看護界の先駆者・現代版 [2008年04月02日(Wed)]
恩師の娘であり、かつての同僚が朝日新聞(3月27日付)夕刊の「ニッポン人脈記」で登場した。「みんな、その日まで:13 手をあてて、それが看護」という中でのこと。 私は1972年から約20年、日本赤十字中央女史短期大学、日赤看護大学の教員だった。川嶋みどりさんはそのころから、看護婦には珍しい?論客だったし、著述から多くのものを学ばせていただいた。 その川嶋さんから大きな影響を受けたという人が、村松静子さん。私にしてみれば、秋田大学学芸学部付属中学校の後輩であり、ご尊父・高橋賢一先生(通称「タカケン」、生徒間の呼称「おとうちゃん」)は、理科の教師であり、かつ学年主任であった。 加えて、日赤中央女史短大では同僚でもあった。 訪問看護の大切さを説く遠藤周作さんと意気投合し、独立して、訪問看護の先駆者になった。川嶋、村松両さんは、看護界で「この人を知らなければウソ」と言われるまでの存在感のある指導者となっている。 「おとうちゃん」は受験雑誌の執筆者としても活躍しておられた。「この父にしてこの娘あり」といってもいいし、「吹浦の後輩とは思えない立派な人」といわば言え。 昨年末、恒例のメヂカルフレンド社忘年会で久々にお互いの壮健を喜びあった。さらなる活躍を期待している。朝日新聞嫌いの人にも読んでもらいたくて、紹介した次第。 //☆//☆///☆/★\\\\☆\\\\☆ フローレンス・ナイチンゲールは19世紀のクリミア戦争で傷病兵の手あてに尽くし、「クリミアの天使」と慕われた。ナイチンゲール記章は看護に献身した人に赤十字国際委員会から贈られる。 日本では大正期から100人。昨年5月に栄誉を受けた川嶋(かわしま)みどり(76)の看護人生は、患者の体に手をあてることから始まった。 ソウル生まれ。敗戦の翌年に引き揚げ、東京の日本赤十字女子専門学校へ。19歳で看護師になって10日目、重体の9歳の女の子の全身をお湯にひたしたタオルでふく。脈が力強くなり、食欲もでた。「体をきれいにするだけでなく、命まで救えるんだ!」 地質調査の技術者の威(たけし)と26歳で結婚、男の子2人の母になる。働き続けたくて仲間と病院に保育所をつくった。当時、夜勤は1週間ぶっ通し。ナイチンゲールの言葉「犠牲なき献身こそ真の奉仕」に力づけられ、60年にストライキ。「私たちは白衣の天使じゃない。人間らしい看護をするために、人間らしい生活を」と訴えた。 理論物理学者武谷三男(たけたにみつお)の技術論に目を開かれ、看護学セミナーを始め、研究所もつくる。論文400、著書100冊余。03年、日赤看護大学教授になった。 夫の威が「入れ歯が合わなくなった」といいだすのは06年2月のことだ。舌がん。手術で舌を切除した。自宅療養の毎日、ミキサーで流動食をこしらえる。07年3月、威は痛みを訴えて緩和ケア病棟に入り、川嶋も付き添った。 臨床から離れて30年、患者家族の身になってみると、つらいことが多かった。注射の前、手首につけたバーコードで本人確認をする。ピピッ、ピピッと電子音。「顔を見ればわかるのに、スーパーの商品みたい」 威が「胸が苦しい」というと、若い看護師は動脈血の酸素の濃さを測る機器をもってきて数値を読み、「大丈夫です」。川嶋はいらだった。モルヒネの量をふやしてすぐ出ていく看護師に「もう10分、みていられないの?」。 一番ショックだったのは、せっかくの緩和ケア病棟なのに機械や薬ばかりで、肝心の、手でふれるケアがほとんどなかったこと。「背中をさするとか体の向きを変えるとかで、すごく安らぐ。ナイチンゲールも言っていますが、看護不足が患者の苦しみをつくるんです」 * そんなある日、後輩の看護師村松静子(むらまつせいこ)(61)が見舞いにきてくれた。病室に入るなり、威の背中に手をあて「肩こってませんか?」。すーっとマッサージした。威は涙を流し、「パンパンです」と筆談の紙に書いた。 村松は26歳で長女を産み、退職しようかと悩んだとき、川嶋に「続けることが大事」と励まされた。33歳で日赤医療センターの集中治療室の初代婦長に。羽田沖の日航機墜落事故などで瀕死(ひんし)の人たちを大勢看護した。 「患者さんのつらいところに、すぐ手がでるんです。川嶋さんの病室にいったときも、自然に」 07年4月、威は川嶋に手を握られて亡くなった。79歳。「アリガトウ」と書いたのが最後の言葉となる。悲痛のなかで闘病の筆談記録を読み返し、川嶋は思った。 医療のIT化でモニター画面を見る時間が長くなり、なまけているわけではないのに、手でふれるケアがおろそかになっている。熱やむくみがないか、手をあてればすぐわかるし、そのぬくもりは患者の不安を癒やす。 「それが看護の基本、ケアの心と私は30年、全国を駆け回って教えてきた。それが実っていない。いったい何を教えてきたのか、反省しました。痛恨のきわみ」 機械化が進み、みとりの場でさえ、ナースが心ならずも「歯車」になっている。いまこそ人の手を。川嶋は「手あて学」をつくりたいと夢みている。看護の手のはたらきを研究して大切さを裏づけ、「TE−Arte」(テアテ)として世界に広めたい。 * 人は、いずれ死ぬ。大切な人とも別れなければならない。だからこそ、旅立つ人も、みおくる人も「いい人生だったな」と思える最期にしたい。みんなにくる、その日のために。 (本文は敬称略) |