SAPIO末次先生を語る中曽根元首相 [2011年10月05日(Wed)]
![]() 今年7月10日、末次線の墓地に近い早稲田のリーガロイヤルで開催した、 「没後10周年記念 末次一郎先生に学ぶ会」には、中曽根元首相を始め、 全国から200人近い同志が参集しました。私は司会を務めました。みなさまの ご協力に感謝しています。 「この人物が日本にいなければ 沖縄返還も危うかった」 「ミスター北方領土・ 末次一郎の交渉相手を魅了した 無私の愛国心と人格力を獲得せよ」 と、私どもを叱咤激励する見出しで、 「SAPIO」10月5日号が わが師・末次一郎先生について、 特集し、記者による 中曽根康弘元総理への インタビューを掲載しています。 私も編集に協力し、 写真のお世話等をしましたが、 是非、この雑誌をお買い求めになり、 全文をごらんください。 なお、遠隔地等で入手困難なかたのために、 小欄で少しずつ、内容をご紹介します。 ☆☆☆ ★★★ ☆☆☆ かつて我が国には、 一民間人でありながら、 北方領土返還交渉に尽力し、 北方四島を最も“日本に近づけた” 人物がいた。 四島一括返還という大原則を 曲げることなく旧ソ連、 ロシアと渡り合い、 そのぶれない姿勢で 相手から敬意すら獲得していた。 「ミスター北方領土」と呼ばれた 故・末次一郎氏である。 我々は今、彼から 何を学ぶべきなのか。 生前の末次氏と親交を結び、 その逝去の際には葬儀委員長を務めた 元首相の中曽根康弘氏が その比類なき精神を振り返る。 * 平成3(1991)年4月、 旧ソ連のゴルバチョフ大統領が来日し、 当時の海部俊樹首相と 平和条約や北方領土問題について 討議した時のことである。 毎日、会議が終了するのを 会場の外で待ち受け、 旧ソ連の代表団から その日の会談内容を聞き出し、 日本側のプラス、マイナスなどを 箇条書きのメモにして 密かに首相官邸の裏口から 海部首相に届けていた人物がいた。 それが末次氏である。 (吹浦注・毛筆で書き上げたものに ワープロでさらに説明したものをつけ、 実際に走り使いとして 海部首相に届けたのは私である。 そのあとで、海部首相から何度も 末次に電話があった。) 「四島一括返還」の 大原則を曲げることはなかった。 ──末次一郎氏は、滅多に メディアに登場しませんでしたが、 日ソ(日ロ)間交渉に 大きな役割を果たしたと 伝えられています。 中曽根 末次君は昭和48(1973)年から 日ソの学者による 「日ソ専門家会議」を開催し、 日ソ間の理解を深めようと努力し、 独自のパイプを築いていた。 当時、日本人の中で 最もソ連を知る人間だったと 断言できるでしょう。 なにしろ100回以上、 ソ連を訪問しましたから。 末次君は時の総理や外務省だけでなく、 求められれば、交渉の“落とし所”を どこにするかに 悩んでいたソ連の高官 (吹浦注・A・ヤコブレフ国家顧問や E・プリマコフ首相などをさす) にもアドバイスしていました。 そのため、どちらからも 信頼されていたのです。 ──末次氏は著書 (『「戦後」への挑戦』)の中で、 自らも関わった引き揚げ援護運動に 関連して、ソ連のやり方への 激しい憤りを綴っています。 恨みすら抱くソ連に対し、 敵に塩を送るような 行ないをしたのはなぜでしょうか。 中曽根 外交交渉は勝ち負けじゃない。 どちらも納得しなければならないのです。 それには、当事者同士が信頼関係で 結ばれなければならない。 (つづく) |






