戦陣訓の起草者に聞くI [2011年02月27日(Sun)]
![]() 白根 岩畔さんが陸軍大臣にこれを意見具申したら「お前がやればいいじゃないか」といわれたそうですが、結局、これは軍人教育の問題ですから教育総監部(注・山田乙三総監、今村均本部長)でやれ、ということになり、陸軍大臣から総監に話があって適当な人捜しをやったんですね。 〔注〕(教育総監部本部長に)就任して間もないある日、部下の課長後藤大佐(光蔵、浦辺の遺稿集の序文を執筆、当時少尉──吹浦注)から次のことを報告された。 「岩畔軍事課長(後の少将)が支那の各方面戦線を視察した後、東条陸軍大臣に対し、『明治大帝より下賜された勅諭の5ヶ条を軍人精神の根拠とすべきことは永久に変えてはなりませんが、実状に照して戦地の異常環境に即応する具体的教訓を示す必要のあることを痛感しました』と報告いたしましたところ『すぐそれを起案して提出せよ』と指令され、軍事課を中心として幾人かの起案委員を設け、手をつけては見ましたもののなかなかはかどらず、結局“こういう教訓書の起案は教育総監部に依嘱すべきだ”ということになり、こちらに交渉してまいりました。 戦陣に於ける教訓といえば出征軍人軍隊に対するものであり、多年総監部が主張しております“出征部隊の軍隊教育こそ、当然当部の関与すべきものである”の懸案をこの際解決するために、右の起案に着手してはいかがでしょう」 <今村均『続・一軍人六十年の哀歓』芙蓉書房、165頁> そして専任には浦辺少佐がいいということになりました。浦辺という人は軍人の中でもめずらしく文学のわかる青年将校でした。 そして彼が主任に任命されまして、人集めにかかったわけです。 当時はもちろん『戦陣訓』などという名前はありません。 『軍人に賜りたる勅語』があるし、その一部の面だけを謳歌するようなものをつくる必要はない、という意見も相当強くて、喧喧囂囂、随分、議論をやりました。 それが「1、軍人は忠節を尽すを本分とすべし」では余り抽象的で実践訓にならないではないか、もう少し具体的にとらえてはどうか、というところに落ち着いたわけです。 〔注〕「陸海軍人に賜った勅諭、または典範令において軍人精神・戦闘訓練等総ては尽されてゐるが、一兵士の心掛けとして一層具体的に親切に説明する必要のあることを思ひ慎重に研究した。『戦陣訓』の題は教育総監部が主体となって練り定めたもので、文中の国体観等は相当の学者が参与したのである」 <『戦陣訓』制定に関する東条陸相の談、昭和16年1月8日付『東京日日新聞』> 関東軍と京都師団の石原莞爾中将とがその不要論を力説したが、支那総軍は急速な公布を希望してきた。 <今村『続・一軍人六十年の哀歓』芙蓉書房、166頁> 『戦陣訓』は「結」のところで「以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。さればこれを戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるべからず」と述べ、その由来と根拠を明確に規定しているけれども、公布当初から、たとえば石原莞爾のように勅諭のほかにそのような屋上屋を重ねるが如きものは不要である、と主張し、配布を拒否した者もいた。 <大原康男(國學院大学助教授)『帝国海軍の光と影── 一つの日本文化論として』日本教文社、248頁> |






