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国旗と国家主権A 北方領土 [2010年05月30日(Sun)]





    色丹島から国後島を臨む。







一定の領域(船舶や航空機を含む)を
自国の領土(特別な法的資格を持つ区域)であるということを
明示して先占を行うため、
当該領域のしかるべき位置に国旗を掲揚することは
重要な一手段である。

但し、一度国旗を掲揚すれば、
それだけで先占をなし得たということにはならない。

継続的にその国旗が掲揚され、
管理されるといった実効支配が明らかでなくては、
先占しえたことにはならないからだ。

特に、国旗の場合は布製であり容易に破損することから
しばしばこれに代わる恒久的素材による
標杭、標示板の設置といった行為が行われる。

これはまた国旗掲揚と同様に、先占を示す一手段であり、
国旗が制定される以前にあっては、
むしろ標杭や標示板の設置が一般的であった。

わが国の例でいうならば1798年、
択捉島領有の意図をもつロシアに対抗し、
幕臣で松前蝦夷地御用取扱の
近藤重蔵(1771〜1829)が
アイヌのエカシ(首長)の了承のもと、
寛政10(1798)年、択捉島北東端の
丹根萌(たんねもい)に「大日本恵土呂府」の木柱を立て
この島がわが国の領土であることを示した。

近藤は同年、幕府は蝦夷地全体を直轄地とし、
廻船問屋である高田屋嘉兵衛(1769〜1827)に
国後島から択捉島までの航路を開かせ、
嘉兵衛に「蝦夷物産売捌方」としての役職を与え、
「商場」としての「択捉場所」(17ヶ所の漁場)を開設させた。

さらに、ほとんどがアイヌである同島住民1,118人の
人別帳を作成し、漁法を指導するなどし、
実効支配の確立を図った。

「大日本恵土呂府」の木柱はこうした実効支配の
象徴とも言うべき標柱である。
                           (つづく)

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