家の内にをれば、
たちまちにひしげなんとす。

走り出づれば、地割れ裂く。

羽なければ、空をも飛ぶべからず。

竜ならばや、雲にも乗らん。

恐れの中に恐るべかりけるは、
ただ地震なりけりとこそ覚え侍りしか。
マンション挙げての協力に感謝 [2011年03月21日(Mon)]








 世田谷区の深沢ハウスで
居住されているみなさまが
岩手県大槌町の被災者のために
キメ細かい支援をしてくれています。

以下は、
今朝までに集まった指定された品々数です。

明日、午前中に引き取り、午後には
難民を助ける会の緊急輸送車で
岩手県に向かうようにしたいと思います。

古賀巌管理組合理事長はじめ役員の皆様、
そして、管理の実務を担当している
株式会社 長谷工コミュニティに感謝いたします。

電池:単1−20個、
単2ー26個、
単3−104個、
単4−88個

ボールペン:486本

メモ帳:102

離乳食:30箱

粉ミルク:31缶

おしりふき:1856枚

おむつ:1788枚

哺乳瓶:15個

生理用品:652個

ティッシュ:ボックス19箱。ポケット30個

トイレットペーパー:106巻

ごみ袋:397枚

歯磨き(歯ブラシ:水なしで使用できるもの):約77本

くつした:141足

防寒衣類:約220着

長靴・運動靴:78足

懐中電灯:2台

携帯充電器:なし

ホッカイロ:715個

カセットコンロ:1台

同ボンベ:14本

    
トルストイとノーベル文学賞 [2010年12月27日(Mon)]











12月14日、朝日新聞夕刊「窓」の欄で、
大野正美論説委員(元モスクワ支局長)が
「文学者の栄誉」として興味深い記事を
書いておられます。

 私がデュナンとトルストイについて
小欄で長々と書いていることに、
関心を持ってくださる方が多く、
感謝しています。

ところで、デュナンは
第一回ノーベル平和賞の受賞ですが、
同年生まれで同年没のトルストイには
ノーベル文学賞は与えられませんでした。

そのあたりの微妙な事情と分析を、
尊敬するロシアウォッチャー・大野さんが
以下のように書いておられます。
ご参考までに転載させていただきます。

  ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆

 今年のノーベル賞は、
主役不在の授賞式となった平和賞が
話題の中心だった。

 ところでチェーホフの生誕150年、
トルストイの死後100年に当たるロシアでは、
ノーベル文学賞の創設後も生きていた
両文豪が
なぜ受賞できなかったのか
ということも関心を呼んでいる。

 まず、過去にロシアに戦争で敗れ、
多くの領土を奪われてきたスウェーデンの
国民感情が、
同国アカデミーによる選考にも
影響した可能性がある。

 トルストイの場合、
無政府主義的な立場で徴兵制や
私有制を否定したことが、賞の掲げる
穏健な近代理想主義と相いれない過激主義と
みなされた。

似た立場から徴兵を拒否し、
帝政ロシアで
きびしく弾圧されたキリスト教の一派を、
彼が熱心に支援したことも、不利に働いた。

 ロシア革命後は、
ソ連の社会主義がノーベル賞の理想主義を
脅かす過激主義に加わる。

結果的に、
社会主義リアリズムの父ゴーリキーは
無視され、
この系統で文学賞を得たのは、
「静かなドン」のショーロホフだけだ。

あとの受賞者は、
ソルジェニーツィンのように
ソ連当局と対立した文学者ばかりである。

 だからロシアには、
本来の価値で選んでいるのか、
との不信が根強い。

ソ連末期に受賞した亡命詩人のブロツキーが
「取るべき人々を差し置いての栄誉は心苦しい」
と語ったのは、その反映だ。

今回の平和賞授賞式を欠席した
ロシアの動機の一端にも、
この屈折した思いがあるように思う。
三日月の詩 [2009年11月10日(Tue)]







    剪画は石田良介画伯の特段のご厚意で掲載させて
  いただいております。
   禁無断転載。








三日月を詠んだ漢詩はないかと探してみましたが、
『唐詩選』にある李白のこの有名な詩しか見つけていません。

峨眉山月半輪秋    
影入平羌江水流    
夜発清渓向三峡    
思君不見下渝州    

峨眉の山月 半輪の秋
影は平羌の江水に入りて流る
夜 清渓を発して三峡に向こう
君を思うも見ず 渝州に下る

 ただ、これでは「半月」ではないのかなと思っていたところ、
『唐詩選』(吉川幸次郎・小川環樹編 筑摩書房)の訳は
これを次のようにしています。

  峨眉の山の端に三日月のかかる秋
  月影は平羌江の水に落ちて流れていく
  夜半に清渓を舟出して三峡に向かう
  あなたをおもっているのだが
 顔を見ないままに渝州へ下ってしまうのだ

「半輪」を三日月としているのです。

 それにしても、三日月は漢詩のなかに他にみつかりません。
広大な山野を放浪した李白にとって
月の光は友であり慰めでもあったことでしょう。

玄宗に仕えたこともある李白が長安を追い出され、
飄然と自分の心の赴くままに旅をし続けた李白、
その孤独を慰めたものが月光であれば、
三日月は酒の友にもならない、
やはり皓々と耀く満月のほうが詩になる
と考えるのは浅はかでしょうか。

どなたか三日月を詠んだ漢詩をご存知でしたら教えてください。

「夜発清渓向三峡」とあるのですから、
荒涼たる原野で船出するには、
三日月では光が足りないのではないか、
という仲間もいます。

 私はバングラデシュ建国のころ、サンパン(帆掛け舟)で
なんどか、ベンガル湾を渡ったことがあります。満月のときは
「月光価千金」で、本が読めそうな気さえしました。

 三日月のときのほうが、雰囲気としてはいい気分でした。

 でも、どうして漢詩には三日月がないのでしょうか。

 また「小倉百人一首」には月を詠んだ歌が13首もありますが、
三日月はどれでしょうか。
啄木の母 [2009年07月06日(Mon)]

          


                 石川啄木






 たはむれに 母を背負ひて そのあまり 
       軽きに泣きて 三歩あゆまず
 
 石川啄木(1886〜1912)のこの歌に初めて接したのは、
小学校高学年のときだったように思う。

 激しく心打たれた。

 この歌が世に出たのは、
1908(明治41)年夏以後の作、
一千余首中から551首を抜粋して収めた『一握の砂』。

 この歌集にはほかにも、

  東海の小島の磯の白砂に われ亡きぬれて蟹とたはむる
  砂山の砂に腹這い 初恋のいたみを 遠く思ひいづる日

といった有名な歌が並んでいる。どれもこの歌人の率直さ、
ナイーヴさに胸が締め付けられる思いがする。

「東海の・・・」では、次第に焦点を絞ってゆく作歌の技法に
魅了された。

「砂山の・・・」は、越谷達之助のメロディーとともに知った。

 及ばずながら、
今やわがささやかなレパートリーの1つともなっている。

 これらはいずれも、啄木22歳か23歳の歌。

 啄木は、父37才、母40才のとき、
サダ、トラの2人の姉に次ぐ長男として生まれている。

 計算してみると、この歌を詠んだとき、
母・カツは62歳くらいか。長年、仲の悪いカツと妻・節子が
今で言う家庭内別居のような形で暮らしていた。

 あるとき、「たはむれに」背負った母、
当時の62歳は「老母」だったに違いない。
「苦労をかけている。こんなにも軽い」。
22,3歳の啄木の衝撃がわかる。

 それにしても、私は自分の亡き母を背負ったことがない。
苦労をかけっぱなしのまま逝ってしまった母には、
ただただ申し訳ないと日々、合掌するほかない。

 昨日の長田延壽さんの最後の歌、「たはむれに」を
聞いて、「まじめに」涙を流してしまった。
ナナカマドに雪の帽子 [2008年12月23日(Tue)]




































 昨今の東京のあたたかさは異常ではないか。
きのうもきょうもコートなしで出かけた。

 サハリンも暖冬だ、と言っていた。

 それでも、ナナカマドが真っ赤に実をつけ、
少しではあるが雪の帽子をかぶっていた。

 さっそくカメラを構えていると、
「これってドクトル・ジバゴの世界よ! 
私、これが見たかったの」
と通訳の奥井みどりさん。

 お互い、もう何度も何度も訪れたロシアだが、
これをしんみり見たのは初めて。みんなの視線が集まった。

 旧神社通り、戦後はスターリン通りと名をかえ、
今は平和通りとなった郷土博物館の庭で撮影した。

 その郷土博物館は日本時代のもの、
そこだけは名前が変わっていない。

 そして、最近、日本からの援助もあって、
われわれの13年来の主張が通り、
日本時代の展示も行われるようになった。

 ナナカマドに雪、
札幌でも人目を引くが、
サハリンでとなるとまた灌漑ひとしおである。
法隆寺と柿B [2008年10月30日(Thu)]











 柿食へば・・・の句の作者のいた場所について、
「ブログを見て一言」と、
古い仲間の田中須磨子さんから
久々のメールです。「門前の茶店」説です。

 本職は日赤出身の看護師でいまはどこかの
大病院の副院長さんをしている方です。

また、書では日展に入選したりという実力者でもあります。

 ほかにも、
秋田県横手市でお店を経営している杉本健吾さんからは
「イメージとして法隆寺の山門から歩いて10分以上離れて、
かすかに遠く鐘の音が聞こえてくるあたり」
というお返事がありました。

 また、存じ上げてはいない方ですが、
三重県四日市市の鈴木凸子さん(ペンネーム、
おでこがでているので、自分で凸子と名乗っているそうです)からは、
「奈良では、おそらく同じような時刻に、
あちらこちらの寺院の鐘楼がなるのですから、
お寺の構内か、
すぐ近くでなくてはどこからの鐘の音か
区別がつかなくなるのではないでしょうか」
というメールもいただきました。

 以下は田中さんからのメールです。

  ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

お元気そうで何よりです。
若くないのですから、ご無理はなさらぬように。
ところで、

柿くへば鐘がなるなり法隆寺

この句は、子規が門前の茶店に腰かけて詠んだ句と記憶しています。

子規は柿が大好きだったようで、
「我死にし後は」とし、

柿喰ひの俳句好みしと伝ふべし

と詠んだ句もあるほどです。

また、愚庵より柿を送られて

御仏に供へあまりの柿十五

というのもあります。

余程、柿を食べるのが好きだったのですね。

仏さまにお供えした柿も全部子規が食べたに
違いないと思ってしまいます。

法隆寺の門前の茶店に座って
柿にかじりついている子規の姿が
目に浮かびます。

秋の夕暮れ、法隆寺の鐘の音もきこえてくるような、
・・・一枚の絵になります。
法隆寺と柿A [2008年10月29日(Wed)]

































    進行中の近鉄特急から。なんば橋駅近郊で。
   写真がぶれているのはご容赦を。
   各家の庭にも柿を植えているお宅が多いと見た。








 これを考えるといつも眠れなくなるのです。

 私の中学時代以来の難問なんです。

 「柿食へば 鐘がなるなり 法隆寺 (子規)

 このとき作者はどこにいたか。

@ 法隆寺の境内
A 法隆寺の近辺
B 法隆寺の鐘の音が遠くに聞こえるあたり」。

   中学の国語の教師は、@だというのです。
「法隆寺というこの言葉がこの句の決め手だから、
そこでなくてはならないのだ。詩情を解するとはそういうことだ」。

 今も昔も詩心がないせいか、
私にはそうとは思えませんでした。AかBか、
多分Aではないかと思うのです。

 法隆寺の宗教的な雰囲気と伝統の重みなどからして、
境内に柿を売っている売店があるというのもおかしいし、
子規があらかじめ持参してというのも、
なんとなく滑稽に思えたのです。

 作者は、参詣ないし拝観し、
表に出、
そう遠くない茶店にでも立ち寄って、
柿を食べたのではないかと
今でも思っています。

 法隆寺にはその後何度か行く機会がありましたが、
あいにく柿の熟す季節ではなかったので、
今ひとつ、感じをつかめませんでした。

 先般、奈良県を少し回りました。

 またまた
浅学非才、想像力の欠如をさらすようですが、
奈良は柿の名産地なのですね。

「柿の葉寿司」は有名ですが、
葉があることは実もあるわけです。

 ただ、季節が違っていたので、鈍感な私はこんなにも
柿の木があることに気付かなかったのです。

 ちょっと見回すと、今は県内至るところで
と言っていいほど熟柿がなっており、
各家々にも庭に柿の木というのが普通にあり、
道端には、「柿の直売所」が並んでいるのです。

 これで、この句の深みが、
また一段とわかるようになってきたような
気になりました。

 おそらく、柿を食べることが奈良では
きわめて普通のことだったに違いありません。

 ただ、子規は言うまでもなく奈良の人ではなく、
あらかじめ皮をむくためのナイフと柿を
境内に持参してゆくとは考えにくいのです。

 するとやはり、法隆寺を出て、
なんとなく深呼吸でもして、
その思いにふけっているころ、
そう遠くない茶店にでも腰をおろしたところ、
寺の方向から鐘の音が聞こえてきた
というのではないでしょうか。

 諸兄姉の解釈をお聞かせくださり、
私を眠らせてください。
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