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津波と教職員の決断D [2011年09月15日(Thu)]










畏友・名越健郎前時事通信
東北支社長の論文
「危機管理から見た東日本大震災」
(拓殖大学海外事情研究所の
『海外事情』7、8月号)は、
さらにさまざまな学校の悲劇を
伝えている。

宮城県東松島市野蒜(のびる)小学校の
ケースだ。

なぜか、
津波を予想したマップはいろいろあって、
安全かどうかもかなり度合いが違うようだ。

宮城県の石巻市立女子高校で見たものは
危険地域をもっと広く予想していた。

それにしても、なぜ、児童全員を
そして避難してきた住民を
3階に誘導できなかったものか。

現場をしらない私が言うべきことでは
ないかもしれないが、
惜しみて余りある。
           合掌

   ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

子どもの安否を気遣う家族や近隣住民らが、
海から600メートル離れた
野蒜小学校に集まった。

同校は市の指定した一次避難場で、
東北大学が監修した
市の津波防災マップでも
安全とされていた。

人々は学校の体育館と
校舎に分散したが、
やがて津波が200人近くがいた
体育館に海側から押し寄せ、
みるみる数メートルの高さになった。

多くの人が2階ギャラリーに逃れたが、
数十人が溺れて水死した。

3階建ての校舎側に逃れた人は
無事だった。

水が引いた体育館のフロアでは、
ピアノがひっくり返り、
5センチの厚さに泥が堆積。

その上に多数の遺体が散乱した。
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コメント
私は1971年から72年、独立前後のバングラデシュで浮き袋を何万個も配ったことがあります。国際赤十字の駐在代表としてです。この地域では、サイクロンがらみの大洪水で71年11月に何十万人もが亡くなりました。
その後、さまざまな対策とともにこの方法は役立っていると聞いています。
Posted by: 吹浦忠正  at 2011年09月17日(Sat) 00:04

今後を考えるにあたり、
救命胴衣を各家に配布されてはいかがだろう。
空気の力で上半身の保護になるし、
寒さも若干防げ、そして明るい蛍光色は遭難者を識別しやすくなる効果がある。
丈夫な繊維ならば物が胴衣を突き破ることも無いと思う。
学校の校舎に、事業所に救命胴衣が人数分あれば、溺死者はかなり圧縮できたのではないかと思う。
素人考えで恐縮だが、
こんな感じで知恵を絞り、
ブレインストーミングで案を思いつけば、今後もっと良い思いつきが出きると思う。そこから実用化すればいい。
Posted by: くま  at 2011年09月16日(Fri) 23:52