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赤十字J [2008年03月31日(Mon)]






  今春、佐賀では佐野常民展が開催されている。
 佐賀空港の掲示より。





 1867年、これは大政奉還の行われた年ですが、この年にパリで万国博が開かれました。

その万国博で、この国際赤十字が小さなパビリオンをつくりました。

そして、馬で引く救急車とか、手術用具とか、その当時の様々な医療機械の最新のものを展示しました。

その万博を、この万博にパビリオンを出して参加した鍋島藩の佐野常民が見物したわけです。日本からはほかにも、幕府と薩摩藩が別途、参加しました。

 この赤十字のパビリオンが軍事・軍需会社クルップ商会のパビリオンと真向かいになっていたのです。

この当時のデュナンは、アルジェリアでの農業会社の失敗でスイスのジュネーブの裁判所で破産宣告を受ける寸前でした。

よほど気が荒れていたのでしょうか、そのクルップ商会のパビリオンと自分がつくった赤十字を向かい合わせにしているのは気に食わないというので、展示物を次々と倒すという奇行を行ったのです。蛮行というべきでしょうか。

これが彼の前半生の表舞台での最後と言っていいのではないでしょうか。

 このあとデュナンは破産をし、諸国を流れ流れて、第1回ノーベル平和賞を授与される直前に発見されます。

1896年(明治29年)10月10日付の「東京朝日新聞」には「赤十字創立者の窮境」との見出しで、「栄えある赤十字の創立者、清貧院にて呻吟」という記事が出ております。

これは直前にスイスの記者がデュナンを発見したという記事です。

この記事で言う清貧院というのは現在もスイス東北部の山村であるハイデンにある病院のことです。デュナンはこの高齢者用福祉病院で晩年の23年もを過ごしたのです。

1979年に、私はその病院を訪ねてみましたが、当時子どもだったというおばあさんが、デュナンを知っていました。病院の窓から紐でリンゴを吊るして、さあ、とってごらんと、子どもたちと遊んだというのです。

この「デュナン発見」の記事がいわば世界的なスクープになって、極東の日本にまで伝わり、センセーションを巻き起こしたのです。

このことが、20年後、すなわち1901年の第1回目のノーベル平和賞がデュナンに授与されるきっかけになりました。
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