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SAPIO・中曽根元首相が語る末次先生C [2011年10月07日(Fri)]




   1968年、京都国際会議場で開催された「日米京都会議」。
   末次先生が事実上、一人で仕切った会議である。ここで、
   両国のオピニオンリーダーが「72年、核抜き本土並み返還」で、  
   一致した提言を発表したことが、沖縄返還に
   決定的な影響を与えた。






  SAPIO10月号に掲載されている
同誌記者の中曽根元首相への
インタビューです。 

 ゴルバチョフ大統領の訪日時には、
末次先生が「抑留3団体」代表と
大統領との会談を設営した。

 混乱する会場の中で私は大統領夫人と
高齢の抑留者代表をお守りするなど、
会談のロジを担当した。


  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾

冷戦時代のソ連は事実上、
「日本との間で領土問題は存在しない」
という姿勢を取り続けた。

それが大きく変化したのは90年代に
入ってからだ。

平成3(91)年4月、
海部首相とゴルバチョフ大統領との間で
日ソ共同声明が署名され、
北方四島が解決されるべき領土問題の
対象であることが初めて確認された。

そして、ソ連が崩壊しロシアとなっていた
平成5(93)年、
細川護煕首相とエリツィン大統領との間で、
日ロ間の領土問題は
北方四島の帰属に関する問題であると位置づけ、
解決のための交渉指針などを示した
東京宣言が署名された。冷戦の終了により、
末次氏らの努力が実を結び始めたのである。

 ところが、平成12(00)年に
プーチンが大統領に就任してから
資源強国と化すと、ロシアは強硬姿勢に転じ、
平成20(08)年に
メドベージェフ大統領が誕生すると、
歯舞、色丹の二島返還すら認めなくなった。

 そして、去年11月には、
メドベージェフがソ連、ロシアの大統領として
初めて国後島を訪問するなどして
不法占領の既成事実化を大きく進めた。

──21世紀に入って
交渉が行き詰まり始めると、
国内の二島先行返還論者らとの対立も
表面化してきました。

例えば、00年の夏、
日ロ友好議員連盟の総会で
鈴木宗男氏(当時、衆議院議員)は
末次氏の名を挙げて批判し
(吹浦注・ロシア大使や100名近い
超党派の国会議員の前で、
招かれて記念講演をした末次先生を突然、
面罵した。いずれ詳しく書きたい)、

末次氏もその後、講演会などで
二島先行などの妥協案を批判した。

中曽根 「今世紀(20世紀)の問題は
今世紀にケリをつけなきゃいかん」というのが
末次君の考えで、
問題を先送りにして
次の世紀に持ち越させまいと
奔走したのです。

戦後処理は領土問題が
解決しなければ終わらない、という信念です。

そしてこの揺らぎのなさは、
じつはソ連側からも尊敬されていました。

「二島返してくれると言うから
貰っておけばいい」という安易な姿勢から
解決はあり得ない。

官につかず
権力に阿(おもね)らずの精神です。

──今年の7月11日は末次氏の
10回忌でした(吹浦注・正しくは“没後10年”)

中曽根 その前日、
彼を偲ぶ会が開かれた
(吹浦注・吹浦は司会を務めた)のですが、
私はそこでこう挨拶をしました。

「末次さんは野人でありながら
日本国民を代表する仕事をされた。
戦後稀に見る国士である」

 北方領土問題にとどまりません。
日本兵の引き揚げ援護運動、
戦犯釈放に向けた活動、沖縄返還……
彼の果たした役割は非常に大きい。

彼がいなかったら、
同じ成果を得られていたかどうか。

末次君は一民間人でありながら
常に国のことを考え、
その生涯は国に奉仕し続けた一生でした。
                  (つづく)
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