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昭和天皇、安倍晋太郎、賀陽大使 [2011年06月08日(Wed)]
 


         


             賀陽治憲大使



 賀陽治憲氏(かや・はるのり)=
旧皇族、元外交官)元大使が、
6月5日午前8時35分、老衰のため
東京都稲城市の病院で死去されました。

84歳だったそうです。

賀陽さんは、戦後の1947年10月、
他の10宮家とともに皇籍離脱した
賀陽宮家の2代目当主恒憲氏(故人)の次男。

東京大法学部を卒業し、
50年4月に外務省に入省、
イスラエル、デンマーク、ブラジルの
各大使などを歴任されました。

今上天皇とは、
またいとこの関係にある方です。

私は大使とは、大使でいらした時代に
2、3度お目にかかっただけですが、
賀陽大使については
安倍晋太郎さん(安倍晋三元首相のご尊父)が
外相だった時代にこんな話を直接、
聞いたことがあります。

1995年の1月でしたでしょうか。

南部アフリカはザンビアの首都ルサカの
インタコンチネンタルホテルで
私は日本大使と3人で、
4時間半もお話しするという機会を
いただきました。

昔、木村俊夫外相がナイロビでの国際会議に
出席したことを除き、
現役の日本の外相として初めての
ブラック・アフリカ(サブサハラ)の訪問に
なることから、
「アフリカの飢餓」が叫ばれているこの時期にこそ
是非、行くべきだと強くお勧めし、
当時の三宅和助中近東アフリカ局長(今の
衆議院議員三宅雪子さんのお父上)も
賛同してくださり、積極的に進めてくださいました。

そんな経緯から、私も随員として
ご一緒させていただきました。

当時、私は難民を助ける会の代表幹事として、
「アフリカへ毛布をおくる会」(森繁久弥会長)の
実行委員長の任にあり、
三宅局長がその事務局長として
タッグマッチを組んでいました。

で、ザンビアに話を戻しますと、
時差に苦しむ大臣をよそに、
他の外務省からの随員のみなさん
(名前は忘れました?)は
久闊を叙すべく
麻雀その他にいそしみ、
大使と私に大臣を預けた格好に
なってしまったのです。

ところが大臣は時差で苦しみ、
眠れないから付き合えというので、
麻雀をしない私は
大臣用の特別室で、
焼酎を飲みながら3人で延々と
盛り上がっていたのです。

その中で出た忘れがたいエピソードを
もう時効ですからお伝えしましょう。

安倍さんが外相に就任早々のころだったと
聞きましたが、
天皇陛下に外交報告をしたそうです。

もちろん、昭和天皇です。こんなやりとりを
されたそうです。

陛下「ところで、カヤはどうしているかね?」

安倍「はぁ・・・?」

陛下「カヤだが?」

外相「はぁ、はぁ・・・???」

陛下「はぁ、じゃわからぬ」

安倍「はぁ・・・、
(小声で)確か小さな親切運動に
関係しておられるかと存じます」

陛下「?(外交官として
どこかに赴任したはずだが・・・)」。

引き下がって調べたところ、安倍さんは
賀陽治憲駐イスラエル特命全権大使(当時)と
茅誠司前東大学長とを混同したことに
気付いたのです。

「外交報告なんて初めてだし、これでも
陛下の前ではほかではありえない緊張を
するんだ。あれ以来、何度か奏上する機会はあったが、
なんどやっても緊張する。未だ
訂正する機会もない」。

私が昭和天皇をお見かけしたのは、
敗戦直後の地方巡幸の際、
秋田市西根小屋町を通られるのを
秋田女子師範学校の2階から覗いて
幼稚園の教師に叱られたとき
しかないようなものです。

長じてからは
明治百年の記念式典とかでしょうか、
直接お言葉を賜ったことなどは
もちろんありません。

賀陽治憲大使の訃報に接し、
畏れ多くも、このエピソードを
思い出してしまいました。
         合掌
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