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プラハ、ベルリン、ウィーン [2010年05月05日(Wed)]





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聖心女子大で私の授業をとっている
約100人の学生のほとんどが平成生まれである。

だから、米ソの対立も、「ベルリンの壁」も
まさに歴史上の出来事。私にとっての
「2.26事件」や「真珠湾攻撃」に相当する。

4,5人に聞いてみたところ、
「高校の世界史ではそこまでは行かなかった」
「ヨーロッパのど真ん中の南北にに長大な壁が
築かれていたんですってね」という始末。ほとんど知識がない。

しかし、冷戦は「アラ古希」の筆者には
まさに同時代的世界史だった。「壁」は、
筆者の学生時代1961年の夏に突然、築かれ、
28年後に、これまた突然、破壊され、
一部を記念碑のようにして残したのみで、
完全に消え失せた。

1871年1月、ドイツはプロイセンを中心に再統一、
ドイツ第2帝国が誕生した。このときの国旗は
黒白赤の横三色旗。第一次世界大戦で日本と戦った
青島のドイツ軍はこの旗を掲げていた。

第一次世界大戦に敗れた1919年に、
ドイツは共和制の国家に変り、国旗は現在と同じ
黒赤金の横三色旗となった。

その後のナチス時代には、
かのハーケンクロイツ(鍵十字)になったのは
ご存知の通り。「日の丸」が明治維新でも
第2次世界大戦での敗戦でも
変らなかったのとは好対照である。

そして、第2次世界大戦での敗戦で、
ドイツは英仏米ソに分割統治され、
やがて東西両ドイツがそれぞれに国連に加盟し、
2つの国になった。1973年のことだ。

それから16年、「壁」が崩壊し、
ドイツの再統一がなされたことで、
東独の国旗も消えた。

東ドイツの国旗が消えて20年が過ぎた。
しかし、依然、その爪痕は格差として残っている。

それだけに東独出身のメルケル女史が首相となったことは、
民主国家として価値ある成果と言えよう。

世界に新たな陣営による対立の萌芽はないか、
国民の多くが逃げ出したくなるような国家はないか、
国旗が消えてしまいそうな国はないか、
私はゆっくりと地球儀を廻して見ている。

 GWが終わり、また聖心での授業が始まる。
わが師・末次一郎先生の言う「温故創新」、
学生にも、ここ200年程度の世界の歴史を
少しは学んでもらえるように仕向けたい。

 このGW、さまざまな本に親しんだが、春江一也の
『プラハの春』
『ベルリンの秋』
『ウィーンの冬』(各上下、集英社文庫)には、敬服した。

歴史的事実、著者の外交官としての現場的な経験に加え、
作家としての、陰謀の構想力、国際的なロマンのスケール、
さらにはセックス場面の描写に至るまでご立派。

同時代を経験してきた者としては、時折、
書を膝に置いて窓外を眺めて休まなくては
先が読めない怖ささえあったことを告白せざるを得ない。
読者を眠らせない本とはこういうものか。
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コメント
まさに「プラハの春」のさなかと直後に、
私はプラハを訪問し、あの百塔の街の美しさに惚れました。
いつかはシルベスタにも滞在し、
ジャスト0時、なんとメキシコの17歳の女の子とキスしちゃいました。当方、30近かったのですが。
街にのこるドプチェクを支持する落書きがずいぶん長期間、そのままになっていたことだけでも、国民がいかに彼とその近代化された共産主義を望んでいたかがわかるというものでした。
そう、今でもワインを飲みながら、人と街を思いながら回想します。
Posted by: 吹浦忠正  at 2010年05月24日(Mon) 07:23

春江一也氏の『プラハの春』。吹浦先生が「敬服」と仰るとおり、中身もスケールも深くて大きくて、私も楽しませていただいています。プラハの美しさは、共産主義の傀儡の時期を耐え抜いて過ごした後のものなのですね。。仕事の後の一区切りに美味しいワインを・・・どうぞ。

Posted by: 木下 園子  at 2010年05月22日(Sat) 23:01