作家・志賀直哉と文豪・谷崎潤一郎 [2011年09月21日(Wed)]
写真上が作家・志賀直哉、下が文豪・谷崎潤一郎 作家、文豪の記述は朝日新聞の記事によるもの。 きょうの朝日新聞夕刊によれば、 『刺青』『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』 『鍵』『瘋癲老人日記』などの 谷崎 潤一郎は「文豪」で、 『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』 『城の崎にて』の志賀直哉は 「作家」なのだそうだ。 「谷崎から譲られた直哉の観音像が 早稲田で発見された」という記事だが、 その冒頭に、 「白樺派の作家・志賀直哉(1883〜1971)が 文豪・谷崎潤一郎(1886〜1965)から 譲り受けながら、戦後行方不明になっていた 観音菩薩立像が、 早稲田大学会津八一記念博物館に 収蔵されていたことがわかった」と 書いてある。 たしかに、谷崎潤一郎は 「国内外でその作品の芸術性が 高い評価を得た。現在においても 近代日本文学を代表する小説家の一人として、 評価は非常に高い」と ウィキペディアにもあるが、 ウィキはこの通り「小説家」。 志賀直哉は第一銀行勤務という 転勤族の息子として、いまで言うなら 「被災地・宮城県石巻市で生まれ、 父の次の転勤地・東京府育ちの人。 それはともかく、ウィキも 「白樺派を代表する小説家のひとり」。 しかし、朝日さん、 ウィキと差をつけて、 何も一方を「文豪」とし、 他方を「作家」としなくても いいのではあるまいか。 ついでに、 朝日新聞はどういう人を「文豪」と言い、 誰が「作家」で、 どの人が「小説家」、 ほかに「文士」「文学者」「大作家」・・・ についても教えてほしい。 記事の出だしで引っかかっていたら、 思えば、この「発見」も おかしいですよね。 会津八一記念博物館なんて、 私が卒業してずいぶん経ってから (つまり最近)できたんじゃないのかな。 その時に早稲田は なにも考えないで高さ1mほどの仏像を 「その辺の品物」の1つとして ほっといたのか。 よくも悪くもいかにも早稲田らしい。 しかし、記事を全部読んでも、 これは発見ではなく、 「確認」「再発見」がせいぜいで、 この表現も私はおかしいと思う。 実は、先年、私も日露戦争直後に、 サンクトペテルブルクに近い古都・ メドネージ村の日本人捕虜収容所に 捕虜として二年間いた記録写真帳 「配所廼月(はいしょのつき)」を 国立国会図書館で“発見”した。 86葉の写真が掲載されている 貴重なものだ。 こんな記録写真があって、参考になったと 友人に話すと話が広がり、 産経新聞は一個面を使い、 週刊新潮はグラビア数ページを割いて、 この“発見”を報じた。 防衛大学校からは 卒業記念講演までする機会が与えられた。 これももちろん発見ではない。せいぜい、 数十年ぶりで世に出た、くらいのことだ。 だから拙著 『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版)では、 当然ながら、発見とは書かなかった。 この仏像発見の話、見出しも 「直哉の観音像 発見」「谷崎から譲られる」で、 なぜ、姓と名が作家によって違うのだろう。 およそ文学的センスに欠ける老生には、 この記事、どうにも腑に落ちない。 このせいで、今夜も眠れないかも。 |